第22話 昭和二十年八月二十二日火曜日 甲

 市ヶ堀がいつから釣堀をやっていたのかは分からないが、店主の話では江戸時代の中頃から代々ここで釣堀を営んでいるという話だった。この釣堀は湯興仁の釣堀と違って、天井というものがなかった。つまり空を仰ぐことができた。市ヶ堀のある一階から第二十三階層のてっぺんまで吹き抜けていたのだ。薄暗いが陽光が届く時間がわずかにある。そんな市ヶ堀は四辺を覆い被さるような枝葉が縁取っている上に道路からも遠い場所にあって、とても静かだった。ここが帝都の真ん中ではなくて、どこか遠い郊外の池で夕闇の中、釣りをしているような気分になれる。

 午前九時の開園から有川と篠宮はやってきて、竿を借りて、釣りをしていた。有川は無理を言って、貸切にしてもらった。もっとも貸切にせずとも、この釣堀を訪れるのはこの二人くらいのものだった。

 二人で並んで竿を振り、棒浮きが沈む瞬間を待った。

「食いつくかな?」

「絶対食いつく。餌が特別製だ」

 棒浮きがピッと音を立てて勢いよく沈んだので有川は素早く合わせた。

「ほら、食いついた!」

 引き寄せてみると、手のひらより少し大きいくらいの鮒がタモ網に入った。

 有川はその鮒を自分の魚籠に入れて言った。

「配合に拘った極秘の練り餌だ。食いつかないほうがおかしい。これで二十三匹目だ」有川は時計を見た。正午まで後五分だった。「時間も時間だし、こりゃ俺の勝ちだな」

「ちょっと待った。確かに僕は十五匹しか釣ってないけど、そのうち一匹はウナギなんだよ」

「だから?」

「ウナギの珍しさを考慮して、ウナギは十匹分の価値があるとするべきだ。そうしたら、二十四対二十三で僕の勝ちになる」

「冗談言うな。ウナギでもマグロでも一匹は一匹だ。それに珍しさを考慮するとしても、せいぜい五匹分だ。どのみちお前の負けだよ」

「まだ五分残ってる。それでウナギを釣れば一気に逆転だ」

「あきらめの悪いやつだな」

二人は餌をつけて、また竿を振った。

 濁り水に浮かぶ棒浮きを見ながら、篠宮が言った。

「食いつくかな?」

「絶対食いつく。餌が特別製だ」

 入口から二人の男が姿を見せた。一人は日本人、もう一人は外国人だった。

「ほら、食いついた」

 有川はそう言うと、二人組に声をかけた。

「そこで止まれ。池を挟んだ状態で話をしよう。どうせここには俺たち以外に人はいない」

「あれは一体どういうことだ?」日本人のほうが声を震わせて訊ねた。「あれをどこで手に入れた!」

「そんなことどうでもいい」有川が言った。「あんたのことは何ていえばいい」

「大村忠志。陸軍大佐だ」と、名乗り、大佐は横に立っている外国人を紹介した。「アメリカ陸軍、ハロルド・シップショー大佐」

「日本語は?」

「分からない。だが、彼もアメリカ側がこの計画のために派遣した責任者だ。同席は拒めない」

「じゃあ、その人への通訳は大佐にやってもらおうか」その後、有川は付け加えるように言った。「大佐、あんたは神社、そっちのアメリカさんは教会に行って祈るんだね。俺たちが刺されたり、撃たれたり、殴られたり、血を吐いたり、雷に当たったり、鯛の天ぷらにあたったりして死なないように。これから五十年以内に、もし、俺たちが五年間行方不明になるか、くたばるかしたら、あのマイクロフィルムは全世界に公開することになっている。もう複写は六十取って、数十人の弁護士に俺たちの身に何かあった場合は広島計画が公開されるよう環境は整えてある」

