第17話 昭和二十年八月二十一日月曜日 甲

 さんざん気炎を上げ、串カツと芋焼酎ですっかりいい気持ちになった二人が事務所に戻ったのは、午後十二時四分過ぎだった。

 八階ワルツ丸商店街を歩いてきた二人は自分たちの事務所の明かりが点けっぱなしにしてあるのを見つけた。それぞれがお互いに消し忘れたんじゃないのかと責任をなすり付け合い、階段を上りながら、お互いのあら探しに必死になっているうちに事務所のドアが開き、受付部屋を通り過ぎて、所長室に入った途端、二人の顔から血の気がさあっと引いていって、酔いが一発で醒めた。

 所長室の長椅子に響子・ポクロフスカヤがスースー寝息を立てていた。有川は一時的だが、現実逃避した。篠宮流に観察したのだ。青いベレー帽にトルコ石のブローチ、白のブラウス、青と黒とグレイのチェックのスカート、そして黒い靴――現実逃避はそこまでだった。有川と篠宮はそれぞれ手帳を取り出し、八月二十日の欄を見た。

《夕方に響子Pに報告。口答も可》

 確かにそう書いてあった。

 こんなとき、武士だったら楽だ。腹を切って死ねばいい。

 でも、有川と篠宮は武士ではない。

「本当にすみませんでした!」

 響子を起こすと二人はひたすら謝った。響子も謝った。八来軒の老婆に合鍵で開けてもらって(あのババア、合鍵なんて持ってたのか! これには有川も驚かされた)、勝手に長椅子に座って待っていたんですが、隣の資料室の散らかりようが気になったので、これも勝手に整理してしまいました。もちろん中身は見ていません。全部アイウエオ順に、後は数字で追えるようにして整理しました。勝手なことだとは思っていたのですが、気になって気になってしょうがなくなって、本当にすいません!

 いえ、こっちこそすいません、約束をすっぽかした上に資料の整理までしていただいて、本当に、本当にすいませんでした!

 お互い謝り尽すと少し考える間ができた。今なすべきことは――響子を青山の家まで送り返すことだろう。有川は高階婦人に電話をかけると、案の定まだ起きていた。事情を話すと、高階婦人はホッとしたようだった。

「これから送り届けますので。はい、すいません」

 篠宮はもう帽子をかぶって、外に出る仕度をしていた。

「じゃあ、響子さん。おうちまでお送りしますので」

「はい」

「それで報告のほうは?」

「明日に延期でどうでしょうか?」

「はい、それで」

「ご希望の時間帯は?」

「午前の遅く、十一時ごろに」

「わかりました。では、午前十一時に」

 帽子かけに近づいたところで、また電話が鳴った。

 有川はテーブルに戻って、受話器を取った。

「はい、こちら有川探偵事務所です」

「……」

「もしもし?」

「うっ、うっ……」

 呻くような泣き声が聞こえてきた。

「どちらさまで?」

「僕だよ、有川……」

 声を聞いてピンときた。

「なんだ、寺井か。おい、お前。俺たち、お前も誘おうと思って、今日さんざん電話して――」

「僕は馬鹿だ」

「そんなこと昔から知ってるよ。悪いが、いま取り込み中で――」

「大馬鹿なんだ! 馬鹿な自分に嫌気が差して死のうと思って、つい今さっきカルモチンを大量に飲んだんだ。でも、今は死ぬのが怖いんだ」

寺井は電話の向こうですすり泣き、そして叫んだ。

「うっ、うっ、お願いだよ、有川! 助けて、死にたくないよ!」

「水を飲めるだけ飲んでから口に指を突っ込んで錠剤を吐けるだけ吐け! いますぐそっちに行く!」

 有川は受話器を叩きつけるように置くと、上着を引っかけて、帽子をかぶりながら、「篠宮! 車出せ!」と叫んでいた。

「え? な、なに?」

「寺井って俺の友人が睡眠剤をあおって死のうとした! 四谷まで車を出せ!」

「わかった! あっ――」

「なんだ! はやく――」

 篠宮が叫んだ。

「響子さんは! 一人にしておけない!」

 有川はそれに気づいて、どうしようか数瞬迷ってから響子のほうを振り返った。

「すまない、響子さん! 一緒にきてくれ!」

 三人は篠宮のダットサン・クーペに乗り込むと、二十分後には四谷街塔区の第九階層の住宅街に車で入っていった。寺井に家は生垣に囲まれた一軒家で門をくぐると有川は鍵のかかったガラスの引き戸をガタガタ揺らして叫んだ。

