朝飯を食べ終え、布団を片付けた。紗代ちゃんが手伝うと言うので、二人でシーツとカバーを畳み、部屋の隅に重ねておいた。

「でも、兄ちゃん」

 紗代ちゃんが、カバーとシーツを眺めながら言う。

「これ、昨日兄ちゃんが使っただけで、そんな汚れてへんで。まだ洗わんでもええんちゃうのん」

「いや、僕だけが使うんならそれでいいけど、他の人も使うんだから。一回使っただけでも洗わないとね」

「他の人? なにそれ」

「なにって……。夏はお客さん少ないって優子さんも言ってたけど、だからってこのまま放置しておくわけにもいかないでしょ。いずれ来る次のお客さんのためにね」

「え、ってことは……」

 紗代ちゃんが、無垢な疑問の面持ちで、こちらを見上げる。

「兄ちゃん、もう帰んの?」

「え? うん。とはいっても、優子さんが帰ってくるまで待ってないといけないけどね。宿泊代をまだ渡してない」

 ところで、優子さんは何時に帰ってくるのか、そう聞こうとした瞬間に、腹に小さな痛みが走った。

 紗代ちゃんが、小さな拳で僕の腹を殴ったのである。

 何事かと思うと、彼女は涙を溜めた目でじっとこちらを睨んで、

「いや! 帰ったらあかんの!」

「そんな……」

「なんで? 兄ちゃん昨日泊まるって言うたやん!」

 僕は胸いっぱいに困惑を持て余しながら苦笑して、

「いや、それは一泊だけのことで……」

「知らん! そんなんうち知らんもん!」

 紗代ちゃんは激しく地団駄を踏んで、

「なんで帰るんよ、兄ちゃん昨日、あてもない旅行やって言うてたやんか!」

 僕は答えあぐねた。

 確かに、特に目的もない旅だ、許されるならここに泊まり続けても良い。

 それなのに、なにも考えずにここを立ち去ろうとしたのは、なぜだろう。

 いつも他人から遠ざかろうとする心の癖だろうか。

 僕は、胸にふっと湧いた自分への激しい嫌悪に任せて、破顔した。

「言われてみればそれもそうだ。優子さんが帰ってきたら、夏の間泊まってもいいか、聞いてみよう」

 そう言って僕は紗代ちゃんの頭を撫でた。微笑みを誘う、心地よい手触りである。

 僕の答えに、紗代ちゃんはきゅっと固く結んでいた唇をほどき、喜びを噛み締めるように徐々に頬を綻ばせ、そして勢いよく頷いた。生命のありったけの熱を感じる頷き方だった。

 昼前になって、優子さんが帰って来た。

 紗代ちゃんと部屋にいると、階下から、扉の開く音とただいまあという声がする。そうすると紗代ちゃんは突然立ち上がって、

「帰ってきた!」

 と叫び、僕の手を引いて階段を駆けおりた。

「ただいま。あら、あんさんまで揃って出迎えてくれて」

 優子さんは僕を見て困ったように笑い、

「ごめんなあ、仕事もせんと、買い物なんか行ってて」

 と、両手に提げているスーパーの袋を見せた。

「いえいえ、お構いなく」

 僕はそう返してから、夏の間泊まりたいと切り出そうとしたが、紗代ちゃんの言葉に遮られた。

「なあ、母ちゃん。兄ちゃん、もっと泊まってええやろ?」

「いきなりなにを言い出すんやこの子は」

 優子さんは目を丸くして言い、僕へ謝るような視線を流した。そこで僕は言った。

「いや、僕からもお願いしたいんです」

「へえ?」

 優子さんは、思いがけないというように間抜けな声を出した。

「まだ一泊しかしてませんけど、居心地が良くて」

「ああ、そう……」

 優子さんは曖昧にそう言って、ぽかんとした表情を浮かべる。

 つかの間の沈黙の後に、靴を脱いで玄関をあがりながら言う。

「まあ、とりあえず、紗代。あんたはちょっと庭でも行っといで」

「庭?」

 紗代ちゃんが首を傾げる。

「なんで?」

「花に水もやらなあかんし、母ちゃんちょっと、兄ちゃんと話あるから」

 優子さんの言葉に、紗代ちゃんは納得がいかないようであったが、それでも反抗するまでのはっきりした意思もないらしく、

「はあい」

 と曖昧な声だけを残して、玄関を出た。

 優子さんはそれを見届けると、僕を居間へ座らせて、自分はその向かいに座った。そして切り出すことには、

「あんさん、えらいごめんやで」

 と、予想だにしなかった謝罪であった。

 僕は意味が分からず、

「どうして優子さんが僕に謝るんです?」

 と聞いた。

 すると優子さんは、情けないような笑みを浮かべて、

「いやあ、だって。あの子が我儘言うてからに、あんさんも、もうちょっと泊まらせて、なんて言うてくれはるんやろう?」

 僕は、優子さんが紗代ちゃんをこの場から追い払った理由をようやく理解しながら、思わず笑みをおぼした。

「まさか、違いますよ。僕自身の希望です」

「へ?」

 今度は優子さんが面食らった表情を見せた。僕は構わず続ける。

「さっきも言いましたけど、居心地がいいんです。できれば今日、明日と言わず、夏休みが終わるまで、この旅行の最後まで、ここにいさせてもらいたいぐらいです。ああ、勿論お金は払います」

「でも……」

 優子さんは、僕を心配するような顔つきで、

「こんなところでええのん? 昨日あんさん言うてたやんか。退屈が嫌で当てもなく電車乗ったて」

 昨夜、夕食の場で僕は、優子さんに様々なことを聞かれた。学生なのか、何歳なのか、どれくらい旅をするつもりなのか、その目的は何なのか。

 優子さんも僕もいくらか酔っていて、それに流されて、僕は全ての質問に、なにもかも洗いざらいとまでは言わずとも、それなりに正直に答えたのだった。

「はい、言いました。でもそれが、ここに泊まることと、なにか矛盾しますか?」

 僕が聞くと、優子さんは曖昧に頷いて、

「この辺はなんもあらへんし、田舎や言うても田舎らしい観光もでけへんようなとこやし」

「そんなことは問題じゃありません」

 僕はきっぱりと答えた。

 優子さんは怪訝そうに、

「ほんなら、ここに、なんで?」

 と聞く。

 僕の脳裏に、紗代ちゃんと由梨花ちゃんの姿がよぎった。

 しかし、それを答えるのは憚られた。

 僕は優子さんから視線を外して言う。

「僕は、猥雑な街で生きてるんで。なにもないことが、嬉しいんです」

 僕の答えに、優子さんは曖昧に笑った。

「はあ、そんなもんかなあ……。うちには分からへん世界やわ」

 やわらかく耳に触れる声で言った。

「そんなもんです」

 僕も曖昧に笑った。

 優子さんは、すっきりした目になって、

「ほな、うちみたいなとこでええんやったら、いつまででも、泊まって。夏は毎年お客さんないし、家族もうちら女三人だけやし、ゆっくりはさせてあげられると思うわ」

 その声の親しい温もりに、僕は、優子さんが紗代ちゃんの母であることを感じた。



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