 大法螺だったが、効き目はあった。大佐がシップショー大佐に通訳した。頑丈な顎と百八十センチを越える体躯が怒りで震えているのが、遠くから見ていても分かった。

「そうだ」有川は釣竿を脇で挟むと、ポンと拳で手のひらを打った。「ソ連や人民連合に渡す前にまず日本の海軍にバラすってのはどうだろう? 艦隊丸々一つ造れるだけの予算をだよ、陸軍が海軍に内緒でガツガツ貪り食っていたってことが知れたら、海軍の連中怒るかな? 怒るかな?」

「うわあ、怒るね。そりゃもうすごい怒るよ」

 大村大佐が声を震わせて言った。

「言え! お前たちの目的は何だ? 誰に雇われている? どこから金をもらってこんなことをしている! まさか本当に海軍に雇われているんじゃないだろうな!」

 大村は疑心暗鬼の虜になっているのだろう。逆に言えば、広島計画の漏洩はそこまで軍部を追いつめるものだったわけだ。とりあえず大村大佐とシップショー大佐には好きなだけ狼狽してもらおう。そうなればなるほど、有川たちには都合がいい。

 「こっちはお前らの新型兵器に興味はない」有川が言った。「ただ、真相が知りたい。神宮寺弘が殺されたわけを知りたい。それだけだ」

「ふざけるな。お前たちが真相を他言しないという保証はどこにある?」

「そんなものない。信じて話すか、ソ連やアメリカ人民連合国を含む全世界がこの計画の中身を知るかだ。俺たちにはこの図はさっぱり理解できないが、世界中にばらまけば何人かはこの図が意味するものにピンとくるんじゃないか?」

 大村とシップショーの間で英語の口論が始まった。大体、十分間くらい経ってから、大村があきらめてポツリポツリと話し始めた。

 きっかけはカリフォルニア特需だった。この、日本を大いに儲けさせた戦争特需が諸刃の剣となり始めたのは昭和十六年ごろからだった。日本の全企業があまりにも深入りしすぎたのだ。アメリカ内戦に対してはどの国も局外中立を唱えていて、かつアメリカ合衆国がアメリカ人民連合国を国家として承認しないことを名分に日本はカリフォルニアに大量の軍需物資を輸出できたのだ。だが、売掛金が膨らみ始めると、企業家は不安に思い始めた。万が一、アメリカ合衆国が敗北したら……。日本政府は局外中立の手前、軍事介入はできないが、それでも合衆国の戦時公債を買い支えることくらいならできた。この結果、日本はカリフォルニア特需への売掛金とアメリカ発行の戦時公債という二つの泥沼に足を踏み入れてしまった。万が一、アメリカ合衆国が敗北すれば、多大な売掛金を回収できず、購入した戦時公債が紙くずと化す。そのために特需で得た外貨でアメリカ合衆国を勝利させるための戦時公債を買い支えるという悪循環が生まれた。そうせざるをえないのだ。合衆国が負けたら日本は経済どころか国が傾く。特需で合衆国に入れ込み過ぎた日本は途中から傍観者の立場を捨てるハメになった。一蓮托生、なんとしてでも、アメリカ合衆国に勝ってもらわなくてはならなかった。

 そして、昭和十七年――一九四二年、アメリカ合衆国からある計画が持ちかけられた。戦況を一変できる新型爆弾の製造に関する計画だった。日本側もその計画を首相と陸相が認可し、将来大陸での行動が多くなることも見越して、広島に陸軍広島特別工兵管区という研究施設を設けた。こうして新型兵器『原子爆弾』の開発を目的とした『広島計画』が始動した。ベルギー領コンゴで採掘されたウランを輸入し、鴨緑江沿いの桓仁に米国から形だけ亡命ということにしたアメリカ人学者らを派遣し、ウラン精製工場をつくった。アメリカ国内ではいつ人民連合国の襲撃を受けるか分からず、また核実験を極秘裏に行えるほどの砂漠がなかった。合衆国が保持するカリフォルニアの砂漠はあまりにもネバダやアリゾナに近すぎて、原子爆弾の情報が人民連合国に流れるリスクが高かった。そのため、原子爆弾の開発はアメリカ本土よりずっと安全な日本と満州において日米合同で秘密裏に進められた。これは局外中立に明確に違反しているから、機密保持には万全の対策が取られた。日米合同で広島計画は遂行され、研究開発は進み、ついに昭和二十年七月、満州の荒野で起こした核実験も十分な成果が得られ、また爆発自体も軍の不良爆弾の一斉処理ということで隠蔽された。