「寺井! おい、寺井!」

「返事がないよ!」

 有川は肘でガラスを割って手を伸ばし、鍵を外した。

 電灯の下、居間には浴衣姿一枚で仰向けに倒れている男がいた。有川はそのそばに屈むと、寺井の頬を力いっぱい叩いた。ロイド眼鏡がすっ飛んだ。二度、三度叩くと、寺井がぼんやりとだが、目を覚ました。

「寺井! 俺の声が聞こえるか!」

「う、うん。大丈夫だよ、有川」寺井の視線が宙を彷徨った後に篠宮と響子の顔に行き当たった。「やや、こちらの方々は?」

「探偵事務所の相棒の篠宮と依頼人の響子・ポクロフスカヤさんだ」

「ポ、ポクロフ?」

「あ、ええと、父がロシア人で母が日本人なんです」響子が言った。

「へ、あ、そうなんですか。よろしく」

と、寺井が寝そべったままの状態でぺこりと頭を下げたので、

「いえ、その、こちらこそ」と、響子もぺこりと頭を下げた。

 有川がいらだたしげに言った。

「で、何錠飲んだ?」

「飲んだって、何を?」

「カルモチンだよ」

「そうだった、ちょっと待って、えーと……五十錠だよ、間違いない」

「五十錠? で、吐き出したのは?」

「ちょっと待ってて……あ、誰か僕の眼鏡――」

「これですか?」篠宮は座布団の上に乗っかっていたロイド眼鏡を手渡した。

「これです、これです。ありがとう、ええと――」

「篠宮です」

「はい、篠宮さん。はい」

 寺井は眼鏡をかけると、じゃあ、いってきます、といって、トイレに向かい、水洗便器に浮かぶ錠剤の数を数えた。

「全部で三十一錠吐き出したよ」

「カルモチンは酒で飲んだのか?」

「ううん、ちゃんとお水で飲んだ」

「そうか。じゃ、おやすみ。せいぜい良い夢見ろよ。おい、篠宮、帰るぞ」

「ま、待ってくれよ!」寺井はそう言いながら出て行こうとする有川の腕をすがるようにつかんだ。「子どものころからの親友が自殺未遂を起こしたのに、それを放って帰ろうっていうのかい?」

「そうだ。悪いか?」

「悪いよ! 全然良くないよ! もっと心配すべきだよ!」

「あー。もううるせえなあ。あのな、寺井。人間はたかだか五十錠のカルモチンを飲んだくらいじゃ死ねないんだよ。百五十錠飲んで生きてたやつがいたくらいなんだぞ。大体、なんで警察や消防署じゃなく、まず俺に電話するんだよ?」

