第16話 昭和二十年八月二十日日曜日 丙

 午後五時半に事務所に戻り、このことをどこまで警察に言えるか考えた。男爵の正体を教えることはできない。ポルフィリーエフの顔をつぶすことになる。ただ、警察が独力で武器売買まで解明できるかは未知数だった。武器売買でわざわざ白系露人社会を経由するところを考えると、神宮寺の売った武器は間違いなく密売だった。と、なると、日本中の工廠の製造番号を追わなければいけない。それも陸軍省が協力しての話だ。お前ンところ、武器が漏れてるから調べさせろ、などといえば、陸軍は絶対に扉を閉ざし、憲兵を使って内々に事を済ませることになるだろう。そうなれば、警察に情報は落ちてこないし、もちろん有川にも落ちてこない。

「救世軍婦人会と鮫ヶ淵はほとんど空振りだったのに、ここで一発三塁打だ」有川は言った。

篠宮は体を反対にして背もたれに寄りかかった。「赤色ギャング説が強くなったね」

「まだ、何の証拠もない。だいたいセミョーノフと武器取引していたという話をアカの連中が知っていたかどうかってことも分かっていない」

「高階婦人と赤色ギャング。今ならどっちが怪しい?」

「正直分からない。昨日までは高階婦人説に結構自信があったが、男爵の話を聞いたら、その自信もひどく揺らいだ。どちらもアリバイなんてないも同然。だが、片方にはかなり分かりやすい動機があって、もう片方には動機がまったくない」

 チェリーの包装をむしって、一本口にくわえたところで電話が鳴った。

「はい、こちら有川探偵事務所です」

「有川か? おれだ、照山だ」

「ちょっと待ってくれ。お前、今どこにいるんだ。騒がしくて話が聞こえん」

「市ヶ谷の――」

「なんだって?」

「市ヶ谷の! 十階の! テキ屋横町で飲んでるんだ!」

「飲んでるって、お前……仕事は?」

「そのことで話がある。会って話そう」

「電話じゃだめなのか?」

「いろいろ話すことがあるんだ。じゃ、テキ屋横町の『かつやん』って夜店の串カツ居酒屋にいるから。今すぐ来いよ」

 有川がフックを置くと、篠宮がどうしたの、と訊いてきた。

「照山が二階上のテキ屋横町に来いって言うんだ。話したいことがあるって。どうも酒が入ってるみたいだった」

「貸金庫のことで何かあったのかもね。こっちも情報交換のつもりで行ってみようか」

「そうだな」

 有川は上着を羽織って、帽子を手にしたまま、外に出た。

「車は?」

「近場だからいらんだろ」

 事務所を出て、十階まで続いている作業員用の階段を使って、十階の大通りに出た。五十メートル先、薬局を曲がった角の先がテキ屋横町だった。銀座の発明市場や浅草のテキ屋街ほどではないが、市ヶ谷の夜店もそれなりに賑やかで、仕事の終わった工員やサラリーマンが肩を並べて、酒をあおっていた。

『かつやん』の提灯が見えた。だが、近づいて座席を見てみると、『かつやん』に照山の姿はなかった。

「どこに行くって伝言を残していなかったか?」

 かつやんの親父は首を振った。

 篠宮が言った。「これって探偵小説じゃまずい展開だよね。話したいことがあるけど、電話じゃ話せない。それで会おうとしても見つからない。これは真相に近づいた登場人物が探偵に重要なことを教えようとして殺されてしまうパターンだよ」

「縁起でもないこと言うなよ。とにかく探すぞ」

 アセチレンの火に照らされた黄色いテキ屋横町はラヂオ焼きや一銭洋食を焼く店もあれば、売れ残ったサントリーの白札を舶来物だと偽って出す店もあるし、詰め将棋やスマートボールなどの遊び場もあった。父親につれられた女の子が一銭玉を渡すと、夜店の主人が更紗の織物の上で壷を傾ける、するとビードロのおはじきがきらきら光りながらザーッと流れ出す。少女は好きな色のおはじきを両手で一度に持てるだけ持っていっていいことになっていた。金魚売りは安い和金だのを桶に入れて、高価ならんちゅうは一尾ずつ雛段上の金魚鉢に入れられていたが、そうした売り方はなんだか吉原の遊郭を連想させた。

 テキ屋横町はいつだってそうだ。大通りを歩いていた人がいつのまにかテキ屋横町に吸い込まれていく。ここはいつも人で賑わい、どんな狭い道にもカルメ焼きやぶっ切り飴の夜店があって、そうした夜店へ照山を探して一軒一軒あたるのを思うとうんざりするのだった。だが、あの大きな図体は目立つからうまくいけば、すぐに見つかる。有川はそう思った。事実、十分もしないうちに照山は見つかった。

