第21話 昭和二十年八月二十一日月曜日 戊

 館林エネルギー研究所のブザーを鳴らし、ドアをノックしたが、返事がなかった。

「博士」有川が言った。「俺です。有川です」

 ドアが少し開き、八来軒の老婆がいないことを確認すると、ドアを大きく開けて、素早く入るよう三人に促した。

 閉めたドアに寄りかかると額の汗をハンカチで拭いながら、博士は胸を撫で下ろして言った。

「いや、あの老婆にはとことん参らされた。あれはピラニアじゃない。アリゲーターだよ。朝も昼も夜もずっと見張っているから、外に出られない。ここ二日は身を潜めて、買いだめしたビスケットと紅茶で暮らしている。まるで塹壕のイギリス兵になった気分だよ。おや、そちらのお嬢さんは初めてだね。私は館林、この館林エネルギー研究所の所長です」

「えっと、響子・ポクロフスカヤです。初めまして」

「有川くんたちとはどのようなお関係で?」

「仕事を依頼したんです」

「ほう、なるほど」と、館林博士は言ってから有川のほうへ振り返った。「それで何のようだね? お金を貸してほしいというお願いなら、残念ながら叶えられない」

「博士に見てもらいたいものがあるんです」

有川は広島計画と書かれた缶の中身を取り出して、博士に手渡した。

「ふむ、十八ミリロール式か」

「この中身が意味するところを博士に教えてほしいんですが」

「幸い十八ミリ式の投影装置を持っている。まだ電気は止められていないから見ることができるぞ」

 そう言いながら、博士は乱雑に積みあがった実験器具や書物をどかし、ひっくり返して、投影装置を探し始めた。

「手伝いましょうか?」

「いやいや、それには及ばない。この一見乱雑に見えるものの中にも一応秩序はあってね。その秩序というのが私にしか分からんのだよ。まあ、そこで待っていてくれたまえ」

 そう言いながら、ガラクタが次々と出てきた。コイルを巻いたエンジンの出来損ないやチラシの裏に描いた何かの設計図が山となって出てきた。そのうちの一つがたまたま山の上から落ちてきた。額入りのかなり古い集合写真。写っているのはみなヨーロッパ人のようだった。一番年嵩の老人が中央の椅子に座り、そのまわりを十九世紀風の大げさな髭をした壮年や青年たちが固めている。みな判で押したように黒のフロックコートを着ていた。後ろの段、右から三人目は凛々しい東洋人の若者――館林博士の姿があった。額の裏を見ると、こう書いてあった。『フンボルト大学 ベルリン 一九〇一年九月』

「やっと見つかった!」

 館林博士がそう叫んで、引っ張り出したのはスーツケースだった。

「これはスーツケース型十八ミリロール式マイクロフィルム投影装置といってな。手軽に持ち運びができる改良型なのだよ。ほら、まずスーツケースを開ける。そして、ここの金具を立ててロールをはめ込み、金具を倒してからフィルムをここに通して――」

 館林博士はテキパキ動いて、後はスイッチを押すだけになるまで準備をした。

「さて」博士は手をもんだ。「どんなものが描いてあるのか、見てみようじゃないか」

 スーツケース型投影装置はスーツケースの内側三五×五〇センチの広さのスクリーンに明るくくっきりした像を映し出した。まだ小さかったが、そこに記された文字や記号を見るには対した苦労はなかった。

 図。式。記号。館林博士は一言も発せず、スイッチを押して一コマずつフィルムを送って、その図の意味するところを理解しようとしていた。

 一時間後、館林博士は全てを見た後にフィルムを巻き戻して投影装置から外すと缶に入れて、フィルムを返した。

「どうでしたか、博士」

「うん。いや、面白いものを見せてもらったよ、有川くん。誰が考えたか知らんが、これはまさに科学者向けにつくられた最高のおとぎ話だ」

「おとぎ話?」

「理論的には可能だが、実際にはできない」館林博士はスーツケース型投影装置をバタンと閉じた。「おそらくこれと同じことを考えている科学者が世界には私を含めてあと二十人はいるだろう。彼らも同様に、自分で組み立てたおとぎ話を指先で玩んでいるはずだ」

「あの、博士」有川が手を挙げた。「物理がトンチンカンな探偵どもに教えてもらえませんか? これが何で、どういう点がおとぎ話なのか?」

「世の中の物質はみな原子で出来ている。これについては聞いたことがないかね?」

「はい、あります」

「その原子の中でもウランのような特に重い原子の核はバラバラにならないよう非常に強いが不安定な力で互いを引っ張り合い原子を形成している」

「はい」

「この図式はその力を原子に中性子をぶつけて連鎖的に解放し、大量の原子を一度にバラバラにしてしまおうというために書かれたものだ」

「つまり?」

「想像してみたまえ。何千、何万、何億もの原子が一斉に自らを形成している力を解き放ってバラバラになるのだ。非常に大きなエネルギーが外側へと働きかける」

「そのこころは?」

「大爆発だ。太陽がくしゃみをしたような、誰も想像したことのないほどの大爆発」博士はそこで肩をすくめた。「これはそのエネルギーを利用した爆弾の設計図だ。私ならこのエネルギーで発電所をつくるがね。まあ、どの道、おとぎ話だ」

