5-2

「今日は写生会をしましょう」

 と、三枝さんが提案したのは、俺が絵画教室サエグサ・アート・アカデミーに講師として通い始めてひと月ほど経った頃だった。秋が深まり、絵の描きやすい時期ではあったけれど、唐突で、生徒はもちろん、俺も何も聞かされていなかった。

「場所とか、決まっているんですか」

「ううん、全然。でも邪魔にならなければ大丈夫よ」

 俺の問いかけを三枝さんは軽くいなして、「ねー」と生徒たちに語りかけた。生徒は勢いよく返事をしてくれる。反応の大小はあれど、嫌そうな顔はしていなかった。面倒に思っていたのはきっと俺だけかもしれない。


 俺は絵を描くに当たって、誰かに教えて貰ったことはない。逆に、誰かに教えてあげるということをした経験もほとんどなかった。まして絵を描く技術も目標もほとんどなく、ただ自分の赴くままに筆を握る子どもたちを相手取って、講師として働きつつも未だに迷っていた。

 彼らがいったいどうして絵を描くのか。何を表現したがっているのか。

 絵画教室は週に三回。そのうちの一回でも顔を出してくれたら、あとは自由。何をしてもいい。芸術活動に縛りを設けてはいけないというのが教室長である三枝さんの指導方針だった。

 何のルールも課せられていない生徒たちは、自分たちの思うがままに対象物を描き出す。椅子の上に置いた林檎を緑や青の縞模様に彩ったり、並べられたボールを地球と土星に置き換えたり。彼らの描くキャンバスの中では何が起こるのか見当もつかなかった。

 俺が教えていることは基礎の基礎だ。それこそ筆の握り方や、絵の具の溶かし方など。それ以上踏み込んでも、必ず興味を持ってくれるとは限らない。一度雲を描く技法を詳しく教えようとしたが、生徒のしらけた顔を見てすぐに止めた。知識よりも、彼らは自分の手を動かすのが好き。それが大前提だった。

 何かを作ることを生徒たちが楽しんでいる。それを見ているのは不思議な気分だった。迷いは胸中にあれど、居心地は悪くなく、むしろアトリエに籠もっていた頃よりも新鮮だった。


 三枝さんが選んだ場所は、近所の神社を取り囲む鎮守の森の傍の公園で、俺のアトリエからは森を挟んで反対側にある場所だった。三枝さんが率先して神主さんと話をし、あっという間に許可をもらってきた。後に聞いたところによると、俺が勤める以前から何度かこの神社で写生会を開いていたらしい。

 到着するやいなや、生徒たちは自分のキャンバスと画材道具を持って散り散りになった。今日は講師というよりも、彼らが勝手に道路に出たり、森の枝を折ったりするのを防ぐのが俺の仕事だった。いかに自由が方針といえども、こればっかりは警戒を怠れない。

 俺と三枝さんは生徒たちの動きを遠巻きに眺めた。木々の前に陣取る子もいれば、鬼ごっこを続けている子もいる。あまりの元気さにあてられて、俺は自然と溜息が零れた。疲労感に満ちた重たいやつだ。

「あのまま遊ばせておいていいんですか」

 子どもたちのはしゃぎ声をききながら俺は三枝さんに尋ねた。

「いけない?」

「絵を描いていない子が結構いるみたいですけど」

 三枝さんは「ああ」と頷き、微笑んだ。

「そのままにしておきましょう。ああやって遊んでいるうちに何か思い浮かぶかも知れないから」

 まるでスランプから目をそらしている画家の言い訳みたいだ、と思ったがそのまま黙っておいた。

 三枝さんに薦められて、彼女の敷いたシートの上に座った。湿り気のある地面の上を虫たちが歩いていた。数は少ない。冬が近い。

 時間がゆっくりと流れているようだった。雲の流れや、緩慢なその変化を目で追い続けていられるほどだ。真っ当な会社に勤めていたらきっとこんな時間はこないだろう。いや、ようやくアルバイトに漕ぎ着けた俺だって、この景色を今の今まで忘れていたように思える。上手い雲の描き方ならアトリエに仕舞ってある参考書でも読めばすぐ調べられるが、実際の雲の変化はなお一層つかみどころがなかった。

