第20話 昭和二十年八月二十一日月曜日 丁

 飯田橋唐人町はとにかく騒がしい町だった。ここに住む支那人の大半は広東人で広東語が飛び交う。ここの人間は食べるか賭けるかのどちらかしかしない。ただし食べながら賭けたり、賭けながら食べたりはしなかった。賭けるときはひたすら賭ける。食べるときはひたすら食べる。彼らは常に一つのことに対して真剣であろうとした。

 路上料理屋で鶏の首が次々と跳ね跳びスープにぶち込まれ、持ち上げた蒸篭から真っ白な饅頭が現れる。それでも足りぬと野菜や米、羽根をむしられた鶏や干したヒラメを乗せたオート三輪が次々とやってくるのは唐人町に住む広東人の胃袋を満たすためなのだ。店の幟が派手に立つ目抜き通りでも人は食べるか賭けるかしている。山にした碁石を四つずつ取っていき、ある程度まで少なくなったらお椀をかぶせ、四つ取り続けて、最後にいくつ余るかを張り合うという簡単なファンタン賭博から、何十という役を積み重ねてアガリを目指す支那流本場の麻雀までいろいろあるが、中には魚屋のザルに山盛りに入ったイワシが何匹いるかに全財産を賭けるほどの中毒者もいる。三国志の英雄を祀った祠の前では中国式のトランプの真っ最中で賭け金として重ねられた一円札十数枚の上に南部十四年式拳銃が重し代わりに乗っかっていた。

 もちろんアヘンの悪習もきっちり受け継がれていて、食べるのと賭けるので騒がしい大路から薄暗い横道に曲がれば、あっちこっちのアヘン窟から人間をやめた餓鬼たちのチュッ、チュッとアヘンの煙を煙管から吸い込む音が聞こえてくる。

 飯田橋第一階層の見附三―二―七は奥まった場所にあった。扉を抜けると、支那式提灯型の電気ランプに照らされた一〇×一〇メートルはある正方形の大きな池が目に入った。釣竿を立てかけたカウンターから小太りの支那人がしていた書き物から目を上げ、有川たちを見た。

「日本語はできるかい?」有川は訊ねた。

「話せますよ」支那人がニコニコして言った。

「湯興仁を探しているんだ。あんたかい?」

「いかにも。私が湯興仁でございます」

 黄色い声が上がった。見てみると、池の向こうで十四、五の双子の少女がトランプ遊びをしていた。

 湯興仁はニコニコ顔のまま続けた。「釣りしますか? 一時間五十銭、二時間で八十銭ね」

 有川は鍵と半分に割れた銅貨を出した。湯はすぐに引き出しを開けた。引き出しには同じような割符が五十個近くキチンと正方形に区切られた中に納まっていた。二秒もしないうちに湯興仁は有川たちの割符の片割れを見つけ出し、白虎の絵柄がピタリと合うのを確認した。

「これで大丈夫」湯興仁は引き出しを閉めながら、今度は別の引き出しから帳簿を取って、目当てのページをめくった。

「神宮寺弘さん、または響子・ポクロフスカヤさん?」

「私です」響子が言った。

「ハイハイ。まあ、鍵と割符さえ持ってきてくれれば誰でも開けます」湯興仁はカウンターからのそのそと出てきながら、強調するように人差し指を立てて言った。「でも、鍵があるけど割符がない、割符があるけど鍵がない、そういう場合はダメ。鍵と割符、この二つがどうしても必要」

 湯興仁はトランプ遊びをしている少女たちに呼びかけた。「鈴玉! 鈴麗!」

 その後、広東語で短く何かを伝えると、少女たちは奥の部屋へと消えた。

「神宮寺さんはとても上客」湯興仁はニコニコしながら言った。「一番高い 金庫を二十年も前払いで借りてくれた人。だから、こっちもおもてなしさせていただきます」

 有川たちは池のそばの四人がけの赤い漆で仕上げた鶏の絵が描かれたテーブルに座った。そのとき、奥の扉が開き、学校用の水着に水中マスクを身につけた双子が現われて、次々と釣堀に飛び込んだ。湯興仁がまた何か短い言葉を発すると、少女たちは大きく息を吸い込んでから、イルカのように水中に潜っていった。水の透明度はほとんどなく少女たちの姿はあっというまに見えなくなった。

