6-2

 感情の不思議さに気づいたのは、いったいいつからだったろう。

 とても小さい頃、僕は怒っていた。何に怒っていたのかはもう思い出せないが、とにかく苛立っていて、ところ構わず物を投げていた。両親は僕を宥めるのに必死になっていた。当時の僕にはその気持ちは推し量れなかったけれども、景色だけは鮮明に覚えている。

 母さんは僕の頭を撫でて、それでもだめだとわかると僕を抱きしめた。母さんの肌に埋もれているうちに僕の気持ちは落ち着いていった。

 ようやく抱擁から解放されると、世界が違うように見えた。床に散乱した積み木が僕の投げたものだとはわかっていたけれど、何故投げたのかが思い出せずにいた。僕がした行動なのに、僕がその理由を覚えていない。これは感情の仕業なのだと、僕はしばらくあとになって気づいた。

 感情は人の行動を支配する。どんなに冷静になろうとも、感情そのものを操ることは出来ない。思いも寄らない感情が、その人の思考回路を変える。その場の選択を、その人の生き方をがらりと変える。どんなに自律して生きようとしても、実は感情の命令に逆らうことはとても難しい。

 僕が抱いたこの予感は、学習を深めるうちに確信へと変わっていった。人間の感情がどこからくるのか。その科学的根拠は何か。脳の構造は把握しても仕切れないくらいに複雑だ。やがて電子工学を学び、僕の研究対象は次第に人工知能へとシフトしていった。

 人は感情を操ることが出来るだろうか。

 研究は今も続いている。大人となり、大学を卒業し、咲良グループの研究施設に勤めている今も、ずっと。

 

 乾いた風が肌を撫でて、澄み渡る青空へと抜けていく。冬の空は誰に対しても開かれていた。僕に対しても、隣を歩いている小さな人工の命たちにも。

「ハンナさんだ」

 赤い髪の子、フェイが、一足先へと駆けていく。その先には一人の女性が立っている。車椅子に乗ったその姿が、空の下へと出てくるのを久しぶりに見た。

「体調はどうだい」

 フェイの頭を撫でるハンナに尋ねると、笑みを浮かべた顔が返ってきた。

「とても良いの。不思議なくらい。風が強いって聞いていたけど、そうでもないわね」

 胸に手を当てながら、ハンナは空を観た。見えるはずのない風の軌跡を追っているようだ。

 ハンナが患っていたのは肺の病だ。

 かつて世界各地で巻き起こった戦争で使われた毒ガスの名残が、その病の元となるウイルスを生み、拡散させた。学生時代に戦地の傍に赴いたハンナはその余波を食らい、今の今まで病気を抱え持っている。

 完治の見込みはとても薄い。だが、闘病の末に、今こうして日の目を浴びている。

 僕の口元は自然と綻んでいた。

「ハンナ、この子だよ」

 僕の背中に隠れていたその背中を、そっと押してあげた。

「あ」

 口にしたのは、その子自身でも、ハンナでもあった。

 向かい合うその子の名はナユタ。

 名付けたのは、ハンナ本人だ。

「初めまして」

 と、ナユタが頭を下げた。

 少し声が震えている。怖いのだろうか。

 気の毒に思って声をかけようとしたら、ハンナが先に口を開いた。

「ええ、初めまして。元気かしら」

 ハンナはナユタに笑いかけた。

 もう大丈夫、と僕には聞こえた。


 椿姫市のターミナル駅に隣接する形で建てられたドームはコンサートを鑑賞しに来た人々でごった返していた。開場まではあと十五分ほど。入場の混雑を甘く見積もっていた。僕はナユタの手を握り、ハンナの車椅子はフェイが押した。

 コンサートの主催者はカキツバタ・テクノ社お抱えの音楽団であり、提携した咲良グループの社員とその家族に今回のコンサートの招待状を案内していた。希望する人は応募して、抽選で三〇〇人が選ばれた。僕は運良く三〇〇人のうちの一人となったわけだ。

「どうしてコンサートに応募するよう僕に言ったんだい」

 係員に四人分の招待状を見せて、特別指定席に案内される道すがら、ハンナに尋ねた。色素の薄い前髪の奥でハンナが僕を見つめるのがわかった。

「私、音楽鑑賞が趣味なのよ。知らなかった?」

「知ってるよ。だけど病気だったし、カキツバタ・テクノ社も奮発しているからきっと君がうんざりするくらい混むだろうし。だから、君の方から頼まれたときはちょっと不思議に思ったんだ」

「そうね。混んでいるのはやっぱり苦手。でも観客は音楽を聴きに来ているんだし、昂揚している感じは好きなのよ」

「私も好き!」と、言ったのはフェイだ。

「わくわくするの、すごく好き。知らない人とでも、一緒になっている気になれるし」

 そうそう、とハンナが同調し、フェイと一緒に笑い合っていた。

 フェイは物怖じしない子だ。そういう傾向になるよう基礎的な感情を作ってあるとしても、実際にどんな性格になるかはその人工知能の育ち方次第となる。十五歳程度の素体に人工知能を埋め込む形で誕生したフェイは、まだ生まれて半年ほどの年齢だが、今のところ良好に成長しているようだった。

