第五章 The Supporter

5-1

 外で茂る葉を潜り抜けた緑の光が球形の水槽に注ぐ。その中では小さく鮮やかな魚が、波間に揺れて綺麗にたゆたっていた。

「可愛いだろう。研究所でじっくり一年育てたグッピーだよ」

 私の夫、菟田野靖は誇らしげに言った。

「アニマルセラピーなんて言葉もあるくらいだ。動物の自由な動きを観察することは、僕たち人間に安らぎをもたらす。僕には専門外だけど、きちんとした理論だって確立しているれっきとした治療法だよ」

 だからこれをここに置く、と言って私の枕元の台座に水槽を置いた。

 病室には私以外の患者は入っていない。発病の原因がストレスなので、病院の側から特別に配慮してもらった。もちろん急病人が何人も運ばれてくればこの部屋にも埋めざるを得ないだろうけれども、今のところはそんな心配は無い。山奥の、閑静な森の中に隠れたお屋敷のような病院だ。

「どうしてグッピーを飼っていたの?」

「おかしいかい?」

「実験でもないのに、あなたが他の生物を愛でるなんて聞いたことなかったもの」

「ひどいなあ」

 水槽をひとしきり撫でた後、菟田野はスツールに腰掛けた。音はほとんど立てなかった。。

「何か考えているんでしょ。それで、ここを尋ねる口実が欲しかった」

「君は相変わらず察しが良いね」

 菟田野の口元に笑みが広がるのが見えて、自分の言葉の正しいのを悟った。

「なら、単刀直入に言うよ。君の意志を確認しに来たんだ。ナユタのことについて」

 菟田野の言葉は私の中で重く落ちた。

私は目を伏せて、シーツの上に軽く握られた手を見つめていた。菟田野も気を遣ってくれたのか、しばらくの間黙ってくれていた。

 時間が静かに流れていく。陽光が赤みがかってくる。夕暮れも近い。

「もしも君が望むなら、僕はあの子を止めてもいい」

 予備動作も何もなく、菟田野が言い切った。

「そんな」

 思わず口にした私に向かって、菟田野は眉を上げた。

「嫌かい?」

 すぐに否定はできなかった。

 菟田野の『止める』は機械の電源を切ることとは違う。データの消去。今までの記憶のリセット。ナユタという人格をこの世から無くすこと。

「でも、君だってそれを望んでいたんだろう。だからナユタに会わなかったんだ。違うかい」

「それは……」

 その気持ちが無かったことを、私には断言することが出来ない。

 ナユタが私に会いたがっている。菟田野からはそう聞いていた。菟田野の知り合いの画家の家に居候している傍ら送られてくる手紙に、毎回私のことを危惧する文章が書かれていたのだという。一度も会ったことのない私のことを、菟田野の恋人だからという理由で慕ってくれているらしかった。

 ナユタの気持ちはシンプルで、だからこそ好ましくもあり、重苦しくもあった。

「僕は君に強制はしない。君のしたいようにすればいい」

 菟田野の目はもう笑っていなかった。

 夕方の赤い光に晒されて、その顔は陰影を濃くしている。

「研究は続ける。いずれはナユタも必要になってくるだろう。でも僕は、君がこれ以上苦しむ姿を見たくないんだ」

 遠くで鴉が鳴いている。一羽、二羽。何羽も群れて、空を羽ばたいている。

 ナユタ、那由多。

 その名前を名付けたのは私だ。

 口に出して呼んだことは、今までに、ほんの数回しかない。

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