 その奇妙な光景に目をパチクリしている三人をよそに湯興仁は下唇をつまんだり、口髭を撫でたりしながら、お茶談義に花を咲かせようとしていた。

「お茶を覚えたての人はすぐに龍井茶はうまいと感じます。事実うまいのです。でも、そこで素直にうまいといえず、逆に龍井茶は俗だといい、龍井を後生大事に飲む人たちを馬鹿にします。そして、その後も通ぶって正山小種や君山銀針を褒めたり貶したりして、同じ緑茶でも緑牡丹を褒めたりするのですが、十年二十年お茶を楽しむと結局最後には龍井茶に行き着くのです。長い時代、龍井茶が尊ばれたのは理由があってのことなのです。さて、今日のお茶はどうしましょう? 先ほど私は龍井は最高だと言いはしましたが、もう龍井茶は季節が終わってしまいました」湯興仁はしばらく考えてから、「そうだ、碧螺春にしましょう。このお茶は今が旬です」

 湯興仁がさらにいろいろ話しているあいだに一分半が経過した。少女たちはまだ上がってこない。

「あの子たちは娘さんですか?」

 有川の問いに湯興仁は、その通り、その通り、とニコニコ何度もうなずいた。「鈴玉と鈴麗。どっちも私の娘。私じゃなくて死んじゃった妻に似てくれてよかった。妻は絶世の美人。日本の皇帝が後宮を持ってなくて本当に良かった。もし、日本の皇帝が後宮を持ってたら、間違いなく妻は後宮に取り上げられたし、鈴玉と鈴麗も後宮に取られたね。でも、日本の皇帝、後宮持ってない。だから、あの子たちも私も安心して暮らせる。これはとても素晴らしいことです。目に入れても痛くない娘たちです」

「その目に入れても痛くない娘さんたちですけど」篠宮はちょっと心配した様子で言った。「潜ってから三分経ってますよ」

 湯興仁は笑いながら、大丈夫、大丈夫、と答えた。「あの子たちのことなら心配いらない。私が心配するのはどうやってお客様をもてなすかですよ。お茶は碧螺春と決めましたが、はてどう淹れたものか? そもそも、こうも蒸し暑いと、どんな銘茶も喉には熱すぎて不快です。そうですね――しずく碧螺春にしてみましょう。これは真夏の日本で玉露を冷たくして飲むための方法だけど、碧螺春にもぴったり合う。ちょっと待っててください」

 そう言って、湯興仁は奥の部屋へ行ってしまった。そのまま三分間、有川たちは池を見ていたが、あぶく一つ立たなかった。

 湯興仁が日本茶で使う片口や氷の塊、茶碗を盆に乗せて戻ってくると、篠宮がもう潜ってから六分以上経っているけど、と心配そうに訊ねた。

「大丈夫、大丈夫」湯興仁は笑って言うのだった。「それよりもこの碧螺春。見てください。正真正銘太湖の洞庭山産。んっ、極上で確かな甘み。これを日本茶で使う片口に入れて、軟水の湧き水を凍らせて作った氷を葉の上に乗せる。氷は私、栃木の氷屋から買っています。帝都の水で淹れたら、せっかくの碧螺春が泣きます。よし、これで氷から溶け落ちるしずくの一滴一滴に碧螺春の風味が溶け込んで、冷たいのにおいしく碧螺春を飲めてしまう。後は長いこと待つだけ」

 そう言って、しずくを貯め始めてから三分が経った。

「あの子たち、もう九分近く潜ってるよ」篠宮が腕時計を見て言った。

「大丈夫、大丈夫」湯興仁は片口に溜まった茶の様子を伺った。「おお、溶けてる溶けてる。まだ、足りないけど」

 パン、と銃声が遠くない外から聞こえた。さらに広東語の罵声と二発目三発目の銃声が聞こえた。

 微妙な顔つきの有川たちに湯興仁はまたあの、大丈夫、大丈夫をやった――誰かが撃たれて、トドメに二発撃たれただけです。

「唐人町もいろいろありまして」湯は言った。「国民党と共産党のシンパが それぞれ秘密結社を作って抗争に明け暮れています。お互いのことを嘲笑った風刺劇や影絵芝居をやっているうちにお互いの頭がカッカ熱くなって、賭場やアヘン売買の独り占めを企んだり、相手の大物を手斧とピストルで蜂の巣メッタ斬りにしたりと、どんどん話が大きくなっていくのですな」

