第10話 昭和二十年八月十七日金曜日 丙

 篠宮の調書が取り終わり、二人が浜島署の入口を出たとき、時間は午後五時五分前だった。

「さて、どうしたもんか」暮れそうな空を見ながら、有川は背を伸ばして体の凝りをほぐそうとした。

「事務所に戻る?」

「当座できることはそんなところだな」

 市ヶ谷街塔区の第八階層まで戻り、八階ワルツ丸商店街の角を左へ曲がろうとしたとき、歩道にいる老人が手を振ってきた。篠宮はブレーキを踏んで、車を止めた。ひょこひょこ寄ってきたのは館林博士だった。

「やあやあ、お二方」館林博士はステッキを持った手で山高帽をちょこっと上げて挨拶した。「ご機嫌いかがかな?」

「どうしたんですか?」助手席の有川が訊ねた。

「なに、暮れていく空を眺めながら、意見の相違がもたらす非建設的な騒擾を未然に回避するにはどうすればいいか思考を巡らせていたところでね」博士は八来軒をステッキで指した。老婆が小さな腰掛けに座り、いずれ帰ってくるであろう館林博士を捕まえんとして陣取っていた。「その騒擾を回避する手段はダットサン・クーペの後部座席にあるという結論に今至ったところなのだ」

 まあ、困ったときはお互いさま、よろしく頼むよ、ということなのだろう。一応、車の持ち主にお伺いを立てたところ、篠宮は快く協力を約束してくれたので、館林博士はクーペの後部座席に身を伏せて、八来軒の老婆の哨戒線を突破して、車庫に到着することができた。

「いやあ、ありがとう。ありがとう」車庫の扉が閉まると、博士は後部座席からもぞもぞ這い出しながら礼を言った。「仮にもエネルギー研究所の所長を名乗る人間があんな老婆相手にエネルギーを無駄に費消していたのでは示しがつかないのでね。本当に助かったよ」

「でも、今度家賃を入れなかったら追い出すって言ってましたよ」

「なに、そんなこと、ただのおどしだよ。この商店街の、外周道路からわずか二軒離れただけの場所にある風通しのいいアパートでさえ空き部屋のままになっているんだ。より奥に引っこんだ、こんな場末の、おまけにケチな支那ソバを出すケチな老婆がいる物件に借り手がつくわけがない。それに私だって、三ヶ月に一回くらいはきちんと家賃を納めている。あの老婆にできるのは噛みつくくらいのことだけだ」

「まるでピラニアですね」篠宮が言った。

「そのとおり」博士が笑いながら言った。「実にいいセンスだ。篠宮くん。まさにピラニアだよ。しかし、東京というのは人情に欠けた街だねえ。大家が特にひどい、私が学生だった時分、ベルリン大学に籍を置いていたころ、下宿屋の女将は家賃を半年でも一年でも待ってくれたものだ。ああ、若き日々、愛しのベルリン」

 ゲッ。有川と篠宮はお互いを見やって苦笑いのようなものを口の端に寄せた――また始まった。館林博士の言うことを信じるならば、博士は一九〇〇年二十歳のときから、ドイツへ官費留学して、物理だか化学だかの博士号を修めたというのだ。そして、やたらとベルリンを誉めちぎる。有川と篠宮は眉につばして、年寄りの無害なほら話だと思いながら、好意的な相づちを適当に打ち、博士のベルリン談義を聞き流した。

「ティアガルデンやアレクサンダー広場はまだ残っているのだろうか? ポツダム広場のカフェ・ヨスティは? ウンター・デン・リンデンのカフェ・バウワーは? ブランデンブルク門をどうするつもりだ? ヒトラーめ、あいつが、あの芸術家気取りの極道者が私のベルリンをすっかりご破算にしてゲルマニアという醜悪な上塗りを施した。ベルリンは永遠に失われてしまったのだ。最悪だよ」

 館林博士はベルリンについて一通り嘆きつくすと、じゃあ、さようなら、この恩はいつか返すから私が必要なときはいつでも声をかけてくれ、と言いながら、階段を上っていった。

 事務所に戻り、所長室でそれぞれの椅子に腰掛けた。

 疲れた。

 だが、資料室のドアは開きっぱなしで、そこが依然として紙で創られた混沌に支配されているのが見える。

 整理しなければいけないのは間違いない。

 だが、どうにもやる気が出なかった。もし館林博士が調べれば、警察の調書とエネルギーのあいだには何らかの相関関係が見つかるかもしれない。警察の調書には人間のエネルギーを吸い取る性質があるのだ。同じ質問を繰り返し訊かれたり、細かいところまで突っついたり、それで調書が取り終わるとようやく自由の身なのだが、調書を取る以前に有していたあのエネルギーが雲散霧消し、現在の二人のように倦怠感を覚え、何らかの行動を発起することができなくなるのだ。

