香る土
一
「なんや、どんくさいなあ、兄ちゃんは」
木々からのびる枝に、身をかすめながら遅々と歩いていると、紗代ちゃんがこちらを振り返った。物珍しげな目をしている。
「ちんたらしてたら、置いてくで」
「勘弁してくれ、こんな道もない山のなかに放っぽり出されたら、二日と生きられない」
そう答えると、紗代ちゃんは空に響くような綺麗な声で笑った。
僕は、紗代ちゃんに連れられて、宿から歩いてすぐの山の、木々の生い茂るなかを歩いているのだった。
すべての樹木が、少年少女の心のように、まっすぐ青空へのびている。枝々が重なり合い、空の奏でる凱歌のような日ざしが降り注ぎ、光の波模様が地に映っている。陽に濡れる葉や幹は太陽そのもののように眩しく、影もまた濃い黒だ。
紗代ちゃんは、そのもつれあう木々の隙間を、すいすいと泳ぐように進んでいく。僕が盛り上がった根に躓き、枝に服をすくわれ、鋭い枝先の尖りに肌を掻かれたりしながらやっとのことで三歩進めば、紗代ちゃんは、木々から生まれ木々と戯れる可憐な精霊の軽やかさで、既に僕の遥か先を行っている。
山の外で陽にさらされているよりは涼しいはずだが、それでも汗は身体中から噴き出てくる。
蝉の鳴き声が激しく響いていた。木々に反響して山のなかに音がこもっているように聞こえる。耳を突く力いっぱいの叫びが、血を荒立たせ、身体を熱くする。
「まだなの?」
僕は、苦しく息をしながら、声を振り絞った。
「紗代ちゃんの言ってるところ、まだ先なの?」
僕が今こうして運動不足の身体を酷使しているのも、紗代ちゃんがお気に入りの場所、この小さな山の頂上に連れて行ってあげると言ったからなのである。
紗代ちゃんは、立ち止まらずに歩みを進めながらも、器用にこちらを振り返って答える。
「もうすぐ。もう、すぐそこ」
そうか、良かった。と答えることもままならず、僕は安堵の笑みをなんとか浮かべて見せて、重い足を前に出した。
そうして歩き続けて、どれくらい経っただろうか。
紗代ちゃんがすぐだと言った距離が、疲れ果てた僕には長かった。もう駄目だ、と倒れ込みそうになった時、唐突に紗代ちゃんの声が聞こえた。
「ほら、見てみい、兄ちゃん。そこ、森が開けてるやろ」
それまで足元だけを見て必死に歩いていた僕は、顔を上げた。
紗代ちゃんが指す先は、木々の重なりが途絶えて、茶色い幹にも枝にも遮られていない純粋な光の海だった。目に光が染み入るようで、身体が軽くなるのを感じた。
最後の力を振り絞って光の方へ出ると、草原であった。
広々と可愛い若草が生い茂っている。見渡す限り影をつくるものはなく、いちめんが陽光に染まっている。開けた頭上には、高い声で笑いだしそうな純潔な青空に、男の太い腕のように力強い微笑を湛えた夏の雲がもくもくと浮かんでいる。
風鈴の音がどこからか聞こえた気がした。そばつゆの匂いが鼻を過ぎた気がした。扇風機の羽の楽しげな回転、あますぎるかき氷がひんやりと舌の上で溶ける感触、学校のプールに飛び交う飛沫の跳ねる音と女の子たちの花咲くような笑い声、教室に充満する清涼剤の涼しい香り、高校野球の実況の音声、車のサイドミラーにうつる陽炎……。
これまで過ごした十六回の夏の記憶の断片が一時に脳裏を去来した。
ただ立ちすくしていると、紗代ちゃんが草原の中心に走り出してぱっと僕の視界に入り込んだ。過去の夏がふっと醒める。
「なにぼうっとしてんの。ここ来たら、この草らと一緒におひさん浴びて、寝転んで。それが一番気持ちええねんで」
風が吹いた。
若草が快楽に身をよじるようにゆるやかに揺れる。光の波がさあっと草の上を流れていく。風は草を撫でて、紗代ちゃんの白いワンピースの裾を軽くはためかせ、短い黒髪とささやかに踊り、空の彼方へ帰っていく。
