第四章 The Matter

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 咲良寅彦。俺の父親である彼は、俺が生まれたときからブロッサム・テクノロジー社の社長として働いていた。真面目で誠実、質実剛健。世間の方々を伝って聞こえてくる評判は、どれもこれも好意的だった。まんざら嘘でも無かったと思う。とはいえ確証はもてない。父と胸を割って話すことなんて全くなかったからだ。

 同じ家に暮らしている人。それ以外の共通点なんて一切なかった。話そうにも、仕事人間の父に通じる話題が思いつかなかった。父の方もまた無駄話はせず、家で二人きりになったら、気まずい沈黙が漂うことになった。

 寡黙だった父が怒るのをたった一度だけ見たことがある。もうずっと昔の雨の日のことだ。

 母に頼まれて、父の職場に傘を届けに行くように言い渡され、バスを乗り継いでブロッサム・テクノロジー社まで辿り着いた。ガラス張りの窓がびっしりと張り巡らされた外観に圧倒されながら、意を決してロビーに入り、父に届け物を、と受付に提示すると、突然怒鳴り声が聞こえてきた。開いたばかりのエレベーターの前に父がいた。背の高い異国のお客相手に物怖じすること無く声を荒げており、相手は高い鼻を真っ赤にして頭を下げていた。長いブロンドの髪が下がり、何度も床を撫でそうになっている。

 父は相手の背中を押したままロビーを横切り、外へと追い出した。相手はよろけながら、泣き顔で父に向かって行き、扉の前を何度も叩いていた。「あと一〇分して、いなくならなかったら警察を呼べ」と父が受付の人に忠告をしているのも聞いた。目線が向いたお陰だろう、父は僕が傘を持ったまま呆然と突っ立っているのに気づいた。

 傘は無事に届けられたが、あの異国の相手を目にすることはそれ以降なかった。クロフォードという男で、咲良グループの研究所員でもあったらしいがグループの名簿からは消されてしまったらしい。

 父の感情が露わになった、ほとんど唯一の事態と言っていいだろう。あの男の本心を垣間見た気がして、思い出す度に頭の奥底に痺れが走る。怖い記憶なのに、なかなか忘れられずにいる。怒りというのは、知っているはずの人間をまったく別物に変えてしまう代物だ。碌に話したこともないくせに、そのときの記憶が印象に残っているからこそ、いよいよもって父を怖い存在と思い込み、最後まで拭いきれなかった。

 俺は大学を止めて、絵を描いた。それでも父は何も言わなかった。いくつ賞を受賞しても、父の態度は変わらなかった。少しくらい怒ったり、喜んだりしてくれてもよさそうなものなのに、寅彦の本心は闇の中にあり、そしてそのまま亡くなった。

 父に振り向いて欲しかったのかも知れない。最近になって、俺の中でそんな推測が思い浮かぶようになった。

 何も言ってくれない父が何かを言ってくれるといい。俺が描いている絵を見て、何かを言ってくれていたら、それが良い意味でも悪い意味でも、受け入れて、次へ進んでいただろう。

 絵を描いて、デビューして、次に何をすべきか、父と死別した俺はまだ決めかねている。

 思いつかないまま生きて、姉からの仕送りだけを当てにして食料を買い込み、アトリエの匂いを感じながらとりとめのない思考を繰り返す。

 ナユタを追い出してから一ヶ月が経過した。夏の真っ盛りだったあの時期を過ぎて、今は十月。もうあと数日もすれば上着が必要となってくるだろう。いつもナユタが掃除してくれていた部屋はなるべく綺麗を心がけているが一向に物がなくならない。洗濯も、洗うまで漕ぎ着けても結局干すまでに時間が掛かってしまう。冷蔵庫にはコンビニエンスストアで買った弁当が詰め込まれている。

 何もない一日が終わろうとしていた。仕事はほとんど入ってこない。あのカキツバタ・テクノ社のパーティを途中で抜け出した日から、仕事の話もぱったりと来なくなった。パトロンになってくれそうな著名な資産家たちと繋がる機会を自分から率先して断ち切ったのだから仕方ない。