「おい、勝手に使うなよ」

 少し怒気を含んだ声がした。

 振り向けば、生徒の男の子が二人、向かい合って声を荒げていた。

「お願い、使わせてよ。その青使いたいんだよ」

 片方の男の子が、もう一方の男の子のパレットを差し示す。そこに広げられていた油絵の具は、瑞々しい青で、なるほど今日の空を映し出すのにうってつけの綺麗な色だった。

「ダメだ、俺が作ったんだもの。取ったら泥棒だぞ」

 泥棒、と言われた男の子は途端に息を吞んでしまった。

「そんなの言い過ぎだ」

「言い過ぎなもんか。泥棒、泥棒」

 声がどんどん大きくなるものだから、俺は「おいこら」と言いながら駆け寄った。泥棒と呼ばれていた方は顔をすっかり青ざめさせていた。呼んでいた方も俺を見上げて若干気まずそうな色を見せていた。

「友達のことをそんなふうに呼ぶな。誰だって嫌だぞ、そういうの」

「でも、俺の作った色だし……」

 青色を持った方が、項垂れてパレットを見つめた。声が自然と窄まっていく。反省していることは目に見えてわかった。このままだと目尻に溜りつつある涙ごと言葉も理性も流れていってしまいそうだった。

「少しくらい、いいんじゃないか」

 俺はそう提案したが、返事はどちらからもなかった。

 沈黙が続く。男の子たちはお互いに口を聞かず、目も遭わせない。俺の方も見ない。

 これは参った。どうやって折り合いをつければいいのだろう。

 できることがないか考えて、ふとパレットの上の青を見つめた。

 俺なら作れるだろうか。ただの青じゃない。セルリアンブルーに少しだけ紫色を混ぜ込んであると思う。全く同じのではないが、似たものを拵えることはできそうだ。そこまで考えて、「じゃあ俺が」と口にしたとき。

「それじゃ、君たち」

 と、俺の後ろから三枝さんが声をかけた。

「一緒にその色を作りましょう。私も知りたいの。君、教えてくれる?」

 三枝さんが小首を傾げて見つめると、青色を持った男の子は背筋を伸ばした。

「うん、いいよ」

「うん、ありがと。それじゃ君のパレットでしようか」

 もう一人の男の子を振り向いてそう言うと、その子もまた「うん」と言った。

 泣き出しそうな空気はもうどこにもない。

 俺は三枝さんと子どもたちの間で呆然とした。まるで魔法にでもかけられたかのようだった。

 その気持ちは写生会の間もずっと続き、夕陽が西に暮れ始めて、生徒たちを連れて教室に戻り、生徒を帰し、やがて三枝さんと二人きりになってからも、もやもやと頭の中に残っていた。

「あれは何だったんですか」

 最後の生徒を見送ると、三枝さんを振り向いてすぐに尋ねた。前後のつながりも何も無い質問だったけれど、三枝さんは目を瞬かせたのち、「写生会でのこと?」と尋ねてきた。俺は頷いた。

「うーん、勘、かな。こうすればあの子たちはお互いに納得するかな、って思って」

「本当に勘ですか? 何となくで、あんなに綺麗に収められるんですか」

 俺は三枝さんに一歩詰寄った。教壇の上。小さな教室に置かれているそれは狭くて、すぐに三枝さんの傍に辿り着いてしまう。

 三枝さんの目が見開かれ気味になっていた。男の俺に近づかれて少し怖がっているのかもしれない。

「すいません」と口で言った。が、足は引かなかった。そのまま続けて質問をした。

「三枝さんはどうして子どもたちの気持ちがわかるんですか」

 今日だけのことを踏まえての質問では無かった。

 サエグサ・アート・アカデミーで働き始めてから、いつも感じていたことだ。

 三枝さんは、いつも落ち着いている。子どもたちはもちろん、俺にとっても話しやすく、打ち解けやすい人だ。そして小さな争い事が起ころうとすると、いつも自分で止めに入る。それも力尽くではなく、言葉だけを用いた柔らかな方法で、子どもたちのうちの誰かを傷つけることなくその場を丸く収めてしまう。

