第14話 昭和二十年八月二十日日曜日 甲

 赤坂街塔区は第十三階層から第十五階層までが白系露人街になっていた。ロシア革命によって放逐されたロシア人たちが東へ東へと流れ、この赤坂に流れ着いたのだ。露人街は自然と洋風な街並みとなった。これまでロシアといえば、ロシヤパンというロシアとは塵ほどの関係もない行商のパン屋くらいしか思いつかなかった日本人が本物のロシアに観光気分で足を踏み入れられる、そんな街となった。そして、その露人街でも最も人気が高かったのが、第十五層のネフスキイ大路だった。サンクトペテルブルクの目抜き通りを偲んで名づけたこの通り沿いには洋装服飾店や宝石店、百貨店、ロシア料理を出すレストランや製菓店が軒を連ねている。

 午前十時半、青いダットサン・クーペはネフスキイ大路とアルバート通りの交差点付近に停車した。有川と篠宮は『ポルフィリー製菓』と日本語とロシア語で併記されたガラス窓の前に立っていた。一口で頬張れるかわいらしいチョコレートが箱詰めされて、ガラス製の陳列ケースに並んでいる。一方で、クリームとチョコレートをふんだんに使った洋菓子やシュークリーム、日本風に梅シロップで味つけしたタルトが厨房から出てきて陳列されていくそばから次々とお客が買い上げていく。作ることと買うことに関する、その目まぐるしさはまるでカリフォルニア特需のようだった。お客のほとんどは赤坂の十五階より上の階層に家を持つ人々で、大抵が運転手つきでやってくる。そして、同様の客は青山や上野からもやってくるほどの盛況ぶりだった。

 ポルフィリー製菓の十字路の角のところにあるガラス戸を開けると、チリンチリンと鈴が鳴った。判事か銀行重役の夫人といったところの中年女性が一番高いチョコレートの箱詰めを一つ、贈呈用にリボンをかけるようにと注文しているところだった。

 女性が店を出ると、売り子のロシア人女性が日本語で、何かお探しのものはありますか、と訊ねたので、有川は、

「コンスタンチン・ヴァシーリエヴィチに会いたいんですが……」

「社長にですか?」

「はい。有川正樹が会いたがっていると一言お伝え願えますか?」

 二人は待った。そんなに長く待ったわけではなかったが、待っているあいだに桃のタルトが三つ、チョコレートケーキが四つ、そしてチョコレートの二十五個詰め合わせが二つ売れていった。

「有川!」銅鑼でも鳴らしたような大声がカウンターの奥から聞こえてきた。「久しぶりじゃないか!」

 恰幅がいいというには少し太りすぎな気がする中年のロシア人がやってきた。そのロシア人は満面の笑みでカウンターから出てきて、しっかり有川の手を握った。

「どうも、ポルフィリーエフ」

「最後に会ったのは謝肉祭以来だな」ポルフィリーエフは篠宮を指した。「そっちの若いのは? 初めてだな」

「相棒の篠宮です」有川が説明した。

「よろしく」篠宮は会釈した。「あの、有川とはどんな付き合いで?」

「私と私の家族の命の恩人だよ!」

「それは大袈裟ですよ、ポルフィリーエフ」

「大袈裟なもんか。あの人間のクズどもは本気で私たちをソ連に送り返そうとしていたんだ」

「何があったんです?」篠宮が訊ねた。

「卑劣な裏切りだよ」ポルフィリーエフは唾を吐く真似をして言った。「私の製菓店を日本人の共同経営者が乗っ取ろうとしたことがあってね。書類をでっちあげて、私をハメたのさ。店を譲り渡すか、ソ連に強制送還されるか。どちらか選べ、と。もし、ソ連に送り返されれば私たち一家は強制収容所送りだ。だが、店を失えば、私たち一家は路頭に迷って、この国で乞食をするハメになる。それで万事休すってときに彼と(そう言って有川を指し)彼の叔父である有川順ノ助氏が(今度は上を向いて十字を切った)私のために動いてくれたんだ。こんなうまいウイスキーボンボンが食べられなくなるなんてとんでもない、由々しき事態だって言ってくれてね。順ノ助氏は相手側のペテンを見破って証拠もそろえてくれた。おかげで日本人の共同経営者は詐欺と恐喝、文書偽造でブタ箱送り。私は今もこうして菓子作りを続けていられる。君と叔父さんは私たちの恩人だよ。それ以来、毎年、うちで一番のとびっきりのウイスキーボンボンを贈ることにしている」

