第12話 昭和二十年八月十八日金曜日 乙

 神田街塔区第十六階層の救世軍婦人会館で二人の応対をした受付嬢は八月十五日に炊き出しに参加した会員の住所を渡すのを渋った。婦人会員のアリバイを確認することが犯人扱いされているようだというのだ。そんなときは篠宮の出番だった。

「確かに面白いものではありません。でも、高階さんの悲しみをなるべくはやく癒せるようにしたいんです。ですから、犯人探しにご協力をお願いします」

 と、殊勝でいて憂いのある顔をしてお願いすると、だいたい落ちる。

 このときもなんだかんだ言いながら、受付嬢は書類棚から大きな台帳を取り出した。そして、その中から二人は十五日の鮫ヶ淵炊き出しに参加した会員二十七名の名前と現住所のメモを取った。会員の住所は上野から新宿までバラバラに散らばっていた。

「どうせ警察が聞き込んでいるだろうが、一応俺たちでもやっておく。二手に分かれよう」有川は言った。「俺は上野方面を調べるから、そっちは新宿方面を調べてくれ。一応、婦人会員のアリバイを確かめるのが目的だが、同時に高階婦人のアリバイにつながる情報も必ず訊いてくれ。あと高階婦人がガソリンを入れる容器のようなものを持って移動している姿を目撃したものがいないかも訊くんだ。全部終わったら事務所で会おう」


 有川が事務所に戻ったのは午後七時だった。二階の窓を見ると電気がついていた。所長室では先に篠宮が帰っていて、自分の確かめた高階婦人のアリバイを大きな紙で表にまとめていた。炊き出しは鮫ヶ淵第七階層の三つの給食所で行われた。そして、今回の炊き出し運動の責任者だった高階婦人はあっちこっちの給食所に顔を出さなければならなかった。

 有川はそこに自分の確かめたアリバイを重ねた。

「まだ高階婦人説にこだわるかい?」篠宮が訊ねた。

「俺とお前の確かめたアリバイ、表にしたら完全な虫食い状態だ。これじゃ高階雅美のアリバイはまだ脆い。ずっと一ヶ所にいたという証言があれば別だったが。それに証言の信憑性が疑われるものもいくつかある。たとえばこれとこれ」有川は一覧表のある時間帯を指差した。「藤堂美紀子と白川ツネの証言。この二つを信じれば、高階雅美は第一給食所と第三給食所で同時刻三十分間飯をよそっていたことになる。どちらかが間違っている。現場の忙しさと時計がなかったこと、記憶が曖昧なせいでアリバイが脆くなっている。これをアリバイと言っていいのかも怪しい。時間も場所もぐちゃぐちゃだ。だが、婦人会員の証言で一致しているのは、その一、高階さんはそんなことをする人ではない。その二、あんなに忙しかったのだから殺人なんてする時間があったわけがない、そして、その三。ガソリン缶を手にした高階婦人を見たものは皆無ということだった」

「まだ脆いかい?」

「脆いな。ただ高階雅美がやったとするなら――」

「動機がない?」

「そうだ」

「痴情のもつれは? 浮気されたとか?」

「それが原因なら、響子・ポクロフスカヤを自宅に住まわせるか?」

「ちょっと考えられないね」

「だろ? 浮気した男の連れ子、しかも姪だぞ。叩き出すだろ、普通」

「ちょっと一服して考えを整理してみようよ」

 それぞれ煙草をつけて、じっくり考えた。

 高階婦人がやったのなら、昨日の涙や犯人によって破壊された幸福な生活を思い出し強くバッグを握り締めていたのも全部演技ということになる。高階婦人を知る人はみな彼女を聖人のように言う。もし、彼女が犯人なら稀代の悪女だ。

 だが、あれが本物の怒りと悲しみであってもらいたい。そう考える自分がいる。それは弛みきって緩みきったシカン時代的な考えだろうか?

「とにかく」篠宮が言った。「この線は保留してみたらどうだろう?」

「保留?」

「僕らはまだ鮫ヶ淵も洗っていないし、赤坂のロシア人街にも行っていない。そこにいけば新しい何かが分かるかもしれない。それが高階婦人犯行説をより強く補強するかもしれないし、逆に高階婦人が無関係だということを証明してくれると思う。まだ情報は収集の途上にあるのだから、今この時点で強い仮定を打つ必要はないと思うんだ」

「そうだな」有川はうなずいた。「もうちょっと調べる。それから結論でも問題ないだろう」

「で、明日は?」

「鮫ヶ淵だ」

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