四
朝早く、紗代ちゃんと宿を出た。
この村に来たばかりの時に、彼女に連れて行かれた山の裾野にある、湖へと向かう。
昨夜、紗代ちゃんが言ったのだった。
「なあ、兄ちゃん。明日ちょっと付き合ってほしいところあるねん」
そんな改まった態度の彼女は、僕の初めて見るものだった。
「どうしたの、急に」
「この前に行った山あるやろ? あそこに入るところに、近所の人らも知らへん湖あるねん。そこ行きたいねん」
「構わないけど、またどうして、そんなところに?」
「小っちゃい時に、由梨花と二人でよう遊んでん」
僕は、その答えが思いがけなくて、紗代ちゃんを見た。
彼女は、居間の畳を指で弄っていた。いつになく弱々しかった。僕は目を逸らした。
紗代ちゃんは、どこか媚びるような力ない口ぶりで、
「そこにな、由梨花がめっちゃ好きやった花がな、ちょうど今ぐらいにいっぱい咲いてるねん。それ摘みに行きたいねん」
僕は、耳を塞ぎたいほど、あわれな声が嫌だった。紗代ちゃんには似つかわしくないと感じた。それはつまり、完全な美のほころびであった。それでもどうにか、まだ美の崩壊を確信するには至らず、予感に過ぎなかった。
それなのに、今朝起きてみると、紗代ちゃんはもう出かける準備をしていた。僕は、胸の奥から一切が凍てつくような、深い失望を覚えた。紗代ちゃんには、昨夜の話など忘れて、そして由梨花ちゃんの病すらも気に留めずに、太陽を浴びていてほしかった。それでも僕は、断り切れずに惰性で、彼女の優しい花摘みに付き合うのだった。
しかし、湖を目にすると、僕の心もいくらか安らいだ。
深い緑に閉ざされた湖の、天上の世のごとき清らかな静けさは、僕の美への渇望を満たしてくれた。
風はなく、湖は神聖な鏡のようだった、空の青に染まり、草木の緑に染まり、しかし底に透明な光が流れていた。湖の水面で静止している世界は、透徹した薄衣に包まれて現実の生々しさを失い、夢の映像のように無垢だった。
とはいえ、やはり紗代ちゃんの陰りの浮かぶ面持ちが目に入ると、恍惚は破れた。僕の視界を湖で満たすために、どこかへ遠ざかっていろと言いたかったが、本当に言えば狂人である。
「ああ、これ」
紗代ちゃんは、湖の周辺にぽつぽつと咲いている花に、手を触れた。
チョコレートコスモスだった。紫がかった妖しい色あいなのに、小ぶりなかたちは可憐である。目いっぱい開いているところにも、純潔を感じる。まるで、由梨花ちゃんの唇のような花だ。
紗代ちゃんは、一輪を摘み取って、やさしく目を細める。
「なつかしいなあ。こんなにきれいやったかなあ」
彼女の面持ちは、優子さんによく似ていた。
僕は、彼女の手から、花を離したかった。
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