「だって警察や消防署だと後で怒られるじゃないか」

「俺だって怒るよ、ド阿呆!」

 ひえっ、と怯える寺井に対して、

「まあまあ」と、篠宮が間に入った。「とりあえず靴を脱ごうよ、ね? 土足じゃなんだから。話はそれから」

 それから妙なことになった。ぐずっている寺井に対して、真ん中に有川が胡坐をかき、左に篠宮が膝を抱えて座り、右に響子が座布団の上に正座していた。

「で――」有川が問い質すように言った。「何が原因で死のうとしたんだ?」

「それが、それが……」寺井はぐずりながら心底痛ましい様子で言った。「小説が書けないんだ」

「なんだ、そのくらい」有川はせせら笑った。「編集者に土下座して締め切り延ばしてもらえば済む話じゃないか」

 寺井はぶんぶん首を左右に振った。

「出版社に渡す分はとっくに書き終わってる」

 寺井は座卓の上に積みあがった原稿用紙を指差した。

「問題はもう一つのほうなんだ」

「もう一つ?」有川が訊ねた。「なんだよ、そのもう一つってのは?」

 始め寺井は口の中で言葉を転がすようにぼそぼそと言った。有川がもっと大きな声で言えというと、寺井は、

「探偵小説が書けないんだ!」

 と、心臓が破裂しそうなほど大きな声で言った。

「書いても書いても駄目なんだ。まったく事件になっていないんだ! 本物の事件には絶対起こらない不純物が混じるんだ。どれだけ不純物を取り除いても、どうしても不純物が僕の邪魔をするんだ」

 そのうち寺井は明治のころのものと思われる大きな銅貨を懐から取り出して両手で握りしめ、ぶつぶつ願掛けを始めた。「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。探偵小説の神さま、僕に探偵小説を書くための才能をください。本物の事件を書くための才能をください。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……あ、なんだか、また眠くなってきた。有川、布団敷いてくれる?」

 往復ビンタをくれてやろうとする有川を篠宮が押さえているあいだに響子が布団を敷いた。その間もずっと寺井は銅貨を手の中でこすりながら南無阿弥陀仏と唱えていた。そして、銅貨を握りしめたまま、眠ってしまった。

「結局、カルモチンを十九錠は飲んでるんだからな。こりゃ、夕方まで目が覚めんぞ」

 寺井の家に篠宮と依頼人である響子・ポクロフスカヤと一緒にいる。一体、どこで何をどうしたらこうなるのだろうと考えているうちに玄関から、

「寺井くん! 寺井くん!」

 戸がガタガタ動く音がした。

「寺井くん、大丈夫なのかい!」

 寺井の野郎、一体何人に電話したんだ、と思いながら、沓脱ぎ石のところにいる男と対面した。男は有川や寺井より五、六ほど年上なように見えた。

「どうも」有川がペコリと挨拶した。

「あ、どうも」相手も挨拶した。「あの寺井くんは?」

「大丈夫です。飲んだカルモチンは致死量に達しない五十錠で、そのうち三十一錠は吐き出したそうです」

「じゃあ、寺井くんは?」

「楽しい夢の中です」

 男は柱に寄りかかりながら、ヘナヘナと座り込んだ。

「全く心配させられる」

「ほんとにその通りです」

「あ、僕は少弐恵介といいます。よろしく。寺井くんと同業の物書きです」

「有川正樹です。職業は私立探偵で寺井とは古い付き合いがあって。まあ、こんなところで立ち話もなんですし、どうぞ居間のほうへ。今、寺井の顔に落書きするための墨を擦っているところです」

 有川が少弐恵介を奥に通して、墨を擦っている篠宮とちゃんと布団をかけなおしている響子に少弐を紹介した。すると、響子がハッと息を飲んだ。

「ひょっとして、『水中花』や『二胡は唄う』を書いたあの少弐先生ですか?」

「え、は、はい。そうですけど――」

「あ、あの私、少弐先生の小説全部読みました!」響子は今までに見せたことのないほどの熱っぽさで言った。「『躓石』も『大楡の下で』も『月がのぼらない世界』も!」

 響子は少弐をつかまえて、あの場面は良かったこの場面は良かったと褒めちぎり、響子の手帳に少弐のサインを書いてもらえて、ようやく一段落ついた。

「ところで」と、少弐は寺井の顔にカイゼル髭を描いている有川に訊ねた。「あれは新作かい?」

 少弐が指した先には、座卓に積みあがった原稿用紙があった。

「ええ、そうみたいですよ。出版社に渡す分はもう書き終わってるって言ってました」

 そうか、と少弐はつぶやいて、しばらく爪を噛んだり庭の縁側で敷島一本吸ったりして逡巡した後、

「すまない。けど、許してくれ、寺井くん。好奇心には勝てない」

と、言って原稿を読み出した。

 題名は「船曳きミーチャ」。中篇くらいの分量の小説だった。少弐が座卓で正座してぺらぺらと原稿をめくっている間、有川は寺井の顔をキャンバスにして迸る情熱をぶつけていた。

