第13話 昭和二十年八月十九日土曜日 甲

 午前十時、有川は鮫ヶ淵に行く前に浜島署の照山に電話をかけてみた。

「神宮寺弘名義の貸金庫があったぞ」照山は言った。「水道橋街塔区にある帝国銀行十六階牧野町支店に一つだ」

「妙に嬉しそうだな」

「おっ、わかるか? そうなんだよ。支店長に確認を取ったが、貸金庫はこの一ヶ月誰も開けていない」

「つまり、犯人は――」

「これからのこのこやってくる。牧野町支店の前と裏口には合計六人の私服刑事が張り込んでいる。神宮寺氏に変装してやってくれば、こっちも大人しく捕まえるだけで済むが、もし銀行強盗まがいのやり方で強引に貸金庫を奪いに来るなら、うちの連中が相手になる。刑事六人のうち二人は機関銃で武装しているんだよ。日本製のくだらねえ十一年式じゃないぞ。トンプソン機関銃っつって、ほら、あの禁酒法時代のアメリカのギャングが使うのと同じやつさ。ホットケーキみたいな弾倉に五十発も弾が入ってるんだ。なんと警視庁が非常用にこれを持っていてな。これさえあれば強盗団と正面の撃ち合いになっても火力で負けることはない。男にとって最高に楽しい瞬間だよな、火力で相手に勝るってのは!」

「お前が嬉しそうでよかったよ。ところで、貸金庫の中身は見ることができたのか?」

「本当は教えるとまずいんだが、とてもいい気分だから特別に教えてしんぜよう。大したものは入っていなかった。預金証書や不動産の権利書、小切手、家族の写真など。あと有価証券が少々」

「なるほど。普通だな」

「ああ。その点についてはこっちも肩透かしを食らった気分だ。神宮寺氏の家の金庫や会社の金庫も同じだ。特別目を引くものは入ってなかった」

 照山はああ、そうだと付け足した。

「貸金庫の代理指定人にな、姪の響子・ポクロフスカヤが指定されているんだよ。つまり、犯人は響子嬢を誘拐して貸金庫を引き出すことに利用する可能性が出てきた。それで響子嬢は二人の刑事に警護されることになった」

「その連中も持ってったのか?」

「何を?」

「トンプソン機関銃だよ」

 受話器の向こうから照山の豪快な笑い声が聞こえた。「持っていけるわけがないだろう! 青山の最高級住宅街だぞ? それより知ってるか? 響子嬢が今住んでる家。高階婦人の家な。青山のてっぺんだよ。庭がゴルフコースみたいに広くて、振り仰げば空を拝める。とんでもないところだよ」


 鮫ヶ淵に入る準備をした。

 まず並等酒の一合小瓶を五十本。

 それにゴールデンバットを六カートン。

 それらを抱えて、第七階層につながる鉄道橋を歩いていく。ここを汽車が走ることは永遠にないのになぜか鉄道だけは敷設されていた。時おり機関車の幽霊が走っているなどといった怪談話を聞く。鮫ヶ淵はどこか人をおかしくさせるところのある町だった。

 まず、きれいに階層で分かれていない。第三階層だと思っていた場所が実は第三・二五階層であったといったことはザラで、入り組んだ街塔区が集まった帝都の中でも最も入り組んだ造りをしてるのが鮫ヶ淵街塔区だった。

 有川の着ているものはチョコレート色の中折れ帽にこげ茶の背広、チョッキなしで明るい茶のレジメンタル・ネクタイ。篠宮はねずみ色の三つ揃えに例のカンカン帽、薄い青のチョークストライプのシャツにピンホールで留める青のネクタイ。

 変装する気はなかった。鮫ヶ淵の住人にしては彼らの手はきれい過ぎるし、身のこなし方や言葉遣いに若干の差が現れる。そんな騙し討ちをすると、鮫ヶ淵の住人は余計に心を閉ざす。そもそも心などないのだ。