 ちゃんと元気に生きていた。照山は射的屋にいた。二人を見つけると、こっちに来るようにと乱暴な素振りで手を振った。不機嫌なのが三十メートル先からでも見て分かった。

「俺のおごりだ」照山はやはり酔っ払っているらしく、不機嫌そうにフンと鼻を鳴らして言った。「おばちゃん。二人に一皿ずつやってくれ」

 すると五つのコルク玉が転がる琺瑯びきの小皿とおもちゃの鉄砲が有川と篠宮のためにそれぞれカウンターに用意された。

 射的屋の奥の雛壇には各種銘柄の煙草やキャラメル、チョコレートの箱、キューピー人形が並んでいる。照山の手元の皿にはコルク玉が二つと敷島が一箱あった。次はあのエアーシップを撃墜してやるといって、照山はコルク玉を銃口に押し込んだ。

「よーし、あのエアーシップを撃墜してやるぜ」

「なあ、照山」有川も弾を込めながら訊いた。「話したいことがあるんじゃなかったのか?」

 照山は装填済みの鉄砲を台に置くと、有川たちのほうを向いて、

「クソッタレな情報と物凄くクソッタレな情報がある」と、前置きした。「どっちから聞きたい?」

 有川は答えた。

「ええと……じゃあ、クソッタレな情報から」

「犯人が残した唯一の遺留品、レインコート。あの線は切れた。あれは廃物利用のゴム引き布から作られた安物でそこいらじゅうの横町で売られている。もちろん工場と小売店を追える製造番号なんて打ってないし、府内だけでもあれを売っているやつらが二千人はいる。しかも売り子は常に移動しているときている。あのレインコートは上野や渋谷でも買えるし、もちろん鮫ヶ淵でも買える。ここでも買えるんじゃないかな? あれで犯人を絞り込むのは不可能だ。クソッタレな話だろう?」

「なるほど。クソッタレだ」有川は答えた。

 照山の発射したコルク玉は手元が狂ってエアーシップの上を通り過ぎいった。

「で、物凄くクソッタレな情報は?」

「事件をかっさらわれた。陸軍に」

「陸軍?」

「そうだ。突然、人の職場に土足でやってきて警部以下俺たち全員の前で陸軍が特別に創設した特務調査機関が捜査を引き継ぐ、とかほざきやがった。何様のつもりか知らねえが、本当にとんでもねえクソッタレどもだよ。特高のやつらも何にも聞かされてなかったらしくて、横紙破りもはなはだしいと怒り狂ってやがった。いつもなら横紙破りして人の捜査にちょっかいかけてくるのは特高のほうなのによ。笑っちまうだろ。さらに笑えるのが、上のほう、内務省と陸軍省の高級官僚どもも管轄のことで激しくやりあっているってことだよ。官僚どもときたら、みんなそうだ。手前の縄張りに踏み込んだやつを見かけると発情期の猿みたいにわめきながら襲いかかるんだからな」

 照山は最後の一発を込めるとろくに狙いもせずに片手撃ちにした。無心の一発が功を奏したのか弾は命中し、エアーシップは雛壇から落っこちた。

 その後、全員分の射的が終わってみると、照山は敷島とエアーシップを一箱ずつ、篠宮は全段命中でスター二箱、ほまれ一箱、それに森永キャラメル一箱とキューピー人形が一つと好成績を出した。それに対し、有川が得たものはミルク味のちっぽけなキャンディ一つ。これは全弾をものの見事に外した有川を気の毒に思った店番の老婆が有川の手に無理やり押しつけたものだった。

 一段落つくとまた照山はまくし立てた。

「最悪なのは陸助の馬鹿ども、貸金庫の線を自分で潰しやがったんだ。裁判所命令を俺たちに取り付けさせて、中身を全部没収した。これで貸金庫に罠がはれなくなった。捜査本部は解散して、銀行につけた六人の刑事も響子・ポクロフスカヤにつけた護衛も必要なしってことで解散になった。もちろんトンプソン機関銃も取り上げられた」

「じゃあ、お前はこれからどうなるんだ?」

「知らねえよ。たぶん陸助のお茶汲みでもさせられるんじゃねえのか? はあ~あ、そんなわけで俺はこれ以上、この事件に協力できそうにない。そうだ! もと居た店に戻ろうぜ。田島が来てるかもしれない」

