朝早く、紗代ちゃんと宿を出た。

 この村に来たばかりの時に、彼女に連れて行かれた山の裾野にある、湖へと向かう。

 昨夜、紗代ちゃんが言ったのだった。

「なあ、兄ちゃん。明日ちょっと付き合ってほしいところあるねん」

 そんな改まった態度の彼女は、僕の初めて見るものだった。

「どうしたの、急に」

「この前に行った山あるやろ? あそこに入るところに、近所の人らも知らへん湖あるねん。そこ行きたいねん」

「構わないけど、またどうして、そんなところに?」

「小っちゃい時に、由梨花と二人でよう遊んでん」

 僕は、その答えが思いがけなくて、紗代ちゃんを見た。

 彼女は、居間の畳を指で弄っていた。いつになく弱々しかった。僕は目を逸らした。

 紗代ちゃんは、どこか媚びるような力ない口ぶりで、

「そこにな、由梨花がめっちゃ好きやった花がな、ちょうど今ぐらいにいっぱい咲いてるねん。それ摘みに行きたいねん」

 僕は、耳を塞ぎたいほど、あわれな声が嫌だった。紗代ちゃんには似つかわしくないと感じた。それはつまり、完全な美のほころびであった。それでもどうにか、まだ美の崩壊を確信するには至らず、予感に過ぎなかった。

 それなのに、今朝起きてみると、紗代ちゃんはもう出かける準備をしていた。僕は、胸の奥から一切が凍てつくような、深い失望を覚えた。紗代ちゃんには、昨夜の話など忘れて、そして由梨花ちゃんの病すらも気に留めずに、太陽を浴びていてほしかった。それでも僕は、断り切れずに惰性で、彼女の優しい花摘みに付き合うのだった。

 しかし、湖を目にすると、僕の心もいくらか安らいだ。

 深い緑に閉ざされた湖の、天上の世のごとき清らかな静けさは、僕の美への渇望を満たしてくれた。

 風はなく、湖は神聖な鏡のようだった、空の青に染まり、草木の緑に染まり、しかし底に透明な光が流れていた。湖の水面で静止している世界は、透徹した薄衣に包まれて現実の生々しさを失い、夢の映像のように無垢だった。

 とはいえ、やはり紗代ちゃんの陰りの浮かぶ面持ちが目に入ると、恍惚は破れた。僕の視界を湖で満たすために、どこかへ遠ざかっていろと言いたかったが、本当に言えば狂人である。

「ああ、これ」

 紗代ちゃんは、湖の周辺にぽつぽつと咲いている花に、手を触れた。

 チョコレートコスモスだった。紫がかった妖しい色あいなのに、小ぶりなかたちは可憐である。目いっぱい開いているところにも、純潔を感じる。まるで、由梨花ちゃんの唇のような花だ。

 紗代ちゃんは、一輪を摘み取って、やさしく目を細める。

「なつかしいなあ。こんなにきれいやったかなあ」

 彼女の面持ちは、優子さんによく似ていた。

 僕は、彼女の手から、花を離したかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る