第15話 昭和二十年八月二十日日曜日 乙

 ネフスキイ大路を曲がって、しばらくすると瓦屋根に障子張りの日本家屋がぼちぼち混じり始め、観光向けではない露人街が目に現われてきた。久留米絣を着たロシア人の秋水売りが背中にタンクを背負ってジュースを売り歩いていたり、リボンつきの聖ゲオルギー十字章を五つも胸に飾ったコサックの老人が七輪で餅やカマスの干物を焼いていた。ネフスキイ大路を見ると、ロシア人が帝都に華やかなヨーロッパ文化を持ち込んだように見える。だが、大路から裏路地へと歩みを変えれば、実際にはロシア人の日本化が進んだことが分かる。浴衣姿でくつろぐ男もいたし、急須で煎茶を入れる一方でサモワールには蜘蛛の巣が張った家も少なからずある。一九二〇年以降に生まれたロシア人はみなほぼ日本語を話すことができた。

「支那人や朝鮮人ほどじゃないが――」進みながら、ポルフィリーエフが言った。「帝都のロシア人社会もなかなか口が堅い。ここに住んでる連中で男爵のことを軽々しく口にするやつなんて居やしないさ。もし警察に、男爵はどこだ? と訊かれたら、イワノフ男爵とかパブロフ男爵といった、そこらの貧乏アパートでぜえぜえ息をして死にかけてる人畜無害な落ちぶれ貴族の名前が挙がるだけだ。警察は本物の男爵には決して辿り着けない」

「でも、俺たちは会える」

「そういうことだ」

 進めば進むほど道は狭く暗くなり、大抵は併記されていた日本語とロシア語の看板から日本語が消えた。ここは帝都のロシア人社会で進む日本化を跳ねつけたものたちが住んでいる露人社会の最奥部だ。風はないのに路地はひんやりしていて、人気がなかった。閉ざされたドアとカーテンを引いたままの窓が幾十か続き、ついにとうとう行き止まりになった。階段が半地下の店の扉にまで続いている。

「これこそが本物のレストラン」ポルフィリーエフは自信たっぷりに言った。「テストフだ」

 テストフ・レストランの照明は頭上からぶらさがる小さなランプと壁につけられた細口ランプ風の電球、そして蝋燭の火だけだった。薄暗い店内だったが、蝋燭は店のあちこちにあった。コップの中に、テーブルの上に、カウンター席の端に、厨房とフロアの仕切り壁の近くに、そして壁にかけられた聖母マリアのイコンの前には長いものや短いもの、太いものや細いものと何十本という蝋燭が溶けて混じり合いながら、聖母の慈笑を照らし出していた。

 客――初老の黒い服を着た男たち――は壁に広げられた白、赤、青に双頭の鷲という亡国の旗の下で頭を寄せ合い、ひそひそと何かを話していた。何組かの客は蓄音機から流れてくるピョートル・レスチェンコの切なげなタンゴを聴いているようだった。給仕たちは白いシャツに黒の蝶ネクタイ、黒のチョッキ、白い前掛け姿でキビキビと、しかし、店の雰囲気を崩さないよう注意しながら働いていた。注文のやり取りはロシア語でなされ、メニュー表もロシア語のみを表記していた(だが、一枚だけポーランド語表記のメニュー表があった。これは常連のポーランド人がやってくるときのみ使われた)。

 ポルフィリーエフは給仕を一人つかまえて、ロシア語でいくつか質問した。返答を聞いた後、ポルフィリーエフは二人のほうへ振り返った。

「席はもう予約されているそうだ。あの奥の席だ。壁龕みたいになっていて、内密に話したければカーテンを閉めて話し合うこともできる。あそこで待っていよう。男爵は間もなくやってくるはずだ」