風とともに紗代ちゃんも空の青のなかへ浮かんでいきそうで、僕は、はっと息をのんだ。
紗代ちゃんは若草のなかで八重歯をのぞかせて笑った。
「どうしたん? すごい顔してるで、兄ちゃん」
僕は自分を取り戻して、
「いや、なんでもないよ」
と、紗代ちゃんに歩み寄る。
「ここで寝っ転がるのが気持ちいいの?」
「うん、おひさんと雲と色んなこと喋りながらな」
紗代ちゃんが、ころりと草の上に寝転がる。僕も隣に仰向けになる。
草は太陽の熱に火照って温かく、静かな風が吹くたびに揺れて肌をくすぐる。
「いてっ」
ふと、軽やかなくすぐったさに混じって鋭い痛みが走り、僕は声をあげた。
右肘の辺りに、小さい切り傷があった。ここまで来るのに、枝で裂かれたのだろうか。
「どないしたん?」
紗代ちゃんはこちらに顔をよじって、すぐに傷を見つけて、
「あーあ。怪我してもうてるやん」
「うん。やっぱり、普段から運動もしてないのに山登りは無謀だったかな」
僕は草が傷を撫でるのが嫌で、上半身を起こした。
ささやかな傷口から血がもれ出し、ぶっくりと赤い玉になる。陽の光で火花のような輝きを放っている。
いつの間にか、紗代ちゃんも身体を起こして、傷に顔を近づけていた。子猫のような丸い目のなかに、血の玉がある。
「綺麗やなあ」
「そうかな」
「水みたい」
「水?」
「ほら、川とか、おひさんできらきらして、こんな光の玉、いっぱい流れてるやん」
紗代ちゃんの比喩に、僕は清らかな感じを受けた。汚いはずの自分の血も、紗代ちゃんの澄んだ目の玉に映るのを見ていると、天使の涙のようである。
「舐めたるわ」
あまりに唐突な紗代ちゃんの言葉だった。
「こんな傷、舐めたらすぐ治る」
僕は慌てて、
「いや、いいよ。こんなに小さいんだから、放っておいても治るよ」
「ええって」
紗代ちゃんが僕の腕を掴む。
「舐めさして」
有無を言わせぬひたむきな眼差しが、僕を刺した。思わず、黙って頷く。
紗代ちゃんの薄桃色の小さな唇が、半ば開かれる。そっと鋭い歯がのぞく。唇はゆっくり傷へと近づく。
腕に接吻した唇は、瑞々しくやわらかい。湿って弾んだやわらかさ。舌が傷に触れる。血が噴き出しそうな激しい熱と、骨まで溶けそうにぬらぬらした感触。
と同時に、電気のような痛みが皮膚を貫く。
驚いて腕を引くと、傷口の周りに、唾液に濡れた輝きと、歯形が付いている。
紗代ちゃんがけらけらと笑い声をあげた。
僕は、激しく舞い踊る水飛沫のように清冽なその笑顔と、腕に残る歯形とを見比べて、一瞬呆気に取られてから、ぷっと噴き出し、盛大に笑った。
「兄ちゃん、びっくりした?」
「うん。まさかこんな悪戯を考えてたとはね」
「あっ」
紗代ちゃんは僕の腕を見て声をあげた。
見ると、歯は傷を深めたらしく、広がった傷口から一本の細糸のようにすうっと血が流れ出ている。血は肘まで流れて草の上に落ち、いっぱいの緑に一点の赤があざやかである。
僕の傷からますます血が流れるのを見て、紗代ちゃんはお腹を抱えて笑った。子どもが蝶の羽をむしって遊ぶような、純粋な残虐を感じた。腕にもう一つ心臓が宿ったようなどくどくと血の流れる生々しい感触と、未だ肌にじんわり残る痛みは、紗代ちゃんの純潔の力そのもののようで爽快だ。
僕はズボンのポケットから、ハンカチを出して傷を抑えようとして、やめた。
紗代ちゃんは、それから少しの間ひとしきり笑った後に、もう飽きたというように素早く立ち上がった。
「さあ、帰ろうな。いつまでもおってもしゃあないわ」
そう言って、僕が答えるよりもはやく歩き出した紗代ちゃんの後を、僕は腕から血を流したまま、追いかけた。
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