第11話 昭和二十年八月十八日金曜日 甲

 十八日の行動はこんな会話から始まった。

「考えてたんだけど」と、篠宮。

「何を?」有川が訊ねた。

「逆の立場ならすごく分かりやすいのにね」

「逆の立場?」

「殺されたのがあの高階さんで、生きているのが神宮寺氏。そうしたら、動機は間違いなくお金目当て。高階さんってあの高階商店の高階さんでしょう? 名士年鑑で調べてみたら高階会長の一人娘だよ。たぶん高階さん名義の資産総額は神宮寺氏のよりずっと上だよ。そこで思ったんだけど、神宮寺氏の貿易会社、実際はどんな調子だったのか確かめてみるのも手だと思うんだ」

「分かった。じゃあ、確かめてみよう」

「どうやって?」

「俺に考えがある」


 今は亡き神宮寺氏が本社を置く場所に非常にこだわったことがよく分かった。十八階層ある品川街塔区の上から数えた第十四階層、それも外周道路沿いで東側に正面を取っている。すると、東京湾から上る朝日が建物を暖めるのだ。天気は曇りだが、それでも神宮寺貿易会社の前から東に目をやると海と陽光のきらめきを感じずにはいられない。

 午前十時。ダットサン・クーペから降りた二人はドアを空けて、事務室をざっと見回した。仕切りとその中で働く社員、壁から垂れ下がった傘つき電球と巨大な台帳、ガーガーうるさい国民ラジオ。そして、カタカタと鳴る通信室のテレタイプ。

 有川は事情と神宮寺氏からもらった名刺を見せて、受付嬢に言った。

「先日亡くなられたこちらの社長について、できれば上の人とお話したいのですが」

「等々力専務にお会いになられますか?」

「あ、いえ。出来れば常務にお会いしたいんですが」と、有川。

「和田常務ですか? では、こちらで少々お待ちください」

 女子社員は長椅子を指した後、背を向けて歩き始めた。すると、有川はその三歩後ろをついていき、篠宮にも一緒に来るよう顎でしゃくった。どういうことだろう、と頭を傾げたくなる篠宮の前を有川は無言で女子社員の後ろをついていく。女子社員は有川が後ろにいることに気づいていなかったし、他の社員たちは女子社員が有川たちを案内しているものだと思っているから注意するものもいなかった。

 女子社員があるドアの前でピタリと止まった。そして、ノックをしようとした瞬間――

 有川は飛び出して、女子社員とドアのあいだに割り込むと、ノックなしでいきなりドアを大きく開け放った。

 不意打ちを受けた常務らしき中年の男が驚き、慌てたその手元から何か細い竹のようなものが跳ねて、テーブルの上を飛び越えて床に落ち、有川の足元に転がってきた。漆を塗られててらてらと光る二尺ほどの長さの細い棒。それは全部継ぎ足せば全長五メートルになる釣竿の一部だった。

「これは失礼」有川は釣竿を拾って言った。「ついノックを忘れてしまって」

 常務は釣竿を受け取りながら、

「いや、いや、お恥ずかしい、いや」

 と、バツが悪そうに頭を掻いて言った。本来ならノックもせず、相手の予定も聞かず、いきなり部屋に飛び込んだ有川の非礼が責められるべきだったが、勤務中に釣竿をいじっていたことを見られたことに対する負い目があったのだろう。有川はその負い目をほぐすように訊ねた。

「江戸和竿ですね? いい趣味をお持ちで」

「おや?」常務は少し気を許したように訊ね返した。「あなたもされるので?」

「いやあ、私はお金と時間の都合がつかない関係でもっぱら市ヶ谷の釣堀ばかりでして」有川は気のおけない様子で訊ねた。「常務さんはやはり上流で?」

「ええ、やはりまだ手つかずの自然を残す渓流は違いますからな」上機嫌になった常務は思い出したようにドアの外に立つ女子社員に声をかけた。「あ、君。ご苦労様。もう戻ってくれて構わんよ」

 女子社員が帰ると常務は二人に椅子を勧めた。

「それで本日はどういったご用件でしょう? ご予約があったと記憶していないのですが」

「実は大変失礼とは存じながらも、飛び込みでして」

 篠宮は神宮寺からもらった名刺を取り出し、自分たちが神宮寺のボディガードとして雇われることになっていたことを話した。

「じゃあ、あなたたちのことでしたか」常務は名刺を返しながら言った。

「僕らのことをご存知で?」篠宮は名刺を胸ポケットに戻しながら訊ねた。

「ええ。社長が亡くなる前日ですから、十四日でしょうか。社長がついにボディガードを二人雇うことにしたと口にされたのを聞きました。喜んでおられましたよ。何でもボディガードの一人はあの有名な有川順ノ助の甥だとか」