 有川と篠宮は席についた。だが、有川たちが何度勧めてもポルフィリーエフは席につこうとしなかった。

「座って待てばいいのに」

「いや。男爵が会いたいのは君たちであって、私じゃないからな」

 一方、二人の東洋人の来店はテーブルごとに寄り集まってひそひそ話をする男たちの耳目を引いた――あいつらは何者だ? どうやってこの店にやってきたんだ? 何が目的だ?――神聖な場所を侵されているという感情が店のロシア人たちの心に芽生え始めた。この店には近衛騎兵連隊の軍旗や聖アンドレーエフ旗、剣つきの聖ゲオルギー十字章、そして最後の皇帝ニコライ二世の写真が飾られていた。この店はロマノフ王朝のためにドイツ軍やオーストリア軍、そしてボルシェヴィキと戦ったもののみが入ることを許される聖域なのだ。

 誰かが二人の東洋人に対して行動を起こそうとしないか、あるいは起こすべきではないか、黒い服の男たちは料理もそっちのけでお互いに違うテーブルのグループに対して期待と非難が入り混じった複雑な視線を浴びせ合っていた。

 ドアが開く音がして、男たちの視線がそちらに移った。これもやはりロシア人が一人、東洋人が二人ついてきていた。

 だが、彼らの来訪で先の東洋人たちがなぜこの店にやってきたのか理解できた。

 彼らは男爵に会いに来たのだ。

 有川たちも男爵を見た。黒いホンブルク帽と黒い仕立ての三つ揃え、帽子を脱ぐと灰色になった髪が見えた。すぐ給仕が丁寧に応対し、既に待っている有川たちのテーブルへ案内した。薄暗い店だったが、近づいてくるにしたがって、少しずつ男爵の顔のつくりが分かってきた。まず灰色の口髭が戯画化された支那人のように長く伸びていたが、頬髯やロシア人が好んで生やす顎鬚はきれいにカミソリをあてられているようだった。痩身で、まだ六十前だと思うが、八十の老人のようにも見えた。男爵の右耳はきれいになくなっていた。そして、かつて右耳があったであろう場所からひどい傷痕が前へ前へと走り、右目に達していた。右目はガラスの義眼だった。そして残った左目は千里の彼方を見ているような、人間味の薄い青い眼をしていた。男爵は連れている二人の東洋人に号令をするように短く言葉を発した。そこで二人の動きが止まった。支那の言葉でも、ロシアの言葉でもない不思議な言葉、ひょっとするとモンゴルかもしれないと有川は考えた。男爵の連れている東洋人はおそらく双子で着ているものも黒のホンブルク帽と黒の三つ揃えだった。二人はまた男爵に何かを命じられると、そのまま下がってカウンターの席についた。有川たちが男爵と話しているあいだ、あそこで待つつもりなのだろう。

 男爵はまずロシア語でポルフィリーエフと挨拶を交わした。近況の報告など当たり障りのない会話が少し続いた後、男爵は有川たちのほうへ顔を向けて、日本語で言った。

「では、彼らかね?」

 流暢でまったく違和感のない発音だった。

 ポルフィリーエフはええ、そうです、彼らです、と言った。

「じゃあ、私は席を外すよ」ポルフィリーエフは二人に言った。「うちの店で使える技がないか、この店の厨房をスパイせんといけないのでね」

「その通りだ、コンスタンチン・ワシーリエヴィチ」男爵がポルフィリーエフに声をかけた。「得るものはたくさんあるとも」

 ポルフィリーエフは笑いながら、厨房の仕切り戸を開けて、奥に入って見えなくなった。

 男爵は有川のほうに手を差し出した。

「ロマン・フョードロヴィチ・フォン・ウンゲルン=シュテルンベルクだ。よろしく」

 男爵の差し出した手を有川が握って、有川正樹です、と名乗り、篠宮も握って、同じように名乗った。男爵の手は、ついさっきまでかき氷に突っ込んでいたかのように、ひどく冷たかった。

 男爵は有川のほうを向くと、

「ポルフィリーエフと知り合いだそうだな」

「ええ」

「それは素晴らしい」男爵は小さくうなずきながら言った。「彼のような人物を友人にできれば、人生の苦渋を少しでも和らげることができる。ポルフィリーエフは好人物だ。陽気で、義理堅く、私たちのロシア人社会においてもその信頼は非常に厚い。ただ、その人の好さに必要以上につけ込んでは彼が気の毒だ。私と君たちとのあいだに横たわる共通の知人に関する話はきっとポルフィリーエフにとっては少々気の重いものになるに違いない。私はこの街のためにポルフィリーエフにはよきペイストリー・シェフでいてもらいたい。それ以上を求めてはいけないと思うのだ」