 もうこれ以上描けないといったところまで描いたところで、少弐も原稿から目を離し、ため息をついた。

「寺井くんはロシアに行ったことはないし、ロシアの船曳きに取材をしたこともない。それでも彼にはわかるのだ。人類全般が引きずっている船が、船を引きずることの苦しみを、そして、そこから放逐されることの悲しみを確かに捉えているんだ」

 有川も篠宮も響子も寺井の原稿を見た。一切の書き足しや取り消しのないきれいな文書だった

「清書ですか?」響子が訊ねた。

「いや、草稿だよ。正確には清書として完成した草稿」

「どういうことです?」

「寺井くんの原稿は書き損じが一切ないんだ」

 言葉を切った後、少弐の口から言葉が迸った。

「寺井くんは――彼に自覚はないだろうが――今の文壇では頭一つずば抜けてる天才だ。彼はね、言葉の天皇なんだよ。彼は一度も言葉に裏切られたことがないんだ。純文学に限って言えば、彼は原稿用紙をくしゃくしゃに丸めて、いらだたしげにゴミ箱に投げ捨てたことが一度もない。普通の作家は言葉に何度も裏切られる。自分の思い通りの描写をするため、思い通りの会話を登場人物にさせるためにあらかじめ言葉を頭の中できちんと配置しておく。あるいは熱情の赴くまま筆を走らせる。ところが、実際に原稿用紙に書いてみると、冷静に文を組もうが情熱で文を組もうが、そこにあるものが全く違うものになっているんだ。そうやって裏切られる度に二重線で裏切りものを消して、新しい言葉を入れてやる。そうして、修正した言葉たちを含む一文を読んでみると最初の三回はうまくいったように見えるけれど、四度目か五度目には不安になり、六度目には間違いなく修正前のほうが素晴らしい表現だったと思ってしまう。つまり、裏切ったのは別の言葉たちで僕に誤った粛清を行わせるために僕を惑わしたということになる。そうなると、大変でこの裏切りに加担したと思われる言葉に片っ端から二重線を引き訂正をしまくる。だが、この訂正にも裏切られているような気がして、くしゃくしゃに丸まった原稿が増えていく。最後のほうになると、その原稿全部が僕を裏切っていたとしか思えなくなる。もし僕が洒落た洋館に住んでいたら、原稿は暖炉に放り込まれ、杉が焼かれる香ばしい匂いとともに消えてなくなっていただろう」

 そこで一呼吸置いてから、少弐は半ば興奮した様子で続けた。

「でも、寺井くんにはそれがない。多くの作家たちを小馬鹿にし、疑心暗鬼に追い込み、致死量のカルモチンを飲ませるまでに到らせた言葉たちも寺井くんには敵わない。寺井くんは言葉の鼻先をつかんで左へ右へ引き回し、彼の望む場所に、彼が望むようにして言葉を文章に昇華することができる。彼の原稿には一度も書き足しや二重線がない。既に頭の中で言葉を完璧に従わせているから、編集者が手を入れる余地もない。かといって驕慢になるわけではない。彼は繊細でその性根には善意が溢れている。例えば、二銭銅貨」