 心のない人間をどう相手にするか――利害を一致させればいい。

 鮫ヶ淵に入るなり、まず目についた印半纏の男たちに「酒と煙草、どっちがいい?」と訊ねた。

 それから有川と篠宮は鮫ヶ淵の残飯屋、ちんちろりんの賭場、木賃宿、国民ラジオに集まった人だかりに足を運んでは、酒と煙草を惜しみなく配った。全部配り終えたら、集まった人々に対して、

「僕たちはごらんの通り、私立探偵です。ここの七階の殺人事件解決のためにここに来ています。あの殺人のせいであなたたちは多大な迷惑を蒙ったはずです、そうでしょう?(ここで、そうだ、そうだと住人たちは合いの手を入れた)警察はいまだに七階層に陣取っている。これじゃあなたたちも窮屈だ。はやく犯人が捕まって、警察にも出て行ってほしいでしょう? だから、そのためにも協力してほしいんですね。もちろん、これはと思った情報には――」

 篠宮は自分の手のひらを見せると、その上でカンカン帽をサッと滑らせた。すると、そこには一円札が一枚。それを横目で見ていた有川はもしやと思って、財布の紙幣の数を数えた。

「げっ、一円足りない!」

「後で必要経費に計上すればいいさ」篠宮はにこりと笑うと群衆に振り返って、「この通り。きちんとお礼もする。でも、本当に使える有力な情報だけだよ。僕らはここで待っているから」

 そこは多少日が当たって、壁際に雑草が生えた小さな広場で国民ラジオが何かラジオドラマのようなものをかけていた。人々は散っていったが、すぐに何か知っている人間が情報を売りにくる。ただ人目があるところでそれをするとタレコミ屋のレッテルを貼られてしまう。それがいやなのだ。難儀な人種である。だから他に人がいないのを確認すれば、すぐに戻ってきて、話し出すだろう。実際、耳寄りの話があると、いいながらやってくるものは多くいた。だが、どれもこれも使い物になりそうにないものばかりだった。犯人は鮫ヶ淵の住人だというのだが、その名前は分からないというし、中にはどこそこのだれそれが神宮寺を殴り殺して財布を奪ったのを見たとあからさまなデタラメを言ったものもいた。

 有川は情報提供者がやってくる度に高階婦人のことを訊いた、ガソリンを入れた容器を持っていなかったか、事件より前の日に上流階級風の女性がこっそりガソリン容器を隠すのを見なかったか等々。

 みな高階婦人が第一給食所で働いているのを見たとか、他の会員と別の給食所へ駆けていくのを見たといった具合で、救世軍婦人会の会員たちと大差のないことを言うのみだった。事件より前の日にガソリンを隠したのを見たというのは皆無だった。考えてみれば、そんな現場目撃したら、隠した持ち主がいなくなった後に盗んで金に変えてしまうだろう。ここはそういう街だった。だが、ときどき倫理の逆ねじを食らわせることもあった。有川が高階婦人のことにあんまりこだわりすぎるから、ある老人などは有川に対して、「あんないい人を疑わなきゃならねえなんて、私立探偵って仕事は哀しいねえ」と首を振り振り、並等酒の小瓶をぐいっとあおった。

 有川と篠宮はこれはと思う情報を待ち続けた。どこからともなく力のない三味の音がペンペケ、スペッケペンペ、ペペンペペンと鳴り出し、これまた力のない声が聞こえてきた。


 大臣大将の胸先に

 ピカピカ光るはなんですえ

 金鵄勲章か違います

 かわいい兵士のしゃれこうべ

 トコトットト


 正午をまわって三十分が経ったころ、国民ラジオがアカに乗っ取られ、『インターナショナル』をかけ始めたころに、これはと思えるのがやってきた。

 二十代半ばで顔の痩せ方、目の落ち窪み方がひどい。くしゃくしゃのソフト帽、薄汚れてシミだらけのシャツに裾が解れたズボン、靴はもう靴底がバラバラになりかけているのはつぶした飯粒でこさえた糊でなんとか持たせている様子だった。