「同感です」有川がうなずいた。

「ああ、それと」男爵は自分の顔の傷痕を指差した。「気になってしょうがなくなる前に教えて置こう。この顔はレーニンの秘密警察にやられた。あの当時はチェーカーと言ったかな? 一九二一年の夜、私はノヴォニコラエフスク郊外の森の中で処刑された。部下に裏切られて、赤軍に引き渡されたのだよ。まったく。だが、やつらはたった五センチしか離れていない私の後頭部も満足に撃ちぬけないマヌケの集まりだったのだ。まあ、右目と右耳は失ったがね。私が顔の半分から噴水みたいに血を噴き出しているのを見て、死んだと思ったらしい」

「その後、よく生き残れましたね」

「なに歩いたのさ。ノヴォニコラエフスクからウラジオストックまで」

 有川と篠宮はロシアの地図をぼんやり思い出し、そしてお互いの顔を見合わせ、今度世界地図で確認しようと思いつつ、また男爵に視線を戻した。

「この傷痕は私に教訓を与えてくれる」男爵は続けた。「ロシア人は絶対に信用するなという皮肉だが、貴重な教訓だ。私の騎兵師団はドンやテレク、クバン、ザバイカルのコサックたち、チェルケス人やダゲスタン人、ブリヤート人、中国人、モンゴル人、カザフ人、それに数名の日本人など多種多様な民族によって構成されていた。だが、最後の最後で私をボルシェヴィキに売ったのは二人のロシア人副官だった。さて、前置きはこのくらいにしよう。君たちは神宮寺氏について訊きに来た。彼の身にふりかかった悲劇に関しては私も個人的に興味がある。私が彼の死の謎を解き明かすにあたってどこまで貢献できるかはまったくの未知数だが、最善をつくすことは約束しよう」

「では、いくつか質問してもよろしいですか?」

「もちろん。だが、その前に料理を注文しよう」

 男爵は給仕を呼んで、ロシア語で何か注文し、

「君たちはどうする?」

 と、訊ねてきた。

「メニュー表がまったく読めなくて」と、有川。「軽く食べたいんですが」

「それがいい。大食は罪だ。軽いが確かな食事が一日の残りを動かす力になる」

 前菜なしで二品か三品くらいということで、有川はひき肉と刻み玉ねぎ、そしてアンコウの肝を具にしたピロシキに五種類のきのこのスープ、篠宮は同じピロシキを頼み、スープは男爵と同じものを頼んだ。結局、ポルフィリーエフはレストランがピロシキを出すことについて、いろいろと不満を述べていたが、有川と篠宮は結局、ピロシキを頼んでしまった。

 その後、料理に関する気のおけない会話が十分ほど続き、男爵が言った。

「では、そろそろ始めようか」

「ええ」有川は手帳と鉛筆を手に取った。「神宮寺氏とはいつごろからの付き合いですか?」

「そう古くない。知り合ったのはそう、六月の初めか中旬ごろだった。二ヶ月前くらいだ」

「具体的に何を話したか教えていただけますか?」

「武器売買の仲介。彼はセミョーノフに話をつないでもらいたがっていた」

「セミョーノフ?」

「グリゴリー・ミハイロヴィチ・セミョーノフ。ザバイカル・コサックのアタマン、つまり統領だった男だ。今も統領を自称しているが、彼が率いていたコサック軍は二十年以上昔に消え去っている。彼の経歴を簡単に説明すると、十月革命勃発後にシベリア出兵した日本軍を後ろ盾にし白軍将領として戦ったが、結局赤軍に負けて、ウラジオストックから日本へと逃げるハメになった。一時期はアメリカにもいたようだが、今はハルビンにいる」