 沙雪から電話をもらったのは、そんな生活の最中のことだった。

「仕送り、止めるよ」

「ええっ」

「驚くこともないだろう。お前だって一人前の大人なんだ。いずれは一人で稼がなきゃならないってことくらいわかっていたはずだろ」

「そんな、急に言われても、俺は今」

「一ヶ月近く稼いでない」

 先回りされてはぐうの音もでない。

 ずっと沙雪の仕送りに頼るわけにはいかない。もちろんわかってはいた。仕事が盛んだった八年前の頃は逆に沙雪に仕送りはいらないと交渉もしていた。それでも心配だからと、沙雪の方から仕送りを続けたのだ。

 恥ずかしさに耳の火照るのを感じている俺の耳に、沙雪の言葉が飛んできた。

「別にのたれ死ねなんて言っているわけじゃないぞ。そのアトリエはもともとあたしのものだから、光熱水費や通信費はあたしが払っておいてあげる。食費その他雑費は竜水持ちだ。とりあえずは仕事を探せ。普通の画家だって兼業している人がほとんどだろう。アルバイトでもいいんだから」

 沙雪の心変わりに呆然としていたら、いつの間にか電話が切れていた。裏手にある鎮守の森から鈴虫の声がやけにくっきりと聞こえてきていた。

 一晩、呻いた。不安が頭をぐるぐると駆け巡り、夜中に何度も目が覚めた。まったく冴えない朝が来て、カーテン越しの陽射しを浴びながら、ようやくパソコンの電源を入れてアルバイト情報を検索し始めた。通信費は持つと沙雪が言っていたのが耳の奥で木霊し、胃を締め付けていた。

 アルバイト募集の情報は椿姫市内だけでも1,000件近く見つかった。その中から絞り込んでいく。画家業を続けられる時間が確保できさえすればよい。エリアを選択し、最寄駅を設定し、希望の職種を選ぶ。この時点でまだ200近く候補がある。安心しながら、自分の特性を考えた。とりあえず接客はパスだ。飲食店も清掃も福祉も性に合わない。残るのは軽作業かオフィスワーク。数は少ないがデザイナー関係の案件も見当たった。メモに書き留めて、一息つく。もう日は高く上っている。時間というのはあっという間にすぎるものだ、と溜息をついていたら眠気に敢えなく襲われた。調べ物をしていただけなのに、倦怠感が体中を浸食し、動き出すのを引き留めた。

 怒られなかったな、とふと思う。

 一ヶ月前に飛び出したパーティの後から、沙雪と話したのは今日が初めてだ。元々姉が用意してくれた仕事なのに、俺は自分のポリシーにしたがって、強引に絵を取りパーティを抜け出した。混乱も起きただろう。沙雪だって責められたに違いない。今になって思えば子どもっぽいことをしてしまった。たとえ絵画のサインが別の作家に似ていたところで、あの会場にいた何人が気づいたというのだろう。もし指摘されても受け流して、あとでナユタにゆっくり話を聞く方法だってあった。

 ナユタ。連想していたらその名前に行き当たった。靄の掛かった心の内がうねってくる。

 彼女がいた一ヶ月間、アトリエは片付いた。埃は取り払われ、画材や衣服も棚の中に整理整頓された。床はちゃんと見えていたし、ゴミ袋が溜ることもなかった。彼女の作ってくれた清潔な空気は今もなるべく壊さないように気をつけてはいる。彼女が来る前と比べれば、部屋も随分と片付いた。ただ、料理だけはどうしようもなく、コンビ頼りに逆戻りしている。

 もしもナユタがバイトを選ぶとしたらもっとたくさん選択肢があったんだろう。料理も掃除も、なんでもできたのだから。などと考えるくらいには眠気にさいなまれていて、そのうち瞼を閉じ、体中の力が抜けた。お昼過ぎになってようやく、眠い目を擦りながら募集要項の連絡先に電話を掛け続けた。時期が悪いらしく断りの返事も多かったが、諦めなかった。動きを止めたら、頭の中が黒い靄で埋め尽くされてしまう気がした。

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