 その結果、人間は楽なほうに流れていこうとする。何構うものか。どうせ俺たちはシカン時代の人間だ。まず、篠宮がゆっくり立ち上がると、資料室のドアを閉めてこの小さな世界から見たくないものを追い出した。続いて、有川が書類棚の下の引き戸を開けて、一升一円九十銭の並等酒が半分ほど残っている一升瓶を取り出した。篠宮は湯のみを二つ用意した。有川は去年、種田弁護士からもらったお中元の有明海苔を取り出した。それからいくら探しても見つからないので、二人はやむなく資料室の封印を解き、部屋に立ち入ると、散らばったままの書類を目にしないよう注意しつつ、引き出しからアルコールランプを取り出し、資料室を再度封印した。

 二人は酒を湯のみに注ぐと、アルコールランプをつけて、その火で去年の海苔をあぶった。すると、これが大変香ばしくなるので、安酒が大いに進んだ。日が暮れて、商店街は黄色い電気の光によって照らされると食欲が出てきたが、あぶった海苔がそれを満たしてくれる。もう少し何かないかなと篠宮はお茶の葉がある棚を探すと、畳いわしが出てきた。こりゃ最高だな、と二人はアルコールランプで畳いわしを軽くあぶってはその香を楽しみ、かみついた。

 呼び出しブザーが鳴ったのはそんなときだった。篠宮はほろ酔いで立ち上がって、誰が来たのか賭けをしようと言い出した。

「館林博士に畳いわし一枚」

「じゃあ、俺は八来軒のばあさんに有明海苔二枚だ」

「よし、いくよ。それっ――」

 篠宮は勢いよくドアを開けた。


 その少女は響子・アントーノヴナ・ポクロフスカヤと名乗った。歳は十八。父はロシア人、母は日本人だった。ここに来たのは、照山刑事の勧めだと言った。今日の午後、彼女は監察医務院で自分の保護者である母方の叔父の遺体を見せられた。

「それが叔父であるとは到底信じられなかったのですが、司法解剖の結果がその焼けた遺体が私の叔父であるということは間違いないと言われました。遺体確認は叔父が結婚を前提に交際している高階のおばさまと行きました。高階のおばさまは涙を流しましたが、私は泣けませんでした。私は薄情なのでしょうか?」

「いえ」篠宮が言った。「変わりすぎた現実に追いつけず、実感がまだ湧かないだけです。ご自分をそんなふうに追い込むべきではありません」

「そうですか」

 響子・ポクロフスカヤは、そう言って数秒目線を伏せてから、

「照山という刑事さんがあなたのことを教えてくれました」有川にそう言った。「あの名探偵有川順ノ助の甥だって――」

「俺は叔父とは違います」有川は首を左右に振った。

「照山さんもそうおっしゃいました。有川正樹は有川順ノ助ではない。でも、探偵として決して無能じゃないし、困っている人を見過ごしたりしない信用のできる探偵さんだと教えてくれました」

 照山め、こんな少女相手にむごいことをする。心の中でそう思いながら、有川は目の前の日本人離れした容姿の少女の相手をしなければいけなかった。

「正直に言いましょう」有川はふうっとため息をついて言った。「俺たち私立探偵はそんな立派な生き物じゃありません。浮気調査とか基本的に他人の不幸を食い物にした仕事が多いんです。俺たちに限って言うならば、ずばりマヌケです。つい今さっきまでだって俺とこの篠宮はアルコールランプであぶった海苔をツマミに安酒をあおっていました。あなたが来たので大急ぎで一切合財を俺のテーブルの下に隠したんですよ。馬鹿な探偵でしょう? そして、何より重大なのは俺たちは――」

「遅刻したことについても照山さんから伺いました」響子は静かな声で言った。「行き違いになったってことも知っています。でも、私はあなたたちに仕事をお頼みしたいのです。叔父が生前に信頼した人物ならきっと叔父の無念を晴らしてくれる。私はそう信じています。有川さんと篠宮さんが叔父の捜査に関わるのは別の仕事が入るまでだとおっしゃったそうですね? でしたら、私が正式に依頼します。叔父を殺した犯人をどうか捕まえてください」

 真剣な少女の眼差しを浴びながら、有川は不思議なことに昨日、篠宮から言われたことを実践していた。つまり、来ているものを観察したのだ。青っぽい半袖の花柄のシルクのブラウスで胸元にトルコ石のブローチ、紺のスカート、ストッキング、黒いかかとの低い靴。

 有川は服装に関する観察がただの現実逃避に過ぎないとしてこれを捨てて、少女の扱いを真剣に考えた。この少女にもっと有能な探偵や大規模な興信所を紹介してそこに投げることもできた。そもそも探偵を雇わないほうがいいと忠告することもできた。おそらく警察が握っている貸金庫の線で今回の犯人は挙がる。そうなれば、金をドブに捨てるようなものだ。

 だが、その一方、彼女を見ていると、自分で捜査をしたいと思う。篠宮が悪魔の相貌なら、響子は天使の相貌だった。響子を見ているとこれは依頼じゃない、贖罪の機会なのだ、と考える自分がいた。