「その男はハルビンで何を?」

「反ボルシェヴィキ活動だ。具体的にはハルビンやその他満州の各地に在住しているロシア人から義勇兵を募り、ソ連に侵攻しようとしている」

「そのセミョーノフという男は本気でそんなことを考えているのですか?」

「本気だ。ソ連は共産主義というシロアリに蝕まれたボロ家のようなもので、ドアを蹴破れば後はなし崩しだと言っている。実は二十年前のロシア内戦期、私はセミョーノフの下にいたことがある。粗暴で、よく無茶を言う男だった。結局、袂を分かって、私は自分の騎兵師団を率いてモンゴルに行った。セミョーノフのほうはその後も赤軍相手に戦ったが、結局負けたというのは先ほど説明した通りだ。私とセミョーノフの別れ方は決して円満なものではなかったが、同じ国を追われたもの同士、一応連絡は密に取ることにしている。神宮寺氏はどこかでそれを聞きつけたのだろうな。私に武器売買の仲介を頼んできた。セミョーノフは疑い深いが、それも当然だろう。武器屋に会いに行ったつもりが、待ち伏せしていたNKVDのエージェントに捕まってソ連に強制送還された日には目もあてられない。運がよければルビヤンカの地下室で頭にズドンと一発もらうだけで済むが、最悪の場合はスターリンがいいと言うまでツンドラ地方の収容所で木を伐り続けなければならない。そんなわけで、セミョーノフも彼なりに調べて神宮寺氏の身分の保証がされるまでは慎重に動いた。そして、神宮寺氏はどうやら試験に合格したらしい――おっと、料理がやってきた」

 男爵にはほうれん草を使った緑のスープにサワークリームをたらしたものと黒パン二枚、そして、水差しとグラスが一つ。

 有川にはピロシキ二つと香ばしい五種のきのこのスープ、そしてウォッカがグラスに一杯。

 篠宮も同じピロシキが二つにウォッカが一杯、スープは男爵と同じものを注文したが、篠宮のスープには半分に切ったゆで卵が入っていた。

「どうしてあなたのスープには卵がないんです?」篠宮が訊ねた。

「宗教上の理由から生き物を食べることと飲酒をやめているのだよ」

「宗教上の理由?」

「そう。戒律だよ」

 有川はグラスの液体の匂いを嗅いだ。

「これはウォッカですか?」

「この店に限ったことではないが、ロシアの料理屋では飲み物について特に何も言わないでいると、ウォッカが出されることになっている」

 男爵はスープにたれたサワークリームを少し混ぜて、ほうれん草に馴染ませた。

「さて、話に戻ろうか。神宮寺が武器を売ろうとして、セミョーノフの審査に合格したというところだった。こうして取引は行われることになって、神宮寺は先月の中ごろには軽機関銃三十丁と半自動小銃千丁を集めてきた。もちろん弾薬も十万発以上つけて。神宮寺氏はよく笑っていたな、東京とハルビンをしょっちゅう行ったり来たりしている、と。だが、海外進出の第一歩として選ぶのにハルビンほどふさわしくない都市は存在しない。セミョーノフの話ではハルビンの暗黒街では馬賊や中国共産党、蒋介石の手下や関東軍のスパイ、アヘンの密売組織が入り乱れて、ワケが分からなくなっているらしい。そして切り分けられるパイはひどく小さい。そんなところにずかずか入り込んで行くのだから、神宮寺氏はよほど勇敢なのか、それともただ馬鹿なのか、あるいは関東軍の後ろ盾があるのか――私は最後の説じゃないかと思っている。彼が売った銃の質と量を考えると軍にそれなりにコネのある人間じゃないと揃えるのが難しいだろう。武器は日本政府がチェコスロヴァキアとスイスの銃砲会社との間にライセンス契約を結んで生産し、輸出用に仕上げたものだった。セミョーノフは武器の品質に満足したようだった。珍しいことにセミョーノフの側から神宮寺はまだ来ないのかと何度も催促が来た。これは今までになかったことだ。あの男が一人の人間をあそこまで信頼することはそうそうないし、あの男をあれほど熱心に動かすものはただ一つ、ソ連の打倒だ」