「なぜです?」

「科学の夢を挫折させるのはいつもこれだよ」教授は人差し指と親指で丸い輪をつくってから、うんざりしたように手を振った。「実際、これを実現させるとなると、費用は莫大なものになる」

「どのくらいかかるんです?」

 教授は指を一本立てた。

「一千万もかかるんですか?」

「いや十億円だよ」教授は有川の手をしっかり握った。「そういうわけだ。いいおとぎ話を見せてもらえた。ありがとう」


 響子を青山の家まで送るとき、有川はこのフィルムとネガを預かってもいいかと訊ねた。響子はぜひそうしてほしいと答えた。

「今日分かったことは少なくとも大きな前進です。ここからどう進むか、はっきりいって危なっかしい賭けに俺たちは出るつもりです。でも、あなたをそれに巻き込みたくないんです」

「わかりました」

 有川たちが車に戻りかけると、響子は「あのっ」と呼びかけた。

「何ですか?」

「もし、途中で危ないと思ったら……このまま関わると死んでしまうかもしれないと思ったら、捜査も何もかも捨てて、逃げてください。それで犯人が分からなくなったとしても、私は構いませんから」

「心得ました」と篠宮が微笑み、有川も何とも言えない不器用な顔をして微笑んだ。


 有川と篠宮はダットサン・クーペでパルパルパルと事務所に向かって走っていった。

「ちょっと止めてくれ」

有川は車を降りると、路上の新聞売りから日経新聞を買った。

夕暮れの連絡道路を走りながら、有川は助手席で新聞とにらみ合っていた。

「何を探しているの?」

「金の値段だ……あった。本日の取引、純金地金一グラムが四円六十一銭。つまり一キロなら四千六百十円。一トンなら、ええと、四百六十一万円。五百トンなら、ええと、うんと、二十三億五百万円」

「何の話だい?」

「この広島計画は明らかに新型兵器の開発計画だ。それも日本の陸軍が主導した極秘計画だ。その極秘のはずの計画がだ、神宮寺弘が借りたヤミ金庫から出てきた。でも、フィルムだけじゃただの絵に描いた餅だ。陸軍なら国家予算でこいつを生み出すことができる。だが、個人なら?」

「セミョーノフ」

「あたりだ。男爵は信じていなかったが、もしセミョーノフという男が本当に五百トンの金塊を隠し持っていたら? セミョーノフはこの新型爆弾を手に入れることができる。だから陸軍は特別捜査機関をつくって、警察から捜査を取り上げた。やつらの目的はこのフィルムだ」

 押し黙ったまま、数十秒が経った。バタン式信号が『止まれ』の指示を出した。自動車やオートバイ、トラックが横切っていくのを見ながら、篠宮がつぶやいた。

「どうしたもんかな?」

「俺にまかせてみないか?」

「面白そうだ」

「四谷の浜島署に行ってくれ」


 陸軍に乗っ取られた浜島署に足を運ぶのは考えてみると初めてだった。そして、足を踏み入れるのはこれで最後にしたいものだと思いながら、有川は篠宮を、エンジンをかけたままのダットサンに待たせておいて、署に足を踏み入れた。陸軍の何が嫌いかといえば、丸刈り頭が嫌いだった。まるで囚人のようじゃないか。

 受付の向こうにいる、やはり丸刈りの陸助と目が合った。

「なんだ、貴様。何か用か?」

 有川は襟章を見た。伍長だ。歳も二つ三つ下。上からより下から数えたほうがずっとはやい階級でもこの権柄ぶりなのだ。

「おい、貴様。答えんか!」

「広島計画」有川は言った。

「なんだって?」

伍長は本気で分かっていないようだった。

「よし、伍長」有川は広島計画と貼ってあるリール缶を取り出して、伍長の前に置いた。「このマイクロフィルムのリールを広島計画について知っている一番偉い人間に渡せ。そして、全てを説明できる人間を明日正午に、市ヶ谷第一階層の『市ヶ堀』という釣堀にやって来させろ。さもないと、明日の夕方までには広島計画を全世界が知ることになる。下手な小細工をしかけても同じだ。そうなった場合、伍長、お前は間違いなく満州国境勤務にトバされる。そうなりたくなかったら、尻に帆をかけて、こいつを上の人間に渡してこい!」

 そう言い切ってポカンとしている伍長を残し、有川は背を向けて、とっとと署を後にした。

 待っていたダットサンに乗り込むと、篠宮が訊いた。

「次の手は?」

「まずは寝る」ふああ、と有川は欠伸した。「で、明日の朝起きたら釣りに行こう」

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