 そういって、彼は布団から突き出た寺井の手に握りっぱなしになった大きな銅貨を指した。

「あれは探偵小説が書けるようにとお守り代わりに私が送ったんだけど、彼はちゃんと身につけて離さないでいてくれている」

「あの銅貨と探偵小説のあいだに何の関係があるんですか?」

「江戸川乱歩の『二銭銅貨』を読んだことがないのかい?」

「あ、私はあります」響子が言った。

「恥ずかしながら」と、有川と篠宮は首を左右に振った。

「日本の探偵小説の元祖だよ。読んでみるといい。面白いから」

 じゃあ、早速と言って、篠宮は寺井の本棚を漁り、江戸川乱歩の短編集を取り出した。

「あ、あった。二銭銅貨」

 篠宮が短編集を読んでいる間にも、少弐は興奮して、有川と響子を相手に、何というか――彼流の『寺井論』を論じていた。

「探偵小説か」少弐は言った。「これがなければ、寺井くんのことは《書く機械》にしか見えなかっただろうし、そうなると僕は彼を蛇笏のごとく嫌いぬいただろうな。なぜなら人間が機械に負けるのは屈辱以外の何物でもないからだ。そして、これから多くの分野で人間は機械に負け続けるだろう。僕は最終的には感情という人類最後の砦においても、人間は機械に負けると思っている。何事にも無感動無関心な人間たちの代わりに機械たちが怒り、喜び、悲しみ、涙を流す日が遠からずやってくるだろう。もちろんそのときには人間は小説でも勝てなくなっている。そんな世の中、私は嫌だ。でも、人間が人間に負けるのならば正当だ。そして、この探偵小説へのこだわりで寺井くんが機械なのではなく《書く人間》なのだと教えてくれる。だから、僕は自分が負けたとしても寺井くんが好きなんだ」

 表の戸がまたガタガタ鳴り始めた。

「寺井くん! 寺井くん!」

 若い女性の声だった。

「またか」と、有川。「本当に寺井のやつ、一体何人に電話したんだ?」

 若い女性は白のブラウスに紺のスカートといった簡単な余所行きを着て、沓脱ぎ石のところから電気のついている部屋を覗っていた。有川は廊下から玄関に姿をあらわすと、若い女性は驚いて言った。

「あ、有川くん?」

「よお、赤松。お前も寺井に呼ばれた口か?」

「寺井くんは? 大丈夫なの?」

「飲んだカルモチンが五十で、吐き出したのが三十一。差し引き十九のカルモチンでいい夢見てるよ」

 赤松は少弐のときと同じようによろけて柱によりかかり、へなへなと座り込んだ。

「もう、本当に本当に心配したんだから!」

「俺もそう言って、さんざんシバいたよ」有川が立ち上がるのに手を貸した。「まあ、立ち話も何だから、中に入れよ」

 有川は居間の三人に赤松を紹介した。

「こちらは赤松千鶴。寺井の馬鹿に呼び出された五人目の被害者だ」

 篠宮と響子と少弐がポカンとしているそばで、有川は千鶴と座って、気のおけない談笑をしていた。

「赤松なんか寺井と会うのは十五、六年ぶりじゃないのか?」

「そうでもないわよ。今撮ってる映画の原作、寺井くんが書いたの。だから、ちょくちょく撮影所で会ってるのよ。《麦わら帽子と外套》って名前の小説なんだけど聞いたことない?」

「知らん。もともと本は読まないからな。ましてや、寺井の書いた本なんて余計読めないよ。どんなに真面目な場面でも書いてるのがこの寺井なんだぜ。絶対笑っちまう」

「えー、私は好きよ。寺井くんの書いた小説」

 談笑の途中で、ちょっとちょっと、と篠宮は有川の袖を引っぱり寺井が眠っている隣の部屋に連れ出した。

「ひょっとして赤松千鶴は?」

「元少年探偵団だけど?」

「一度も聞いてないよ!」

「そんなことない。テキ屋横町でちゃんと言ったろ。いつも一緒につるんでいたのは照山、田島、寺井、そして赤松」

「そんな説明だけじゃ、その赤松が赤松千鶴だなんて夢にも思わないよ!」

 一方、千鶴は響子と談笑していた。響子にしてみたら、わけのわからない夜だろう。捜査の進捗を聞くはずが、いつのまにか寝入って、起きたと思ったら若手作家の自殺未遂現場に連れてこられ、かと思ったら、今度は流行作家と映画スターの二人に一度で出会ってしまう。めまぐるしい夜だった。

「あ」と、響子は言った。「報告」

 有川は騒々しくなった寺井宅を出て、裏庭で一服していた。

「あの、有川さん」と、響子は後ろから声をかけた。「簡単なものでいいですから、報告を聞かせてもらえますか?」

 あ、そうだった。有川は思い出すと、煙草を踏み消した。篠宮は千鶴につかまって、そんなきれいな顔してるんだから勿体ない、オーディションを受けてみなさいよと迫られていて、それどころではなさそうだった。