《あぁ インターナショナル 我等がもの》


「聞きたくない歌だ」

 若者はそう言って、ラジオのスイッチを切った。すると、またあの力のないラッパ節が流れてきた。


 華族の妾のかんざしに

 ピカピカ光るはなんですえ

 ダイヤモンドか違います

 かわいい女工の血の涙

 トコトットト


 若者が激しく舌打ちし、イライラとあっちこっちをうろうろしながら自分のズボンをつかんだり離したりを繰り返した。

「社会主義はお嫌いですか?」篠宮は微笑んで訊ねた。

「僕を見れば分かるだろう?」若者は自嘲しながら腕を左右に広げた。「転向した主義者崩れだよ。大学からは放逐され、親からは勘当され、党からは裏切り者呼ばわりされた生きる価値のないカスさ」

「で――」篠宮が訊ねた。「その生きる価値のないカスさんが何の御用ですか?」

「ヒロポンだ。ヒロポンが欲しい。そのために金がいるんだ。五円よこせ」転向者は言った。「それだけの価値のある情報だ」

「どんな情報だ?」有川が訊ねた。

「殺されたのは資本家だ、だろう?」

「だったら、何だ?」

「犯人の居所を教えてやる」転向者は顔を歪めて付け加えた。「赤色ギャング団の居場所だ。特高ですら知らない隠れ家だ。だが、この情報は時間制限がある。今、やつらは出払っているから調べたい放題だが、時間が経てばどうなる?」

「わかった」有川が五円札を出した。転向者はそれをひったくるように取ると、「第一階層。東側に植物園がある。植物園と言っても、棕櫚とヤツデの鉢が並んでいるだけの場所だ。そのカウンター裏の床戸を開けたら地下へと続く階段がある。その先が隠れ家だ。カウンターには見張りが一人いる。一人だけだ」

「間違いなく一人だけか?」

「間違いなく一人だ。そいつをどうにかすれば、あとは階段を下りるだけだ」

「隠れ家には何がある?」

「さあね。俺が党から追い出されたのはここに隠れ家をこさえた直後だった」

 転向者は五円札を胸のポケットに入れると、もうわき目も振らず走り去っていった。ラッパ節はまだ気だるげに唄っていた。


 当世紳士の杯に

 ピカピカ光るはなんですえ

 シャーンペーンか違います

 かわいい百姓の脂汗

 トコトットト


 第一階層まで下りると、もう水上の上に渡された木道を歩いて移動するようなものだった。佐川監察医は言っていた。あそこのどん底にはいつだって水がある。植物園の看板も見えた。板の切れ端に崩れた文字で植物園と書いてあった。実情は転向者の言っていたものよりひどかった。植木はみな日照不足のせいで褐色に枯れていて、まともに生えている植物は皆無だった。そして、カウンターには――誰もいなかった。赤色ギャングの根拠地に指紋など残したら大変なことになると分かっていたので、二人とも薄手の手袋をしていた。カウンター裏の床板を開けると、人一人通れるほどの幅しかない急勾配の階段が待っていた。

「真っ暗で何も見えないぞ」

「ちょっと待って。何か探してくる」

 篠宮は懐中電灯を手に戻ってきた。

「電池も生きてるよ」

 電灯を手にした有川が先頭で後ろに篠宮がついた。階段は一度踊り場にぶつかって、さらに下りていく。もうここは水中かどころか底の下だな、と有川が考えていると赤く錆びきった扉にぶつかった。

「ここに来て、ドアが開かないなんてことになったら、あのヒロポン野郎タダじゃ済まさないから」

 取っ手を握って押した。ドアが開き、真っ暗なかなり大きい部屋に入った。篠宮が言った。

「壁にスイッチがある」

 明かりがつく。有川のすぐ横にはビラを刷るための黒光りする印刷機があった。プロレタリアートの決起を促すスローガンの原案がいくつか黒板に書いてある。大部屋の横に扉のない小部屋があって、そこにはコルトの回転式拳銃やブローニング製の散弾銃、そして、照山が散々自慢したトンプソン機関銃も並べてあった。他にも梱包爆薬や手榴弾が箱詰めされていた。