「田島も呼んだのか?」

「まあな」照山は言った。

「少年探偵団をここまで揃えるなら、寺井も呼ぼうぜ」

「あいつの家に電話したんだが、出ないんだよ」

「料金未払いで線切られてんじゃないのか?」

「ありうるなあ。だって、寺井だもん」

 ゲラゲラ笑っていると、篠宮が有川を肘でつついた。寺井という知らない名前が出てきたからだ。

「ねえ、少年探偵団って全部で何人いるの?」

「さあな。実のところ全部で何人いたのか、叔父さんもよく分かってなかったんじゃないかな。とりあえず、俺がいつも一緒につるんでいたのはここにいる照山とそれに田島、後は寺井に赤松で、そこに俺を入れて五人だった」

 かつやんの四人がけの席につき、海老やホタテの貝柱、豚ロースを大皿で頼み、中等酒を五合頼んだ。酒が先にきて、わいわいやっていたところに田島が早歩きでやってきた。

「待たせたな」

「いや」有川が言った。「いま、陸助の悪口で盛り上がってきたところだ」

「そういや田島も一応、陸助どもに取材してきたんだよな」

「いやあ、あれには参ったぜ」田島は頭をかいた。「剣もほろろでよ」

「さすがのお前でもあれは無理か?」

「まあ、そんなに多くのことが分かったわけではない」田島は照山に言った。「どうもお前の職場を乗っ取った陸助たちは事態の報告を必ず広島に上げているようだぞ」

「どうやってそんなこと調べたんだ?」照山が訊ねた。

「書類を見たのさ」

「見せてくれたのか?」

「いや、見せてはくれなかった」

 有川たちが不思議そうな顔をしていると、田島が言った。

「盗み見したんだよ。書類は俺から十五メートル離れた机の上に放置されていた。だから、絶対誰にも見られないと思っていたんだろうな。他にもいくつかの書類や封筒を見たが、どの書類にも報告先として《陸軍広島特別工兵管区》と明記されていた……ん、どうかしたか?」

「いや。お前、昔からそんなに目が良かったか?」

「いや、昔は両目とも二・〇だったよ。それ以上測る方法がないから、とりあえず二・〇ってことになった。でも、新聞社に入社して、身体測定をやったとき、視力検査係が面白がってね。見えなくなるギリギリまで測ったが結局測りきれなかった」

「じゃあさ、じゃあさ」篠宮が新しいおもちゃをもらった柴犬みたいにわくわくしながら訊いた。「集中したらあそこの飛行船に何が書いてあるのか分かるの?」

 篠宮が指差したその飛行船はテキ屋横町の建物と建物のあいだに挟まれたはるか遠くの夜空を飛んでいた。どうやら宣伝用の飛行船らしく船体をライトアップしているのだが、有川たちにはそれが米粒ほどの大きさにしか見えなかった。

「ライオン歯磨」田島は言い淀まずにすらすら続けた。「船の胴体にそう書いてある。ゴンドラの後部デッキで手すりによりかかって煙草をふかしている船員が二人いる。一人は四十代でごま塩頭、もう一人は二十代で作業帽をかぶってる。あ、煙草の箱が見えた。アハハ、笑っちまうな。二人ともエアーシップを吸ってやがる」

 ぽかんとしている三人に対して、田島は手を左右に振って、場を仕切りなおした。

「まあ、俺の目の話はいいんだ。問題は陸助どもだ」

 有川がこれはまだ内密にしていてほしいと前置きした上で神宮寺がハルビンのロシア人(名前は言わなかった)と武器取引をしていたことを教えた。

「いいぞ!」照山は吼えた。「貸金庫並みの線だ。有川はまだ響子嬢に雇われたままなんだろう?」

「ああ」

「じゃあ、それで行こう」

「そうだ」照山が言った。「きっと武器売買絡みで陸助どもがでしゃばってきたんだ。だが、これはいいぞ。陸軍が捜査するって言っても実際の聞き取りは結局俺たち刑事にふるしかない。情報は端切れになっても集まってくる。そして、全ての端切れが集まってきたそのときこそ、このヤマが誰のものか、きっちり教えてやろうぜ」

「戦いはこれからだ」田島はフフンと笑った。「サツ回りを敵にまわすってのがどういうもんか、陸助どもに教えてやる。捜査機関が陸軍だろうが海軍だろうが大蔵省だろうがサツ回りには知ったこっちゃない。サツ回りはスッポンのごとく事件に食らいつく。陸助のやつらが残業を終えてくたくたになって帰ろうとするまさにそのとき、陸助のやつらが休日を家で過ごしてのんびり碁でも打とうかとしているまさにそのとき、サツ回りの影、常にありだ」

 有川たちは一斉にコップの焼酎をあおった。

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