「あなたはどっちが勝てばいいと思っているんですか?」

「どっちが勝ってもろくなことにならないと思っています」湯は首を振った。「蒋介石と毛沢東。どちらも皇帝になろうとしています。大総統とか総書記とか名前こそ違えども、その中身は間違いなく皇帝です。民国に必要なのは皇帝ではなく、議会です。しかし、中華民国に議会制民主主義を導入する機会は遠い昔、宋教仁とともに死にました。袁世凱が殺したのです」

「ところで娘さんたちのことなんですが……」

 湯興仁はチョッキから銀の鎖を引っぱって懐中時計を覗いた。

「大丈夫、大丈夫」湯興仁は片口に溜まったお茶の様子を見た。「やあ、これはちょうどいい。冷たい碧螺春の出来上がりです。茶菓子に干し杏を用意しました。では」

 そう言って、湯興仁は片口に蓋をかぶせてかすかにずらし、葉は入らず、冷たい茶のしずくだけを入れるようにして、三人の茶碗にお茶を注いだ。

「さあ、飲んでください」

 そう言われて、有川たちは冷たい茶を飲んだ。なるほどあれだけ勧めるだけのことはあって、日本茶や紅茶にはない甘みと風味がある。部屋が蒸し暑いだけに余計にうまく感じられた。

「あと氷をまた入れておきましょう」と、湯興仁。「この碧螺春はまだまだ風味を出し切っていません」

 そういって茶の入った片口に氷を足した。

「どうですか? おいしかったでしょう?」

「ええ。ところでお宅の娘さんたち、もう水の中に潜って十五分近く経ってますよ」

「大丈夫、大丈夫。それより干し杏をどうぞ。召し上がってください」

 娘たちが潜って二十七分後、三杯目の碧螺春を飲んでいるときに、まずあぶくが次に、赤く六十三と書かれた大きな防水トランクを二人がかりで持ち上げた双子が顔を出した。

「ね、大丈夫だったでしょう?」

 湯興仁はそう言うと、防水トランクの取っ手を握ると、よっこらせと持ち上げた。水から上がった双子の娘に駄賃をやると、娘たちは走っていって奥の小部屋に飛ぶように走っていった。

「これが一番安全な保管方法。六十三番の金庫。鉛でできた完全防水トランク。銀行は裁判所に命令されたら貸金庫の中身を見せるけど、うちは違う。お客さまの秘密はきちんと守る。中身の確認でしたら、あちらの小分けされた部屋でどうぞ」

 小部屋の一つまで重いトランクを運ぶと、響子が六十三番の鍵を差込み、カチッと音が鳴るまで回した。

 トランクを開ける。

 中には映画用リールのような缶が二つ入っていた。片方は『広島計画』と書かれた紙が糊付けされ、もう片方には『ネガ』と書かれた紙が糊付けされていた。

 有川の頭の中でカチッと音が鳴った――捜査を横取りした陸軍――陸軍広島特別工兵管区――広島計画。

「ちょっといいですか?」そう断ってから、有川は『広島計画』の缶を開けた。案の定、映画のフィルムのようなものが入っていたが、これが映画のフィルムではないことは一目瞭然だった。有川は少し引っぱって、伸ばしたフィルムを光にかざした。

「あの――」響子が訊ねた。「これは何なんでしょう?」

「マイクロフィルムです」有川はフィルムを篠宮に手渡した。「情報を小さなフィルムに焼いて記録保管したものです」

「中には何が書いてあったのでしょう?」

「わかりません」有川は首を振った。「でも、ここまで厳重に隠した以上、犯人はこれを狙い、あなたの叔父さんの命を奪った可能性が高いです」

「このフィルムが? でも、これが何なのか調べる方法はないでしょうか?」

 篠宮はマイクロフィルムを少し長めに伸ばして、目を凝らしていった。「中身は図だの数式だのに溢れているね」

「図に数式か。何かの研究に関する情報ってことか?」

「それならそういうことが分かりそうな人がいるじゃないか」

 有川と篠宮の頭の中に同じ名前が点灯した。

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