「じゃあ、あのウイスキーボンボンはあなたのお店で?」篠宮の目が輝いた。「僕、あのボンボンの大ファンなんです。毎年、楽しみにしてて。こんな素晴らしい知り合いがいたことを隠してたなんて、有川も人が悪いなあ」

「悪かったな、人が悪くて」

 有川とポルフィリーエフはお互いの近況を聞きあったりと当たり障りのない世間話を数分ほどした。会話がエンジンのように温まったところでそろそろ本題を切り出そうと思ったとき、ポルフィリーエフから話を振ってきた。

「で、何の用事だ。私の菓子を誉めに来てくれただけではないんだろう?」

「ええ。人を探しているんです。この十五階層に住んでいる男爵らしいのですが……」

「名前は?」

「分からないんですよ」

「おいおい、帝政ロシアの男爵なんてこの街には何ダースいるか分からんよ。もっと絞ってくれないと」

「そうですね。じゃあ――」有川は声を落として言った。「ハルビンに唯一の海外支社を持つ貿易会社の社長と付き合いのある男爵。これでどうです?」

 依然、顔は笑っていたがポルフィリーエフの表情から冗談めいた雰囲気が消えた。

「もしも」ポルフィリーエフは言葉を切って、少し吐いてまた息を飲み込んだ後に続けた。「私がその男爵を知っているとしたら、一体何の用事だと言って、つなげばいい?」

「八月十五日に殺された神宮寺弘の件で会いたいと伝えてください」

「そう言えば、通じるんだな?」

「たぶん」

「わかった。五分くれ」

 ポルフィリーエフはカウンターの後ろへ戻り、奥の壁かけ電話から受話器を取ると、交換手に日本語で番地を伝えた。そして、つながるとロシア語で何か話し出した。意味は分からないが、声の調子からとても丁寧に気をつかって話しているのは何となく理解できた。話しながら、うなずきながら、ときどきチラリと有川たちのほうを見やったりした。これが捜査の進展につながればよし、つながらなければまた一から洗い直しだ。最後にスパシーバと言って受話器をガチャンとフックに引っかけると、ポルフィリーエフは乾いた手のひらをこすりながら帰ってきた。

「男爵が会いたいそうだ。私が案内するよ」

 ポルフィリーエフは息子二人に取りあえず、いろいろことづけして店を任せてから、ホンブルク帽とステッキを手に外に出た。

「ところで、飯はもう食ったかね?」

「いえ、まだです。男爵に会ったら、あそこのレストランで軽く何か食べていこうと思ってるんですが」

「やめとけ、やめとけ」

「あの店はダメなんですか?」

「あの店だけじゃない。ネフスキイ大路沿いの店は全部ダメだ。給仕はみな薔薇色のルバーシカを着たウクライナ人で、流す音楽は古臭い民謡ばかり。シチーと来たらこれがまるで申し合わせたようにボルシチしか置いてないんだからな。一番許せないのはピロシキだ。なんで油で揚げるんだ? ピロシキは焼くのが常識だろうに。そもそもボルシチもピロシキもレストランで出すものじゃない。あれは家庭料理だ。ロシアで出すとしてもせいぜい立ち食い屋だ。要するに日本人向けの店だよ、ここいらは」

「そうは言うけど」有川は冷やかすように笑った。「あなたの店だってネフスキイ大路沿いに大きく構えてるじゃないですか。味だって日本人の好みに合うように研究したんでしょう?」

「それはそれ。これはこれだ」ポルフィリーエフは全く悪びれた様子もなく言ってみせた。「さあ、お二方。本物のロシア人が行く本物の店に行こう。陰気で、暗くて、レスチェンコのタンゴがかかっている、本物の料理を食べさせてくれる店だ」

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