「主義者の武器庫か」篠宮が武器庫の機関銃を手に取った。「おっ、トンプソン機関銃。なるほど、照山さんが騒ぐだけのことがあるね。やっぱりこの銃はドラム型弾倉だよね、こっちのほうがかっこいい」

「遊んでるヒマはないぞ。この部屋で神宮寺殺しに関わる何かを何でもいいから探すんだ」

 だが、探しても探しても出てくるのはこれから行われるであろう犯罪の計画書だった。銀行強盗、実業家もしくはその家族の誘拐、示威行動としての銃撃事件、収監されている同志の脱獄計画。肝心の神宮寺殺しに関するものは一切出てこない。有川は仕方なく、これら全部の犯罪計画を書き留めて、後で特高に匿名で垂れ込むことにした。

 階段を数人の男女が下ってくる音が聞こえてきたのは、もうここで得るものはないな、と思い始めたころだった。ドアが開き、アカのギャング団員たちが続々入ってくるころには有川はサベージ・ピストルを抜いて、奥のパンフレット置き場になっている衝立の陰に隠れていた。

「誰だ、電気をつけっぱなしにしたやつは?」

「おれじゃないぞ」

「あたしも違うわ」

「まあ、いいさ。どうせ東京府からタダでかっぱらってる電気だ」

 ガハハ。

 ワハハ。

 ホホホ。

 笑い声。

 ボルトを引き、初弾を薬室に送り込むシャキンという音。

 笑い声が止まった。

 雷のような細切れにしたような音が三秒続いた。

「ずらがろう!」と、篠宮は言いながら、銃身から白い煙が出ている機関銃を放り投げ、階段の出口に走った。

 有川は立ち上がり階段のほうへ走りながら、ギャングたちの様子を見た。全員、膝から下が吹き飛んで、割れた骨が傷口から思い思いの方向に飛び出していた。泣き叫び、喚いている。一人が何とか銃を抜き、階段を上ろうとする篠宮に狙いをつけた。有川はその男の背中へ二発撃った。その男が死んだかどうか、それどころか命中したのかどうかも分からないまま、男の銃を手から蹴っ飛ばして、階段に飛びつくように上っていった。

 植物園に戻るころにはとりあえず助かったようだということは理解できた。そして、第七階層に辿り着いてから、彼らは悟った。労多くして功少なし。ギャング団の隠れ家に神宮寺と赤色ギャングを結びつける証拠は見つからなかった。ただ、彼らの獲物はもっと大きな企業や要人であり、神宮寺貿易会社のように中規模程度の会社など眼中にないといった様子があのアジトから感ぜられた。

 無駄足だったかもしれない。聞こえてくるラッパ節が余計に疲労を感じさせた。


 名誉名誉とおだてあげ

 大切なせがれをむざむざと

 大砲の餌食に誰がした

 もとのせがれにして返せ

 トコトットト


 有川と篠宮は疲労感に押しつぶされそうになりながら、鮫ヶ淵を出て、鮫ヶ淵とカタギの世界を結ぶ線路の上を歩いた。

 日が沈み、空は残照だけで朱色に染まっている。線路橋の中ごろで色のない黒っぽい人だかりができていた。記者がいるらしくマグネシウムがボッと白い光を焚いている。一体何だろうと不思議に思い、人だかりを何とか押しのけ何があるのか見てみようとしたところで意外な人物に出会った。

「おや、有川くんに篠宮くん」佐川監察医は口から火のついたバットを外さずにしゃべった。「こんなところで会うとは奇遇だ。何をしているんだね?」

「鮫ヶ淵事件の捜査ですよ。佐川博士こそ、ここで何を?」

「こっちも仕事だよ」

 佐川監察医は顎で倒れている人物をしゃくった。

 あの転向者が半目を開けて、足を投げ出し、頭をレールに預けて、死んでいた。

 そばにはヒロポンの割れたアンプルが十七個。

 ゴム管で縛ったかさぶただらけの左腕には注射器が刺さったままだった。

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