 男爵は言葉を切ると、黒パンを千切って、緑のスープにつけた。そして、口髭をスープで汚さないよう気をつけながら、口に運んだ。

 有川もピロシキをかじった。包丁で細かく刻まれたアンコウの肝とひき肉がとろけるようだった。一つを平らげると、もう一つに手を伸ばした。

 有川は考えを整理してみた。まず、神宮寺については想像以上の収穫を得た。武器、対ソ侵攻、コサックの統領。頭の中でぐるぐるまわる。男爵の言うとおりなら、神宮寺弘は一歩間違えれば奈落へ真っ逆さまのかなり危険な綱渡りをしていたことになる。赤色ギャング団によるテロの線が再び濃くなってきた。神宮寺とセミョーノフにまつわる話は帝都に潜む共産党細胞が知ったら、間違いなくテロの的にかけられる類の話だ。それに有川から見れば、取引相手のセミョーノフもどれだけ信用できるか危ういように思えた。

 もちろん目の前でほうれん草のスープを器用にすすっている男爵も。

「神宮寺氏については分かりました」篠宮が言った。「でも、セミョーノフはソ連を攻撃するのに軽機関銃と半自動小銃だけの軍隊で足りると本気で思っているんですか?」

「普通は思わない。だが、セミョーノフは普通じゃないし、またそう考えるだけの根拠もあるようだ」

「根拠?」

「金塊だよ。大戦直後のあの時代、赤軍白軍の両方に属した多くの人々はセミョーノフが内戦のドサクサに紛れて、ロマノフ朝の金塊をネコババしたと信じている。だが、量については諸説ある。金塊にして三十キログラム程度だと言うものもいれば、三十トンを台湾銀行に預けていると主張するものもいる。もし、セミョーノフの保有している金塊が三十トンなら、神宮寺氏の武器売買はほんの始まりに過ぎない。売却される兵器は戦車や爆撃機へと格上げされるだろう。ちなみに我らが神宮寺氏はセミョーノフの所有する金塊は五百トンだと信じているようだった。これは私の個人的見解だが、神宮寺氏は確かに必要なときには大胆な行動を取れる人物だが、この手の裏のある世界を生き抜くには少し軽率が過ぎる気がした。その証拠がこの五百トンだ。欧州大戦中、ペテルブルクの中央銀行には帝政ロシアの金準備として九百トンの金塊があった。ドイツ軍が連勝し前線がじりじりとペテルブルクに近づくと、大蔵省は予防措置として、九百トンの金塊全てをはるか東のカザンの銀行に移した。その後、二月革命、十月革命を得て権力を握ったレーニンは金塊を再びペテルブルクに戻すよう急いで命じた。なぜなら各地で蜂起した白軍がカザンに向かって進軍していたからだ。結局、レーニンの命令は遂行しきれなかった。四百トン運び出したところでカザンが白軍の手に落ちたのだ。五百トンの金塊とともに。そして、神宮寺氏が言うにはその金塊は全てセミョーノフの手に渡ったと言うのだ。そんなことを信じるくらいなら火を吹くドラゴンや妖精、人魚の存在を信じたほうがまだ正常だ。通説では五百トンの金塊はチェコ軍団やコルチャーク提督のオムスク政権、それにセミョーノフや東清鉄道司令官だったホルワットなどの白軍将領に少しずつむしられながら東方へと移動し、最後はレーニンが帝政時代の債務を履行しないと宣言したために日本の大蔵省が補償として金塊の残り全てを朝鮮銀行に収めたとされている。私もその説を信じるね。いくらセミョーノフでも五百トンの金塊を独占するなど不可能だ」

「あなたは金塊を接収しなかったのですか?」

 そう質問されると思っていたのだろう。男爵は微笑んで答えた。「拝むことすらできなかったよ。金塊がセミョーノフの支配地域を通り過ぎたのは私がセミョーノフと袂を分かち、モンゴルへ入った後のことだった。だが、まあ、金塊に関する真相がどのようなものであろうと、セミョーノフの計画は必ず失敗する。なぜなら圧政に苦しむソ連支配下のロシア人がセミョーノフに寝返ることなどありえないからだ。ロシア人は支配者の圧政を黙って耐え忍ぶことを一種の美徳だと考える節がある。セミョーノフが満ソ国境で人民委員を絞首刑にして解放を謳ったところでロシア人はびくともしないだろう。セミョーノフは所詮コサックだ。ロシア人を理解していない」