 響子は当座のお金として五百円を用意してきた、といって、実際に札束を置いた。

「足りなくなったらまた言ってください。持ってきます」

 また持ってくるのは無理だろう。たぶんこの五百円が彼女の出せる最高額だ。

「わかりました」と、有川は言った。「お受けします。結果のご報告はいつ上げれば?」

「しばらくは葬儀で忙しいので、第一回目の報告は二十日の日曜日に。少し遅くなりますが、夕方ごろにこちらから事務所に参ります。よろしいですか?」

「わかりました。きちんとした報告書を上げるのはもう少し後になりますが、二十日までにはこちらで調査した結果、判明したことの詳細を上げます」

「よろしくお願いします」

 響子は席を立った。篠宮がドアを開けて出口まで案内した。

 もう海苔をあぶる気分が失せた。有川は窓辺に立つと、響子が橋を渡って黄色い光に溢れた商店街へと消えていくのを見守った。

「ハキハキしたお嬢さんだったね」篠宮が言った。「芯がある強い女性だ」

「そうだな」有川が言った。「シカン時代には珍しい」

 響子が帰って十五分ほど経って、またブザーが鳴った。

「賭ける?」と、篠宮。

「いや、もういい」

 篠宮がドアを開けた。

 四十代後半の着物姿の女性が立っていた。美人で凛としていて、見ていると規律と服従を思い出させる、音楽教師みたいな女性だ。

「勘違いでしたら、ごめんなさい」音楽教師のような女性が訊ねた。「こちらに響子・ポクロフスカヤという名前の女性が来たと思うのですが?」

「どちらさまで?」有川は立ち上がって訊ねた。

「高階雅美と申します」高階婦人は礼をして言った。「神宮寺の知人です」

 奥へ案内すると、高階婦人は言った。

「先ほど知人と申しましたが、私、あの方とは結婚を前提にお付き合いしていました」

「はあ」有川はちょっと探るように言った。「どのような御用でしょう?」響子の依頼で調べたことを自分にも教えろという要求だったら、はっきり断らなければいけない。

「探偵の方々は依頼と依頼人について黙秘しなければいけないことは存じ上げております。私のお願いはそうではなくて、調査料のことです」

「調査料のこと?」

「響子さんがいくら払ったかは存じませんが、そのお金には手をつけないでいて欲しいのです。事件が解決した折には十円くらい引いた状態で残りは不要だったということにして依頼料を返してあげてほしいのです。もちろん、実際に捜査することで発生する料金や経費は私が全て払います。超過分のお金が必要になったら、響子さんではなくてこの番地かこの番号に電話してください。すぐに必要なだけお支払いします」

 高階婦人のメモには青山街塔区第二十三階層の青山一丁目の番地と四桁の電話番号が書いてあった。青山のてっぺん、最高級住宅街だ。

それで有川はピンときた。高階婦人は高階商店と関係がある。だから、依頼料を代わりに支払うなんて芸当ができるのだ。

「依頼料は肩代わりするけれど、報告は入れなくてもいい。そういうことですね」

「はい」

「わかりませんね」有川はテーブルの上の鉛筆を転がしながら言った。「あなたと響子嬢との間に血縁関係はない。そうですよね?」

「血縁関係はありませんし、あの人と響子さんは親子ではなく、叔父と姪の関係でした――でも、私たちは幸せでした」高階婦人はあくまで静かにしかし力を込めて言った。「本物の家族のようでした。私は子どもを産めない体です。先の結婚でそれが判明しました。あの方はそれでも構わない、私とあの人、それに響子さんの三人で誰よりも幸せに暮らそうとおっしゃったのです。それを――」

 高階婦人は言葉を止めた。手にしたバッグを爪が食い込むほど握りしめていた。表情こそ崩さなかったが、右目から涙が一筋流れ落ちた。篠宮がハンカチを貸すと、ごめんなさい、と言って涙を拭った。

「わかりました」有川は言った。「事件が解決したら響子嬢には預かったお金から十円と五、六十銭抜いた状態でお返しします。特別扱いされて情をかけられたと不快に思われないよう配慮しましょう」

「そうしてあげてください。それと響子さんは今、青山の私の家に一緒に住んでいます。響子さんの家は警察がしばらくは家宅捜索を行うそうですし、大きな家に響子さんが一人住むのは寂しいだろうと思って。ですから、青山のほうに一緒に住むことにしたんです。超過金の請求の際は響子さんに見つからないようお願いします」

「わかりました」

 有川は立ち去ろうとする高階婦人を呼びとめた。

「すいません。これは念のため訊くのですが……神宮寺氏が殺害された十五日の午後六時から七時までのあいだ、あなたはどこにいましたか?」

「鮫ヶ淵の第七階層にいました」

「炊き出しですか?」

「はい」

「すいませんね。嫌な質問をして。これも仕事のうちなので」

「いえ、いいんです。私もはやく犯人が捕まることを祈っています」

 また篠宮の案内で出口へ向かう高階婦人が足を止めると、誰に向けて言うわけでもなくつぶやいた。

「あんなことができる人は――とても、とても残忍な人です」

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