いつものように、夜更けに由梨花ちゃんの部屋から戻って、すぐに眠った。

 夢を見た。

 由梨花ちゃんが裸で、夜の闇に浮かんでいた。三日月が、ずっと高くにたたずんでいた。星はなかった。由梨花ちゃんの青白い痩身が、月の遠い光に、ぼんやり濡れていた。

 徐々に、空が音もなく白みはじめる。光に音がないのは当然だが、心にも音を響かせない、静謐な滲み方である。夜空が、黒から青に移ろうのではなく、純白に染まってゆく。

 月が薄らいでいくように、由梨花ちゃんも透明になっていく。彼女の身体からは、微かに白い煙が漂う。首や肩の曲線が、歪んで、一筋の煙に変わる。やがて彼女は、朝の白光に溶かされたように、姿を消す。

 そして、最後には、なにも見えない光明だけだった。

 眠りからゆるやかに覚めてからも、光が身体のなかを満たしているように、空虚だった。美が心を底まで染めて、美が滅んで、すると、なにもないのだった。その前の脈絡は、思い出せなかった。美と虚無の情景だけが、ただただ心に残っていた。

 僕は、かなしみのない涙で、目尻から耳までが濡れているのに気づいた。

 深いため息がもれてから、顔を洗おうと部屋を出た。

 まだ朝になったばかりらしく、世界の静けさが身の芯まで染み渡った。階段も廊下も薄暗かった。

 洗面所に入ると、あまりの明るさに、眼が驚いた。

 洗面台の右手にある小窓から、光がすうっとさし込んでいるのだった。それは剣のような一本の光で、陰翳との対比で輝かしい。

 光の線は、まっすぐ、洗面台に射していた。

 水の流れていくところに、壺が置いてあった。指をのばした掌ほどの大きさである。由梨花ちゃんの枕元にたまに見かける痰壺だ。おそらく、優子さんが壺を他のものに代えてこれを洗ったまま、疲れからか、置き放しにしてしまったのだろう。

 壺の口に、光の線が斜めに射している。壺の灰色が、光に洗われた清らかな冷たさで、眼に触れる。

 僕はなにげなく、窓から差す光を妨げない角度から、壺を覗き込んだ。

 口の辺りは明るくても、底にまで光は貫かれていないが、それでもなんとなく見えた。

 ちょうど、光が薄くなる辺りまで、水が入っていた。

 ぼんやり見える水の面は、痰の色はなく澄んでいて、血だけが浮かんでいた。

 血は、水に溶けずに、美しい模様を描いて広がっていた。

 それが、血を吸った花の根のようだった。


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