 全てがうまくいったように思えた。

 だが、実験が成功した直後、計画の成果が漏洩したのではないかという疑いが出てきた。

 理由はハルビンのセミョーノフが動き出したからだった。そして、そのときになって判明したがセミョーノフが秘匿している金塊は三十キロや三十トンではなく、五百トンであったことが判明した。セミョーノフは白軍に渡った金塊の全てを手に入れていたのだ。セミョーノフが普通の白系露人ならそれを私的に流用して豪奢な暮らしに費やすだろうが、セミョーノフは普通の白系露人とは違った。ソ連への復讐のみに生き、その機会を狙って金塊を寝かせていた。セミョーノフは河豚計画で満州に逃れてきた亡命ユダヤ人科学者たちを強制的に参加させて、独自に原子爆弾を作ろうとしていることが分かった。セミョーノフはウランまで手に入れていた。

「金と設備と材料と技術者」篠宮は指折りして数えた。「あとは作り方だけ。広島計画を横取りして原子爆弾をつくろうと言い始めたのはセミョーノフと神宮寺、どっちだい?」

「おそらく神宮寺だ」大村大佐が答えた。「計画が漏れたのは広島だった。神宮寺は少なくとも五月の終りまでには広島計画の全容をマイクロフィルムにして所有していた。六月の終りまでにはセミョーノフに広島計画について一部分のみを教えた。セミョーノフは一撃でモスクワを吹き飛ばす新兵器に興味を持ち、神宮寺はセミョーノフの信頼を得ることに成功した。セミョーノフが金塊を現金化して技師や設備を作り始めたのは、その後からだと思っていい」

「そもそも、ただの貿易商だった神宮寺が陸軍広島特別工兵管区に関心を示したのはなぜだ?」

「こっちが訊きたいくらいだ。だが、推測は出来る。陸軍広島特別工兵管区は核実験を満州で行う都合上、関東軍のトップに話をつけておく必要があった。そして、神宮寺は関東軍の自動車部品について出入り商人のような仕事に従事していた。おそらく関東軍の上級将校が下級将校に口をすべらせ、そして下級将校が神宮寺に口をすべらせたのだろう。関東軍の将校たちは驕慢が過ぎて脇が甘い。ただ、神宮寺が手に入れた情報は本当にわずかだったはずだが、神宮寺の中の何かが彼の興味を広島へと釘付けにしたようだ。やつがいつから陸軍広島特別工兵管区に探りを入れていたのかは分からない。だが、神宮寺が広島計画を手に入れた経路は分かった。馬鹿馬鹿しくて話にならないものだ」

「へえ」と、篠宮。「どうやったの?」

「シカン世代が特別軍管区内にまで染み込んでいたんだよ。広島の研究施設で働いていた物理学者の一人が少年愛倒錯者だった。神宮寺は人を雇い、男娼窟でそいつらの行為を隠し撮りして学者を恐喝した。たったこれだけで新型爆弾の全てが記録されたマイクロフィルムが神宮寺の手に渡ったんだよ」大佐は顔を歪めて笑いながら、篠宮のほうを顎でしゃくった。「お前もあと十年若ければ、お稚児さんにしてもらえたんじゃないか?」

