第六章 The Apologizer

6-1

 冬は唐突にやってきて、椿姫市をすっぽりと包みこんだ。肌寒い風が吹き荒び、街道沿いのイチョウの葉がだんだんと寂しくなっていった。

 俺がサエグサ・アート・アカデミーで臨時講師として勤め始めてから、もうすぐ一ヶ月となる。教室の窓の外で降り注ぐ枯れ葉を目で追いながら、そのことを思った。

 思い返すとあっという間だったような気がしてくる。収入もちゃんと確保できている。姉の仕送りと比べたら見劣りのする金額だけれど、俺一人分の生活はどうにかまかなえた。食費と、画材があれば、俺は充足できた。

 画材といっても、この頃は主に生徒たちに教える内容を振り返るために使っていた。自分の作品としての絵は依然として描けないままだ。何を描いたらいいか、ピンとこない日が続いている。絵を描く仕事を取ってくれば少しは変わってくるのだろうが、そこまでするやる気が起きない。

 今のところは、講師としての仕事に専念するのが最もやりがいがあった。

 教えろと言われて、最初のうちは適当に参考書から抜粋すればいいと思っていた。絵を描きたいだけならば、技術を多少身につけば良いのだから。けれども取り組んでいるうちに、生徒たちを眺めながら自分の過去を振り返るようになった。自分が絵画を描きたいと思ったときから、大学をやめて資料集を買い漁って独学したとき、他の人の絵を参考にしようと画廊に足繁く通っていたとき。俺にも技術を習得しようと躍起になっていた時代があった。

 その頃の記憶が、参考書の内容を補足したり、自分の意見を加えたりするのに、案外役に立ってくれていた。

「できた!」

 生徒の一人がおもむろにキャンパスの前で立ち上がった。

「よし、見せてみろ」

 俺が手招きすると、生徒は笑顔で俺に近づいてきた。絵を見せたくて仕方ないのだろう。どんな評価が下されるのか全く恐れずにいる。子どもたちと接するようになってから、よく目にするようになった笑顔だ。とにもかくにも自分の表現を誰かに見てもらいたいのだろう。

 彼らの発表を見る最初の一人に俺はなっている。しみじみとした感慨を胸に抱きつつ、絵を見た。

「森の絵なんだね」

 キャンバスの下半分は緑の樹木が林立していた。大小は様々で、太さも違う。もしかしたら種類の違いも描き分けているのかもしれない。色合いは鮮やかだ。影になるはずの部分にも明るい色が混ざっていた。上半分は青く抜けるような空だった。

「夏っぽいな」

「うん」

 男の子は大袈裟なほど首を縦に振った。笑顔がますます濃くなる。

「どうして夏?」

「寒いから」

 なるほど。唇を丸めて俺も笑った。

「いい絵だ。描きたいものがちゃんと描けていると思う。好きなものを好きなように描くのが一番大事だからね。森にも君らしさがあっていい。空にもう少し、何かがいたらもっと楽しいかもな。鳥とか、雲とか、それ以外にも、きっと何かが飛んでいるから」

 その子は礼を言って席に戻っていった。

 俺も森の絵をよく描いた。がむしゃらにイメージをぶつけたときに、森が最も描きやすかった。

 あの子はどうして森の絵を描いたのだろう。問いかけても明確な言葉は返ってこないのかもしれない。あの子の感じるままに描いて、それがたまたま森の絵になった。もしもそうだとしたら、少し、嬉しい。

「そろそろ時間かな」

 教室の奥、事務室へと通じる扉から、三枝さんが姿を見せてそう告げた。風邪を引いてしまったらしく、顔の下半分はマスクに覆われており、声も嗄れていた。

「無理しないでください。俺が号令をかけますから」

「悪いわね、竜水君」

「いいえ」

 終業を伝えると、生徒たちは立ち上がった。勢いの良い者は少ない。小一時間キャンバスの前に座ってすっかり疲れ切った顔をした子も結構いる。もう少し休憩を挟めば良かっただろうか。描く前にもう少し技法の話をした方が実践しやすかっただろうか。

 反省は考え出すととまらない。吐息をついて外を見た。落ち葉の見えていた街道もほんの少し目を離した隙に薄闇に染まり始めていた。

「先生、さようなら!」

 子どもたちの声を受けて、俺も「さよなら」と返してあげた。最後の一人が出て行くと、玄関の扉を閉じ、下駄箱に忘れ物がないことを確認し、事務室へと戻った。

「竜水君、雰囲気変わったわね」

 長机に肘をついていた三枝さんが、俺を見るなりそう言った。

「そうですか?」

 三枝さんに向かい合う形で、俺も座った。パイプ椅子の薄い皮の冷たい感触があった。

「うん。子どもに対して柔らかくなった感じ。前はもっとぴりぴりしていた」

「気楽ではあります。商談とかと違って、気を張り詰める必要もないし」

「それ以前に、もっと根本も変わってきていると思う」

「根本?」

「なんとなくだけどね」

 三枝さんは目を細めた。マスクの下は笑っているのだろう。

 俺が答えに窮しているうちに、三枝さんは立ち上がった。

「竜水君、一ヶ月働いてくれたお礼に、ちょっと渡したいものがあるの。待っていてくれる?」

「いいですけど、なんですか」

「言ったらつまらないじゃないの」

 それもそうか、と俺も苦笑いを返した。

 三枝さんが奥に引っ込む。やっぱり病気が残っているらしく、後ろ姿はなんだか妙に弱々しく見えた。あんまり無理をさせてはいけないのかもしれない。手伝おうかと思い立ったが、行ったら止められるだろうと思い直した。

 事務室にある小さな窓からも外は見られた。もう夜だ。隣の家の明かりや、落ち葉に反射した月光が白く淡く見えている。

 ぼんやりと眺めていたら、黒い小さな影が見えた。落ち葉を踏む音がする。小動物が庭に紛れ込んできたのだろう。見ているうちに輪郭がはっきりしてきた。色はわからないが、おそらく黒だ。四つの足があり、尻尾が弧を描いている。尻尾の先にはリボンが巻き付いている。

「あれ」

 猫だ。

 どこかで見たことがあるような気がする。

「竜水くん」

 後ろから声がした。よりいっそう、嗄れている気がした。

「三枝さん、あれ」

 そのとき唐突に、俺の視界は暗くなった。意識の途絶えるその最中、遠くで黒猫の声を聞いた。

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