 有川と響子は庭で向かい合った。

「とりあえず、十七日から二十日までの調査報告をします。こんなことを言うと、気を悪くされるでしょうが、まず俺は犯人として高階婦人に見当をつけていました」

「そんな!」響子は頭を左右に振った。「高階のおばさまが叔父さまを殺すなんて絶対ありえません!」

「一応、可能性があれば、調べるのが探偵の仕事です。神宮寺氏と高階婦人は事件発生時に同じ場所にいたのです。偶然にしてはできすぎている」

「真犯人が高階のおばさまに疑いが向くように仕掛けた可能性は?」

「ゼロではありません。しかし、救世軍婦人会の会員から取った高階婦人のアリバイは虫食いだらけな上に事実誤認が多々あり、とてもアリバイと呼べたものではありません。しかし、一方で高階婦人がガソリンらしきものが入った容器を持って移動しているのを見かけたものがいないか、これも訊ねたのですが、皆無でした」

 高階婦人についての説明を聞いている響子の顔は本当に辛そうで、このまま話を続けると、この子は壊れてしまうのではないかと危惧するほどだった。

「どうしますか? 続けますか?」

 響子はうなずいた。

「もし、高階婦人が犯人だとしたら、動機は? お金じゃないことは確かです。後は男女間の諍い、たとえば神宮寺氏が浮気を――」

 響子がまた反論しようとしたのを、両手のひらを見せて制した。

「これはないと俺たちも考えています。それならあなたを青山の自宅に引き取る理由が分かりませんからね」

「おばさまは私が寂しいだろうと心配して、一緒に済みましょうと言ってくれました。私も叔父さまの死を一人ではとても抱えきれないから、おばさまの言葉を本当にありがたくて――」

「そのことなら聞いています。三人は本物の家族のようだった、と」

「家族だったのです」響子は言った。「私たちはかけがえのない絆で結ばれた家族そのものでした。高階のおばさまがそんな恐ろしいことをするなんて――」

「そこで私は神宮寺氏の別の面から調査を進めました。その結果分かったこととして、神宮寺氏は満州のハルビンに住む白系露人の顔役に武器を売ったことが判明しました」

「武器? 叔父さまが?」

「ええ」有川は言った。「その白系露人は反ソ侵攻を実行に移すための武器をかき集めているようでした。神宮寺氏はかなりの武器を売り払ったようです。これは危険な取引です。取引相手の白系露人もさることながら、そんな取引をしていることを共産主義者の過激派に知られれば、神宮寺氏の命は間違いなく狙われることになります」

 そこで初めて気がついた。響子の両目に涙が溜まって、頬を伝い落ちていた。

「叔父さまはそんなことをしていたのですね」響子は声を震わさずに静かに淡々と言葉を紡いだ。「変ですね。葬儀の席でも出なかった涙が今になって出てきました。叔父さまは死んだのだと今になって実感が湧いてきました。父と母が亡くなってから、私はずっと叔父さまの庇護のもと暮らしていました。私は叔父さまにかわいがられ、私は叔父さまを実の父のように慕っていました。起業して休日もろくに取れなくても、いつも私のことを気遣ってくれて。叔父さまに頼りきりでした。叔父さまがそんな危険な橋を渡ろうとしていたとき、私はただの邪魔者でしかなかったのですね――私に何か出来ることがなかったのでしょうか?」

 すがるような目だった。有川は苦い顔をして頭の後ろを掻いた。

「こういうとき、相棒の篠宮ならきっと気の利いたことを言って慰めてくれるか、泣くための胸を貸してくれると思うんですが、俺はそういうのに不得手で。申し訳ない。でも――」有川は言葉に力を込めて言った。「あなたの叔父さんを殺したやつは必ず捕まえてみせます。それだけはお約束します。俺にできることと言ったらそのくらいですから」

 響子は自分のハンカチで涙をぬぐうと、恥ずかしいところを見せてしまいましたね、と軽く笑って、これからもよろしくお願いしますとペコリと軽くお辞儀した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る