 何よりも、ハンナを支えてくれているのが嬉しい。

 小さく頷く僕の腕が、少し握られた。

 見下ろせばナユタの顔があって、上目遣いに僕を見ていた。

「どうした?」

 語りかけても、ナユタはなかなか喋らなかった。首を静かに横に振って、前を歩くハンナとフェイを不安げに見た。

 歩みに合わせて揺れる銀色の髪をそっと撫でた。

 潤んだ瞳がまた僕を見た。

「怖いかい?」

「よく、わからない。落ち着かないんです。さっきから」

 ナユタの心は、フェイよりもいくらか複雑だ。構造としても、成り立ちとしても。

 僕はもう少し力強く、彼女の頭を掌で包んだ。

「緊張しているんだ。そういう気持ちは誰にでもある。変なことなんかじゃない」

「直せないんですか、これは」

「うん。そういうのは直すものじゃない。故障じゃないから」

「どうにかなりませんか」

「それなら、ハンナと話すと良い」

 ナユタの双眸がやや開いた。

「私は別に、ハンナさんのことを言ったわけじゃないですよ?」

「でも、驚いたってことは、気にしていたんだろう?」

「それは、ええと」

「隠さなくていいよ。僕に気を遣わなくてもいい。ハンナと初めて会ったんだ。緊張するのは無理ないさ」

 人々の密度が薄らいだ。席を見つけた人たちが次々と座り始めている。開いてしまっていたハンナとの距離ももうすぐ詰められるだろう。

「さあ、行こう」

 ナユタの手を引こうとした、が、なぜか上手く動かない。

「菟田野さん」

 振り向くと、ナユタが顔を伏せていた。

「なんだい?」

 歩みを止めて、近づくと、ナユタが勢いよく目線を向けてきた。

 眉根に皺が寄っている。

「何でもかんでも知っているように言われるのは、嫌です」

 僕の思考が、一瞬止まった。

「ナユタ?」

 我に返って、手を髪に伸ばした。すると突然、ナユタの手がそれを払った。

「そうやって頭を撫でるのも止めてください。小さい子どもじゃないんですから、私」

 それに、と、ナユタが前を向いた。

 さっきの不安げな顔つきが一転した。眉根の皺は解けて、瞳は凜々しくハンナとフェイの方へ向けられている。

「怖いとか、緊張しているとかなんて、決めつけないでくださいよ。決めつけたら本当になっちゃうんです。私は怖くなりたくないし、緊張だってしたくないんです。そういう、もやもやしたものがあるんです。わかったら黙っててください」

 言い終えると、ナユタは走って行ってしまった。

 後ろ姿が遠ざかっていき、ハンナとフェイの間に割り込んだ。

 その様をまざまざと見続けて、僕は改めて息を吞んだ。

「あんな顔、するようになったのか」

 呆然と呟いた僕の言葉は、開演十分前を告げるアナウンスの音に掻き消された。

 照明が一段と暗くなる。

 僕の胸が高鳴っている。自分の考えもしなかった成果が得られそうで、いや、それ以前に、ナユタの変わりように驚きすぎて、なかなか鼓動が落ち着いてくれない。

 ハンナが僕を手招きしている。

「今行くから」

 逸る気持ちを抑えて、足を踏み出した。

 そのとき。

「やあ、菟田野」

 僕を呼ぶ声はすぐ後ろから聞こえてきた。

 すぐに振り向いた。

 掌が僕の目の前に現れる。

「よっ、久しぶり」

 緊張感が、解ける。

「沙雪さん」

「よく当選したね」

 咲良グループのトップに立つその人は、顔をフードで隠した姿で僕の後ろに立っていた。

「鑑賞ですか?」

「そうだね。一応、招待券はもらっているよ。私は社長だから特別待遇なんだろうな。でもじっくり聞く気はない」

「やっぱり、お忙しくて?」

「じゃなくて」

 沙雪の腕が僕の腕に絡まった。

「悪いんだけどさ、菟田野。ちょっとハンナさんと話つけて、私の方へ来てくれないかな? 話したいことがあるんだよね」

「え、今ですか」

「そうそう」

 断るわけにもいかず、ハンナに事の次第を告げた。いったいどうして、と言われても首を傾げるしかなかった。背後では相変わらず沙雪がニコニコ笑っていた。

 心配そうなハンナたちを残して、沙雪と一緒に連れだって歩いた。ホールから出て、会場を巻く廊下を渡る。人混みの進行方向と逆に進んでいった。

 やがて、玄関さえも超えて外に出た。

「ちょっと、勘弁してくださいよ」

 早足で進んでいく沙雪に声をかけた。「ん?」と、笑みを浮かべた顔が振り返ってきた。

「いったいどうしたんですか、沙雪さん。話があるからって、こんなに離れる必要がありますか」

 ホールの音はとっくに聞こえなくなっている。駅前広場の時計塔を見ると、あと三分もすれば演奏が始まるはずだった。

「うーん、聞かれたくない種類の話だと思うんだけどな」

「企業秘密ですか」

「そんな感じ」

「だったら」

 僕は首を回して、広場の隅にある庭園を指差した。

「あそこのベンチなんてどうですか。人気があまりなさそうですよ。声を潜めれば、近くの噴水で掻き消されます」

「ああ、なるほどね。そっか、却っていいのかも」

 沙雪は両手を大袈裟に叩いて、僕を手招きした。僕が指定したのにまるで彼女が先導しているようだ。

「声が大きくなっちゃったらごめんな」

 ベンチに先に座った沙雪が呟いた。

「いったい何を聞くんです」

 隣に座って尋ねると、同時に背後の噴水が高く上った。

「ま、単純な興味なんだけどね」

 そう前置きを踏んでから、沙雪は僕の顔を向いた。

「ナユタちゃんはさ、いったいどこの誰なのかな?」

 沙雪の顔が変わった。微笑みはまるで幻であったかのように消えた。あるのは表情の無い、雪のように冷たい視線だけ。

 知っているんだ、この人は既に。僕は咄嗟にそう悟った。

 沙雪が人の上に立つ才に長けていることを、怯んだ思考の片隅で僕は微かに思い出した。

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