「減点一」クスリともせず、篠宮が指を一本立てた。「三点たまったら、アウトだ」

 溜飲を下げたのか、大佐はそれ以上言わなかった。

 撮影――有川は考えた。神宮寺は広島でおそらく地元の探偵を使って撮った。私立探偵を雇うのは初めてではなかったわけだ。

 しかし、話を聞けば聞くほど神宮寺という男が分からなくなる。プロのスパイではない、ただの貿易会社の社長に過ぎない神宮寺がなぜここまで大きく、かつ危険な計画にのめり込んだのか? 報酬が莫大だとしても危険過ぎる。彼の会社は順調だったし、高階婦人や響子嬢と血はつながってなくても幸せな家庭生活を築いていた。仕事も生活も満ち足りていた神宮寺にとって広島計画はそれら全てを失うことになりかねない危険な賭けだったはずだ。

大佐は説明を続けた。当時、陸軍の情報部は日米が三年間かけて開発した原子爆弾を、セミョーノフが短期間に独力で開発できるとは思っておらず、広島計画の情報漏洩があったに違いないと踏んだ。

「それでセミョーノフに広島計画の情報を売ろうとした神宮寺を殺したのか?」

「違う。神宮寺を殺してなどいない」

「どうして殺した後に燃やしたんだ?」

「違う! 我々は一切神宮寺に手を出してはいない!」

「信じろってのが無理な話だな」

「神宮寺が広島計画の図面を入手しマイクロフィルムにしたという情報は神宮寺の死後、ハルビンのセミョーノフの下に潜ませたスパイからの報告で分かったことだ。だいたい神宮寺の生前にそれが分かっていたら、神宮寺は我々の手で捕らえられ、フィルムの在り処を吐かせることが出来た」

「聞いたか、篠宮。この軍人さん、堂々と誘拐謀議を吐き出したぜ」

「何とでも言え」

「僕は信じるよ。もし、神宮寺の生前にマイクロフィルムの所在が分かっていたら、所轄の警察から前代未聞の方法で捜査権を奪うなんて無様なことはしなかった。あなたたちはマイクロフィルムの所在がまったく見当つかなくって焦ってあんなことをしたんでしょ?」

 大村は水面が揺れるくらい強く地団駄を踏んだ。

「くそっ! お前たちはあの爆弾の重要性をまったく理解していない! 我々の手に入れば、バトンルージュが陥落し、十二年続いたアメリカ内戦が終結する。平和を作り出せるのだ! だが、セミョーノフの手に渡れば? 爆弾はモスクワで爆発して、再び世界大戦が勃発する、それくらいのことが分かるだろうが!」

「バトンルージュは陥落するんじゃなくて、消滅するんだろ? 何人住んでるか知らないが」

 有川と篠宮は竿を上げた。餌はとっくに魚に取られていた。二人は帰り支度をしながら、大村、シップショー両大佐に言った。

「僕らに手を出したら、広島計画は全世界の人間が知ることになる。これが条件だったけど、契約に多少変更を加える。もし原子爆弾をバトンルージュに落としたら、マイクロフィルムは全世界に公開だ」

「約束が違う!」大村が怒鳴った。

「そりゃ戦争を終わらせるのはいいことだけどさ」篠宮はせせら笑った。「ただ僕らとしては大量虐殺の片棒は担ぎたくないんでね。寝覚めが悪くなる。だから、甲案に乙条項を加えることにした。あなたたちに許されるのはとても凄い爆弾を手に入れたという優越感だけ。もし使ったら、全世界が原子爆弾の開発レースに参加することになる。そんな世界が行き着く末がどんなものか、そこんところを大統領か総理大臣か知らないけれど、それぞれの上司によく納得するよう言い聞かせるんだね。アメリカの内戦は新型爆弾以外の出来るだけ平和的なやり方で終結させてください。以上。あ、所長から何かありますか?」

「いや」有川も釣られて笑った。「特になし」

「では、解散。みなさん、ごきげんよう」

 釣竿を手に立ち去る二人の背に顔を真っ赤にさせたハロルド・シップショー大佐が何かを英語でまくしたてた。有川には何を言っているのかちんぷんかんぷんだったが、ジャップ、ニップ、ファッキン・イエロー・モンキー、ユー・ファッキン・ピース・オブ・シットといった単語くらいは理解できた。

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