「でも、あなたの性もドイツ系ですよね」篠宮が探るように言った。「フォン・ウンゲルン=シュテルンベルク男爵?」

「そのとおり」

 答える男爵の表情はヴィーナス像の出来栄えに満足いった彫刻家のそれだった。

「私にはドイツ騎士団の血と匈奴の血が交じり合っている。私に流れている血は狩り、耕し、漁るものの血ではない。全てを焼き尽くし奪い尽くす侵略者の血だ」男爵はくっくと笑った。「最高の血だ」

 有川と篠宮は悟った。この男とこの男が見据える千里の彼方の間には無数の骸が転がり、焼かれた家がくすぶっている。これは本物の虐殺者だ。この男爵が東京の露人街で思い出話をしているだけで済んでいることを神に感謝しなければいけない。この男は手元にタンカー一杯分のガソリンがあれば、ありとあらゆるものを焼き尽くすためにそれを使うだろう。どうかこいつがこのまま場末の料理屋で老いさらばえて死にますようにと祈りたい気分だった。

 男爵は軽く手を叩いた。

「さて、私が神宮寺氏とセミョーノフとのあいだで知っていることは大体このくらいだ。その後、神宮寺氏はセミョーノフから絶大な信頼を得ることに成功したらしく、最後のほうは私抜きで取引をしていた。私の関与していない取引については何も知らない。こちらも調べようとは思わないし、セミョーノフもわざわざこちらに教えようとはしない。我々は女学生式の交換日記をつけているわけではないんだ」

 料理があらかた片づきつつあるころ、男爵が訊ねた。

「これは全くの個人的興味から訊くのだが、神宮寺氏の遺体は火をつけられていたそうだね?」

「ええ」

「ふむ」と、考え込むように言った。そして、男爵は少なくなったほうれん草のスープをゆっくりかき混ぜながら話し出した。「二十年以上前のことだが、当時、私は中央アジアで白軍の騎兵師団を率いていた。私はモンゴルで、目にした人間、家畜、住居、牧草地の全てに火を放っていた。なぜ、そんなことをしたのかと問われれば、ただ浄化のために必要だったと答えるだろう。モンゴルに浄土を作るのに火は不可欠だったのだ。だが、大勢の人間を焼き殺したことで部下たちは私が狂っているのだと密かにささやいた。そういえば、私の部下に日本人が二人いたな。正規の軍人ではない。ほら、壮士とか大陸浪人と呼ばれた義勇兵めいた連中だよ。彼らは私が赤ん坊を抱いた若い女を焼くことに反対した。たぶん女子どもを焼くことが彼らの武士道に反したのだろう。おかげで私は彼らも銃殺し、火にくべなければいけなかった。彼らは実に勇敢な戦士だったのだが、仕方ない。浄土に必要なのは人間の理解ではなく、全てを灰燼に帰す巨大な火だ。人間が浄化されるにはどうしても火が必要なのだ」

 一つしかない男爵の視線は蝋で満たされたテーブルに置かれたコップの中央で踊る小さな火に注がれていた。

「ロシアのある古い村では分離派教徒が村ごと焼身自殺することによって、炎による再洗礼を受けた。イエズス会の修道士の中には自分の体の一部を焼くものがいる。そうすることによって十字架のイエスの苦しみを少しでも追体験しようとしているのだ。また、アメリカの南部では火は正義の象徴だ。たとえばアメリカの南部で――そうだな、ミシシッピ――いや、やっぱりジョージア州にしよう。そのジョージア州の田舎町でまだ十歳のとてもかわいらしい白人の女の子が強姦された上に首を絞められて殺されたとしよう。そして、犯人としてまだ十八にもならない黒人の少年が逮捕されたとする。すると憎悪と憤怒の衝撃が人間の神経のごとく町を走りつくし夜になるころには、怒り狂った民衆が松明と猟銃を手に裁判所を取り囲む。そして民衆は判事や保安官の制止も聞かず、まだ判決が出ていない少年を牢屋から引きずり出し、殴り、蹴り、切り刻み、目玉をえぐり、銃床でぶちのめし、局部を切り落とし、木に吊るし、そして最後は必ず火をつける。そう、必ずだ。炭になるまでしっかり焼く。火には法を凌駕する何かが確かに存在するのだよ。君たちの国でもそうではないかね? 室町幕府の六代将軍足利義教の非道な扱いに抗議した比叡山の僧侶たちは自ら寺に火を放ち、その中で焼け死んだではないか」