 くそっ、ここでもか。有川は心の中で毒ついた。

 常務は続けた。「社長は七月の終りか、八月の初めごろから、ずっと身辺の警備を強化したいとこぼしておられてましたからねえ。ただ私がその理由を訊ねても、最近物騒だからと言われるばかりで」

「神宮寺氏と私たち二人は十五日に会うことになったのですが、その、まあ、すれ違いまして、結局顔を合わせることが出来なかったのです。そして、神宮寺氏は十五日殺害されて……」

「そうですか。社長ももっと早くにあなたたちを雇っていれば、あのような最期を遂げることはなかったでしょうに」

「そのことで伺いたいのですが、神宮寺氏の身辺に何か具体的に危険が迫っていたとか、心当たりはありませんか?」

「いえ、聞いたことがありませんね。……あ、もしかしたら、あれ、今評判の赤色ギャング団を恐れていたのかもしれません。うちも最近は結構羽振りがよくなったから、ギャングに目をつけられるのを恐れていたのかもしれません」

「なるほど」

「会社の規模がある程度を超えたら、警備の面も見直さなければいけませんから。社長はたぶんそのことを考えていたのではないかと。でも、結局手遅れになってしまいました」

 有川が言った。「そういえば、こちらは貿易会社と伺いましたが、海外の支店は?」

「まだハルビンに一つです」常務は言った。「うちはハルビンへの生活必需品の輸出をしていまして。これが主力です。ハルビンから買うのは綿布など。あと関東軍にも、まあこちらは自動車の部品を納入するくらいの仕事です。まあ、これは昨日、警察の方々にお話したのと同じ内容になりますね。ところで、あなたたちはボディガードとして雇われたのですよね? どうして捜査のようなことをされるのですか?」

「本業は私立探偵なんです。実は神宮寺氏が扶養していた姪の響子嬢から真相解明のための依頼を受けたので、何か情報は得られないかと思って、今日ここに参った次第です」

 響子の名前が出ると常務は軽くため息をついた。

「そうですか。響子嬢もお気の毒なことです。九歳のころに両親を飛行船事故で亡くしてから母方の叔父である神宮寺社長の元に引き取られたのですが、響子嬢は社長を実の父親のように慕っておりました。響子嬢は確かまだ十八歳でしたか。かわいそうに。しかし、不幸中の幸いはまだ高階雅美さんがいることです」

「神宮寺氏が生前交際していた女性ですね」

「社長も高階さんも結婚を前提に交際しておられたようです。社長にとってはこれが初婚になるはずでした。高階さんは確か二度目です。十年前に夫を癌で亡くされて。子どもはいかなったそうです」

「なるほど」

「探偵さんはこう考えているのでしょう?」常務は声に棘っぽいものを含ませて言った。「社長には実子がなく、配偶者もいないから、社長の遺産は保護養育していた響子嬢のものになる。それを高階さんが気に食わないのではないかと」

「推理小説なら、まあ、そんな筋でしょうね」篠宮が質問を引き取った。「響子嬢が亡くなった後にその財産が全て高階さんのものになるよう遺言を改竄して、犯人の凶悪な手が響子嬢の首にかかるところで名探偵が登場。華麗な推理で犯人の悪行を白日の下に晒しだし大団円」

「高階さんに限って、そんなことはありえませんよ」常務は半ばムキになって言った。「高階さんはあの高階商店の一人娘です」

「ええ。存じてます。三白景気で絶好調なあの――」

「ええ、あの高階商店です。貿易商事会社としての規模は恥ずかしながら我が社とでは比べ物にならないほど大きいですし、高階商店は貿易以外にも(常務は指折りして数えた)造船や石炭、化学染料、セメント、セルロイド、倉庫、人造絹の製造販売など広く事業展開しています。三井三菱に匹敵する大商事ですよ。そんな高階さんに響子嬢の財産を狙う意味なんて、これっぽっちもありませんよ。それに社長と高階さん、響子嬢は血のつながりこそないものの本物の家族のように和気藹々と幸福のうちに暮らしていたのです。それも社長があんな形で亡くなられて……響子嬢も高階さんもさぞお辛いでしょう」

「そうですね。ところで、神宮寺氏と高階さんは交際されて何年になるんです?」

「ええと……確かな数字は覚えていませんが、だいたい六年くらいだと思います」

「交際して六年ですか。二人の年齢を考えると、まだ結婚していないのが不思議に思えますね。なぜ神宮寺氏は高階さんに求婚しなかったのでしょうか?」

「それは……」常務は言い辛そうにしていたが、結局言った。「おそらく、社長の誇りに問題があったのだと思います」

「誇り?」

「神宮寺社長は一代でこの会社を築き上げました。しかし、順調にいっているとはいっても高階商店に比べれば、我が社は吹けば飛ぶような籾殻会社です。社長は高階さんと籍を入れるとき、手持ちの資産で釣り合いたいと思っていたんだと思います。しかし、それはいくら社長でも無理でしょうし、そもそも高階さんはそんなことを気にする人ではなかったでしょう。高階さんは立派な女性です。名前は忘れましたが何かの平和主義団体の会員で、あ、あと、それに救世軍婦人会の支援者でしたし、お金を出すだけでなく、自ら炊き出しに参加される行動力のある女性でした。それが鮫ヶ淵の炊き出しと同じ日に社長が鮫ヶ淵で殺されるなんて、これが運命だとするなら神さまというのはひどく残酷な方のようですな」

