二日酔いにふらつきながら学校に通う日々から解放され、かと思うと、見知らぬ村の民宿で昼になる前に少女に起こされる毎日を送っているからか、眠れぬ夜は多かった。生活の調子が狂っている。

 畳に胡坐をかき、夏の夜の蒸し暑さと酒の火照りで汗ばんだ肌に、扇風機の微風を浴びる。

 清酒の一升瓶を窓にかざし、瓶の半分ほど残っている酒が重く波打つのを眺める。酩酊にゆるむ視界に、波が流れ込んでくる。

 ふと、空の白んだ青に気づいた。

 窓に瓶をかざすのだから、太陽の明かりが薄らと及び始めていたのには気がついていたはずだ。それなのに、今初めて朝を知るような感じがした。あまりに酔いすぎている。

 僕は腰を上げ、覚束ない足取りで部屋を出た。

 優子さんや紗代ちゃんや由梨花ちゃんを起こさぬように、足音を忍ばせて階段を下り、廊下を壁にもたれながら進み、玄関を出る。

 一足出ただけで、宿の中よりも涼しいようである。夜の明けきらぬ朝空の、静かな群青がやさしい。眼前にはてなくのびる田園の健やかさに、安堵の息をつく。

 僕は身体を力いっぱいのばし、玄関から庭へまわった。

 瞬間、ぴたりと足が止まった。

 由梨花ちゃんが、庭の小さな池の淵に座り込み、水面に視線を落としている。

 静謐な朝の世界に、音のない一枚の花びらが舞うように、しゃがんだ由梨花ちゃんの小さな姿があった。

 はっきり目に映っているのに、真実には誰もおらず幻をみるような、神聖な儚さである。

 胸元には白のフリルのついた薄桃色のパジャマと、半袖からのびる人形のように細く白い腕が、酒の酔いをひとときに清める。

 つい見惚れてしまっていると、由梨花ちゃんが唐突に、気配を感じたのかこちらをふいと振り返った。

 子猫に似た大きく丸い目の、霧がかかっているようなかなしい眼差しが、こちらへすうっと流れてくる。目が合う。由梨花ちゃんは、はっと息をのむように口を開いた。

「おはよう。早いね、起きるの」

 僕は慌てて、曖昧な微笑みを浮かべてみる。由梨花ちゃんとはこれまでに、食事の席で数回顔を合わしてはいるが、こうして二人きりは初めてだ。

 由梨花ちゃんは、一瞬怯えるように眉を顰めたが、それでも初対面の時と比べるといくらか緊張の消えた笑みを返して、

「ううん、寝られへんくて、退屈やから、鯉さん見ててん」

「鯉? そんなの飼ってるんだ」

 僕は言いながら由梨花ちゃんの隣にしゃがむ。空の青を微かに映す、暗い池の水のなかに、鯉が赤と白の肥えた身体をぬらぬらとひらめかせている。

「お、ほんとだ。大きいね」

「紗代とうちが生まれる前から、お母さんが子どもの時から、おるから」

「すごいな。そんなにおじいさんか」

「うん」

「おばあさんかもしれないけど。まあ、どちらにせよ、僕よりもはるかに年上か」

 僕が言うと、由梨花ちゃんは小さく笑ってから、ふと思い出したように、

「兄ちゃん、何歳なん?」

「僕? 十六。高校二年だよ」

「ええと、じゃあ……」

 由梨花ちゃんが、指折で数を数える。

 その指の、ほっそりしていて、しかし触れれば赤ん坊のやわらかさがありそうなのに、目が惹かれた。

「じゃあ、うちと紗代の、六歳も上かあ」

 僕は、彼女の仕草に微笑ましいあどけなさを感じながら、

「二人は何年生?」

「五年生」

「へえ。二人とも?」

「うん。双子やから」

「ああ、そうだったね」

「うん。……あれ、まだ四年生やったかな」

 僕は驚いて、

「そんなこと、忘れる?」

 と聞き、からかうように笑った。

 すると由梨花ちゃんが答える。

「だって、うち、ほとんど学校行ってへんから」

 僕の顔から、笑みが消えた。

 しかし、由梨花ちゃんの口ぶりにも、面持ちにも、重い憂鬱の陰翳はない。きっと、彼女にとっては、ほんのなにげない呟きであったのだろう。その言葉が僕にどう流れ込むかも、知らないでいる。子どもの無垢が、胸を打った。

 僕は笑みで頬を飾った。

 ふと、由梨花ちゃんが口を開いた。

「っていうか、兄ちゃん、なんでお酒のにおいするん? 高校生やのに」

「ああ、においする?」

 僕は、咄嗟に鼻を吸って嗅ぎ、

「ごめんね」

「いいよ、そんなん」

「そう?」

「うん。別に嫌ちゃうもん」

 由梨花ちゃんは小さな鼻を、こころもちこちらへ近づけた。

「いいにおい」

「珍しいね。そんなこと言う女の子、初めてだ」

「ふうん。なんでかなあ。お昼寝みたいに、ふわふわして、いいにおいやのに」

 由梨花ちゃんは、ふふと笑って、

「兄ちゃん、不良なん? 高校生やのに、お酒なんか飲んで」

「まさか。こんな軟弱で平凡な見た目の不良、いないよ」

「でも、お酒飲んでるやん」

「飲んでるね。でも、不良じゃない」

「テレビ見てたら、不良の人しか飲んでへんのに」

「現実はテレビよりも味気ないってことだよ」

「じゃあ、なんで兄ちゃん、お酒飲むん?」

「なんでって……」

 僕は、少し考えて、

「不良になんて、なれないからだよ」

 僕の答えに、由梨花ちゃんは細い首を傾げた。澄み切った目はさらに虚ろになって、わけがわからないと言っている。

 子どもに向かって告白するようなことではなかった。

 自分にさえ嘘をついてばかりの僕が、つい口から本音の欠片のようなものをもらしたのは、どういうわけだろう。

 心をそっと染めるような由梨花ちゃんの幽玄なかなしみに、僕の胸が静かにやわらいだのだろうか。

 僕は、再び由梨花ちゃんを見た。

 さっきまで僕の言葉を不思議がっていたのに、もうそんなことはどうでもよさそうに池の水面に向き直っている横顔を、見つめた。

 ぼうっと白い頬に、瞳の深い黒が浮かんでいる。

 枯れて萎れた花びらの寂静が、少女に漂っているのを、僕は不思議に思った。しかしその美しさは、少女にのみ宿る無垢にも思えた。


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