 今に始まった話ではない。俺は三枝さんのことを本気で尊敬し始めていた。

「気持ちを読むだなんて、そんな大袈裟なものじゃないわよ」

 三枝さんが顔の前で手を勢いよく振った。

 三枝さんに笑われて、俺はようやく身をひいた。身体の緊張が解された心地がした。

「でも、俺はあんなふうにはできないです」

「そう? 竜水くんはよくやってくれていると思うけど」

「あ、いや」

 三枝さんは、ここに来てからの俺のことを話しているのだろう。

 でも俺の念頭にあったのは、ここに来る前の、ナユタとの別れ際のことだった。

 自分が三枝さんを羨ましく思っていると面と向かって話したことはない。今日、この日が初めてだろう。

 自分の心の中でだって、ちゃんと言葉にしたことはなかったと思う。

 ここの子どもたちと接している最中、喧嘩やいざこざを起こしている生徒を前にしている最中、ふと頭の中にナユタの顔が浮かぶことを、誰にだって言ったことはなかった。

 だから、いざ言おうと思っても上手く言葉になってくれない。

 黙っていると、耳に秋の虫の声が聞こえてきた。車のクラクションや、どこかで鳴っている救急車のサイレンの音。黙っていると、夜は案外賑やかだ。

「未熟だからよ」

 三枝さんはおもむろに口を開いた。

「ここの生徒たちは小さな子ども。大人と比べたら、当然人と上手に交流なんてできないの。思ったことはすぐに言っちゃうし、やろうと思ったことはすぐに実行しちゃう。それに、特に芸術に関心のある子どもは、こう決めつけるのもよくないけど、普通の子と比べたらもっとずっと自分を大切にしている気がするわ。自分の考えや、感覚を強く信じてなかなか曲げない」

 私の夫もそんな人だった、最後にこっそり三枝さんが付け加えていた。周りが静かでなかったら、聞き逃してしまいそうなくらい小さな声で。

「だからね、竜水くん。そういう子たちを相手にするときは、絶対に見下しちゃだめよ。子どもだからって、侮ってもだめ。尊重するの。未熟だからこそ、彼らの表現したい気持ちを大切に守ってあげる。そう思っていると、どういう風に相手するのが良いかわかってくる気がするな。なんて、いつも上手くいくわけじゃないけれど」

 またしても、三枝さんの手が勢いよく振られる。風を切る音が聞こえるほどだ。

 俺の身体は痺れたように硬直していた。

「竜水くん?」

 呼びかけられても、まだ思うようには動かない。目線は三枝さんを外れて彷徨った。脚も手も気づかぬうちに微かに震えていた。

「そう、ですね」

 呟きながら、顔が熱くなるのを感じた。

 頭の中にナユタがはっきりと映っている。無表情だと思っていたその顔が、玄関先で俯いている。

 陰が差し込む加減のせいで、まるで泣いているように見えた。

 あの子はこんな顔をしていたのだろうか。

 こんな顔をさせてしまっていたのだろうか。

 胸の奥が窄まっていく感じがする。自分のしてきた行いが、経緯はどうであれ、何もかも良くないことのように思えてくる。

 未熟なのは、ナユタだけじゃない。俺だってそうだ。俺はどれだけの人を傷つけてきたのだろう。自分一人を大切にし続けて、今まで。

 ナユタとは別に、懐かしい顔もうっすらと浮かんでくる。二度と思い出すまいと意気込んでいた父の顔。

 口は自然と動いていた。

「すまなかった」

 胸に抱いたその心地を、俺は今まで誰に対しても押し殺してきていたように思えた。

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