 男爵はコップに踊る火がこの世で最後の火なのだといった様子でその火の上に大切そうに手をかざした。

「確か八月十五日のことだった。私は素晴らしい夢を見た。浄土の夢だ。この国の全てが焼き払われ、焼け野原に残された人間は泣くか笑うかしていた。自分が見たものが信じられなかった。どこまでも続く黒焦げの地平線だよ! 火によって文明が浄化されたのだ。私が二十年前、モンゴルで行おうとしたことが君たちの国で実現したのだ。もしかしたら、アメリカや中国、母なるロシアでも同じようなことが起きているかもしれない。私は歓喜に震えて、大声で叫びたかったが、声を出そうとした瞬間に夢から醒めた」

 男爵はコップの火をふっ、と吹き消した。

「そして、私は今、ここにいる。辛いことだ。飛躍的な進化を遂げた人間の文明が最終的には巨大な煙突へ行き着くと知ったら、過去の偉人たちは人類の進歩のために己が人生の全てをつぎ込んだだろうか? 皇帝を殺し教会を焼いたボルシェヴィキと天皇を敬愛し神道を祀る日本人が同じ煙突型の都市を造っている。ロシアと日本だけではない。民主主義を奉じるアメリカ、植民地帝国主義を奉じるイギリス、共和思想を奉じるフランス、ナチズムを奉ずるドイツ、ファシズムを奉じるイタリア、長きに亘る自らの歴史を奉ずる中華民国。これら全ての異なる国と異なる思想を奉じる人間が全て、煙突の化け物に煤のようにこびりついて暮らしている。古来より人間を突き動かしてきたあらゆる思想と情熱が最終的に人間を巨大煙突の付属品へと追い込む以上、我々はどうしたらいいのだろう?」

 男爵は内ポケットから聖ゲオルギーが竜を退治する姿を描いた小さなイコンを取り出し、自分の左の手のひらに置いた。

「すると、私は夢を見る」

 男爵は右手でマッチをすり、それを左手の上のイコンに落とした。イコンに火がついた。男爵は燃えるイコンを両の手で支えた。そして、ガラスの目に手の中で燃えるイコンの火を映して、淡々と語った。

「たった一つの、芥子粒ほどの物質に火を灯すだけで全世界の煙突文明とそれに依りかかって生きている全ての人間が爆発的に浄化され、炎の洗礼を受けて浄土となる。私はそんな夢を見る」

 イコンが男爵の手の上で焼き尽くされた。

「この夢を理解できるかね?」

 有川はこの問いに、はっきり首を左右に振った。

「理解できません」

「僕も理解できない」篠宮もはっきり言った。「理解したくもないです」

「そうだろうな」男爵は微笑み、うなずいた。「あのとき銃殺した二人の日本人もそう言ったのだ。だが、浄土に必要なのは人間の理解ではない。大いなる火だ」

 男爵はイコンの燃えかすを胸ポケットから取り出したハンカチできれいにぬぐうと手を差し出した。

「はやく犯人が捕まり真相が明らかになることを祈っているよ」

 順に二人と握手した。男爵の手はひどく冷たいままだった。

 ポルフィリーエフが厨房から戻ってくると、二人に「成果はあったかい?」と訊ねた。

「ええ、ありましたよ。ありがとう。ポルフィリーエフ」

「また何かあったら遠慮せず言ってくれ。じゃあ、行こう。失礼しますよ、男爵」

 ポルフィリーエフが入口へ向かうと、有川たちは男爵に会釈した。

「私の経験に則するなら」男爵は最後、ポルフィリーエフに連れられて店を出る有川と篠宮の背中に、微笑んで言った。「人間を焼くことには必ず意味があるのだよ。それが生きていようが死んでいようがね」

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