3-5

 宵の口に降り出した雨は、夜が更けていくにつれて勢いを増していった。

 ビル群のあちこちの灯りを映した水溜まりを踏みしめて、俺は道をひた走った。体力も無いくせに、無理な体勢で、息が上がるのも堪えていた。

 角をいくつも折れて地下鉄に乗り、びしょ濡れの俺に向けられる奇異の視線をひたすら無視して、最寄りの駅まで帰り着いた。心配した駅員の呼び声が聞こえたが、目もくれずに逃げた

 高い塀に囲まれた住宅やケヤキの並木に囲まれながら、歩き慣れた道を進んだ。もう走ってはいなかった。一歩一歩踏み締めて、時間を掛けて自宅に辿り着いた。

 インターホンを押したらほどなくして「どうぞ」と聞こえてきた。

 扉を開けばナユタがいて、俺を見て目を見開いた。

「体温が異常に低いです」

 ナユタの手が俺の頬に触れようとする。俺はとっさに腕で払った。

 ナユタが小首を傾げる。当惑した表情を浮かべて見つめてくる。

 ナユタが何かを言い出す前に、俺は手に持っていたものをつきだした。

 布に巻かれたキャンバスだ。

「それは、今日贈呈する絵ではありませんか」

 俺が頷くと、ナユタの眉根がますます皺を刻んだ。

「どうしてここにあるんですか。贈呈というのは贈り物のことですよね。どうしてそれを竜水さんが」

「贈るのを止めてもらったんだ」

 上がり框に脚を載せて、ナユタのすぐ脇に立ち、キャンバスを覆っていた布を取った。玄関の灯に照らされたその絵は森なのだが、暖色の元では重苦しい黒に見えた。

 ナユタによくわかるように、キャンバスの下に指を向かわせた。ナユタから見て右下に、白い油絵の具で描いたマークがある。星の形をした名前のもじりだ。

「これは俺のサインじゃない」

 言い出すときに声が掠れた。

「絵を描いているときは違う。この尖った部分はなかった。俺のサインは丸円だから。それじゃ、このマークは誰が描けたのか。機会は唯一、お前に運搬を手伝ってもらったときにしかなかったはずだ。だから」

 言い張る代わりに、俺はナユタをじっと見据えた。

 ナユタの瞳もまたまっすぐ俺を見つめていた。悲しんでいるわけでもなく、怒っているわけでもない。怯えてもいない。澄んだ綺麗な瞳を俺に向けてくる。

 この子はやっぱり普通の人ではないんだ。そう確信するに足るほどの綺麗さだった。

「それは私が描いたマークです」

 参考にした方として、ナユタは当世でも人気の高いデザイナーの名を挙げた。

「私の調べによれば、その方のサインがもっとも低コストで竜水さんのマークを加工して似通わせることのできるものでした」

「よく、わからないんだが」と竜水は首を微かに振った。「どうして真似なんかしたんだ」

「絵の人気はブランド力です。人気の高い画家が絵を描けば、それだけ評価も高くなる。逆に人気のない画家の絵はなかなか評価を得にくい。竜水さんがいくら頑張っても、無名であるうちは良い結果など生まれません」

 ナユタは平然と言ってのけた。俺が黙っているうちに、また言葉を重ねた。

「人気の出る作家には運がなければなりません。たまたま誰かの目にとまり、紹介されなければ、埋もれてしまいます。私は竜水さんの絵をパーティの来賓たちに目立つようにしたかったのです」

「それで、俺の絵が他の実力のある画家のものと間違われればいいと思ったのか」

「はい」と、ナユタは躊躇いもなく言った。

 俺は息を吐いた。頭の中が真っ白になっていた。口を開いたら喉の奥が震えた。笑おうとしたがどうしてもできなくて、何もない屋根を見上げて口を歪ませていた。

 一分ほど経った頃、俺の口がようやく動いた。

「当たり前だろ、そんなの」

 ナユタを見下ろしてそう言った。

「人気が出ないうちは誰の目にもとまらない。それをわかっていながら、俺は絵を描いている。誰かの目にとまることを信じているんだ。それくらい、わからないかな」

 一歩、ナユタに近づいた。

 ナユタの瞳に俺が映っているのがわかる。笑っているつもりだったのだが、そんな風には見えなかった。

 そこには一人の男が映っていた。家業を捨てて、社会のルートを逸れて、やりたいことをやってみて、上手くいかない日々を悶えながら過ごしているただ一人の男だ。

「お前がどう思おうと、俺にはもう描くしかないんだよ。これが無くなったら俺は何もなくなるんだよ、なんにも。わからねえかな。お前ずっとこの家にいて、俺のそばにいただろ。だったらさ、なあ、いい加減わかってくれよ」

 俺は手を伸ばし、ナユタの頬に触れた。恐ろしいほど冷たかった。血などどこにも通っていないのだとはっきりわかった。

 ナユタが初めて息を止め、後退った。俺の手が宙に揺れる。

 ナユタは恐怖を感じたようだ。あいにく狭い廊下なので、踵がすぐに壁にぶつかった。俺は構わずさらに距離を縮めた。

「わかりません」

 ナユタの声がほんの少し揺らいでいた。

「私には、わかりません。名前が売れれば絵が売れます。収入が増えれば生活が安定します。将来の不安も消えます。竜水さんを認める人も増えます。いいことずくめなはずです。それをどうして」

 ナユタの瞳が俺を見ている。狼狽えているのがよくわかる。

 もういいだろう、菟田野。俺は口に出さずに告げた。これだけ心が発達したのだから、もう実験も万々歳じゃないか、と。

「わからないなら、もうここには来ないでくれ」

 言うと同時に、ふたたびナユタの顔に手を伸ばした。捕まえて引っ張ろうと思った。後ろに下がれないナユタの頭は簡単に捕まえるはずだった。ところへ、ナユタが首を逸らした。髪に触れる代わりに、耳の突起部が手に当たった。つかみやすい部位だ。

 人間らしくない、金属質の冷たい部品。

 それを握って、外へ投げ飛ばそうと力を込める。

「やめて!」

 俺の思考を断ち切るように、ナユタが金切り声を上げた。普段より数倍大きい。人の声じゃない。警報のような音。

 その双眸が赤く輝いた。

 驚いた俺の身体が宙に浮いた。

「え?」

 開けっ放しだった玄関から押し出され、夜気の中で倒れ込みそうになる。

「おい」

 慌てて振り返った途端、息が詰まった。

穴が俺に突きつけられている。

ナユタの掌が、その中央に開いた虚空が俺を見ている。

 ナユタの口が動き、普段とは全然違う音を発している。

 防衛プログラム始動、防衛プログラム始動、防衛プログラム――対象を、捕捉――

 鳥肌が立つのを感じながら、俺は夢中で叫んでいた。

 たたきつけるように玄関を閉められ、風の巻き上がるのを感じた。

 そのあとは、何も起きなかった。

 しばらくしてから扉を叩いた。インターホンを押した。ナユタの名前を呼びかけもした。そのどれもが何の効果もしめさない。

「どういうつもりだ、ナユタ」

 怒鳴った言葉も空しく雨音に掻き消された。

 ナユタは何も言わないでいる。扉の中にいるのかも怪しい。

 雨音が激しく耳を突いてくる。やかましい夜だ。その中を、俺は一人取り残されていた。

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