「同感です」有川は立ち上がって手を出した。「忙しい中、急な飛び込みにも関わらず、お時間をとっていただきありがとうございました」

 握手しながら常務が言った。「いえ。もし、私どもにも協力できることがあれば、遠慮なくおっしゃってください。私もこんな非道なことをした犯人がはやく捕まるようお祈り申し上げます」

 会社を出ると、有川と篠宮は早速一本つけた。

「さて」有川は一本をたっぷり楽しんだ後に言った。「会社の経営は順調そうだ」

「あのやり取りでどうしてそんなことが分かるの?」

「俺の叔父さんが――」

「順ノ助叔父さん?」

「違う。サラリーマン一筋の源之助叔父さんだ。その源之助叔父さんが言うには会社が大丈夫かどうかを確かめる一番いい方法は常務の働きぶりを見ることなんだそうな」

「へえ」篠宮は興味深げに腕を組んだ。「詳しくどうぞ」

 ふーっと煙を吐きながら、有川は説明した。

「源之助叔父さん曰く、常務って仕事は忙しいときはとことん忙しいけど、ヒマなときはとことんヒマらしい。その常務が全くヒマなしの状態で動きまわっていたら、その会社はもう倒産寸前なんだそうな。源之助叔父さん曰く、株価や帳簿、貸借対応表は会計士さえ抱き込めば簡単に値を動かして、ごまかせるけど、常務の働きぶりだけは隠しようがない。常務がヒマなしで忙しいということは、普通なら課長くらいの人間を派遣して済む用事も常務が飛び回って頭を下げなきゃいけないところまで会社が傾いているってことなんだとさ」

「なるほど。その仮説に立ってみると、あの常務は――」

「ヒマそのものだな」有川は煙草を踏み消した。「社長が死んだってのに釣竿いじってんだぜ。おまけに会社は平常運転。今は亡き神宮寺氏はワンマン経営じゃなくて、きちんとした組織づくりの上で経営をしていたんだろう。そもそも会社が危ない上に社長に死なれたとあった日には、俺たちと会ってくれるわけがない。ただ、気にならないことが全くないと言ったら、嘘になる。貿易会社なのに支店がハルビンに一つだけ? 上海やシンガポールやサンフランシスコじゃなくてハルビンってのは何か引っかかる」

 エンジンをかけて、車に乗り込むと篠宮は次の目的地を訊ねた。

 選択肢は三つある。

 一つは鮫ヶ淵。もう警察がやっているだろうが現場の聞き込みと赤色ギャングが本当に神宮寺貿易を狙ったのかどうかを調べる。鮫ヶ淵の中にはおまわりには絶対協力しないが、私立探偵なら話してもいいという手合いが意外と多い。

 もう一つは赤坂の露人街。男爵が意味するところを調べる。

「ロシア人街には知り合いがいるの?」と、篠宮が訊ねた。

「一応、いる」有川は答えた。「叔父の関係だけどな。でも、俺はまず救世軍婦人会をあたってみたい」

「ひょっとして高階さんへの疑念かい?」

 有川は箱から最後の一本を取り出してつけてから、そうだ、と言った。

「高階婦人と神宮寺が同じ日に同じ街塔区の同じ階層に居合わせたなんて、偶然にしちゃ出来すぎてる気がするんだよ」

「むしろ犯人はその線に目をいかせようとして謀っているのかも知れないよ。高階さんは神宮寺氏と一緒に住んでいるんだから、もしその気になれば神宮寺氏を階段から突き飛ばすとか、食事にヒ素を盛ってじりじり弱らせるとか、もっと危険の少ない方法で殺せたはずだ。それをわざわざ鮫ヶ淵で殺す意味ってなんだろう?」

「高階婦人以外の真犯人が自分の姿を追われず済むように捜査のかく乱を仕掛けている、か。そこまで裏を読むと何でもありになってくる」

 煙とともにため息を吐き出した。悔しいが、こんなとき叔父の順ノ助ならどう考えるだろうかとすがっている自分がいる。たぶん叔父なら直感のようなもので有川には見えない真犯人へと辿り着く糸を握り、それを見失わないよう、時にはゆっくり、時には大胆に糸を辿っていって、最後は真犯人を捕まえるのだろう。

「でも、俺は叔父さんじゃない」

 有川は帽子を取ると、髪の毛をくしゃくしゃにかき回した。

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