第9話 昭和二十年八月十七日金曜日 乙

 真っ青な警察用巡航飛行船はゆっくり浮かび上がり、そして左右のプロペラがまわり出して、北に針路を取って、前進を開始した。

 エンジン音のうるさい中で照山は篠宮から十三日にあったことを大声で説明し、照山もエンジン音にかき消されないよう大声で質問した。

 有川は窓から外を見ていた。うっすらと不健康な靄の中で、煤けた帝都は北からの風がこの靄を東京湾あたりに押し流してくれるのを待っていた。宮城以外の全ての街塔区が工業都市であるため、帝都の心臓はいつだって不健康なガスによる靄に覆われていた。空は曇りがちで、さらに帝都を覆う靄が手伝って熱がなかなか空に逃げず、帝都はいつまで経っても不快で蒸し暑かった。

 政府発行宝くじの広告飛行船とすれ違うと、市ヶ谷街塔区のてっぺんに小津安二郎監督、池部良と赤松千鶴が出演する最新作「貝殻の唄」の巨大看板がすえつけられているのが見えた。かと思うと、大きな府外向けの旅客飛行船が浮かび上がってきた。その船の客たちは温泉療養や海水浴療法を医師に勧められ、帝都近郊の汚染の激しくない地域へと去っていくのだ。その半分は療養先で死ぬだろう。目を少し落とすと市ヶ谷と四谷を結ぶ高架道路で事故が起きていた。ダットサン・フェートンとトラックの衝突事故で連絡道路が渋滞を起こしていた。

 詩人は謳う。空は無限だ、と。

 だが、実際には空は無限ではない。それどころか、制限と限界の組み合わせがパズルのピースのように組み合わさって空を形成しているのだ。

 例えば街塔区間の交通として鉄道や自動車道路、ロープウェイ、飛行船タクシー、高架水道が張り巡らされているため、府内の飛行船会社が使える航路は限られている。当然、飛行船各社は自分の会社に多くの航路を、できれば利益の大きい航路を割り当ててもらいたい。だが、航路の割当先や新会社設立の許可を握っているのは政治家や官僚であった。すると、熾烈な賄賂戦争が勃発する。府議会議員五人に全部で二十一万円の工作費を渡したとか、飛行省の政務次官に十一万円を渡したといった疑獄事件が絶え間なく明らかになっていくと、やれ政治家にもシカン時代がやってきたとワイワイガヤガヤ囃し出す。篠宮の言ったことは案外間違っていないかもしれない。政治家や高級官僚が贈収賄の容疑で収監されると庶民は大喜びするが、それは正義がなされたことへの賛歌というよりは落ちぶれるものを笑う愉悦といったほうが近かった。シカン時代は庶民も蝕んでいる。

 それなら自分はどうだ? 十五日の遅刻は? 確かに自分一人がいったところで神宮寺の顔を知らないのだから、どうしようもない。だが、そこに油断がなかったと言えるだろうか?

 有川は自分もまたシカン時代の渦中にあると自覚した。それを挽回できるだろうか?

 文京街塔区が見えてきた。目立つのは第十四から第十七階層までに至る東京大学だった。東京大学のある階層だけはその円周に貴重な街路樹を植えていた。だが、第十七階層の一部には街路樹が植えられていない区画がある。

 そこが東京府監察医務院だった。

 飛行船発着場に降りると、長身でぼさぼさした白髪頭と口髭が似合う初老の男――佐川監察医が煙草を片手に白衣を着て、有川たちを待っていた。

「おやおや」有川と田島の姿に気づくと、佐川監察医がにやにやして言った。「少年探偵団の復活か」

「そんなとこですよ」照山が答えた。

「本来なら部外者の立ち入りは禁止だが――」佐川監察医は有川たちを見て、白い無精ひげが散った顎を撫でながら言った。「私も最近になって、ルールは破るためにあると思い知らされたところだ。いっしょに来たまえ」

「何かあったんですか?」

「別に」佐川監察医は肩をすくめ、煙草を踏み消した。「医務院の分からず屋どもが幹部会議を牛耳って、こっちの意見をろくに聴きもせずに、院内禁煙を決めただけさ」

 佐川監察医を先頭に照山、有川、田島が並び、そして篠宮が殿を務める形で五人は監察医務院の解剖室へと進んだ。消毒薬の臭いが立ち込め、医者も職員もみな伏し目がちに動く。医務院は静かで音といえば、通信室のテレタイプが変死体発見を報ずるときに発するカタカタという音くらいのものだった。

「昭和十八年の法改正からこのかた――」佐川監察医は白衣のポケットに手を突っ込んだまま、廊下を歩いていた。「監察医務院は検案と行政解剖に加えて、これまで大学の医学部にまわされていた司法解剖までこなすようになった。ところが、仕事は増えたのに人員はまったく増えていない。そして、給料も増えていない」佐川監察医は左手で白髪頭をくしゃくしゃにしてから頭を振った。「この措置はおそらく上の連中が現場の検視から司法解剖までを一つの組織に一本化しようと考えた末のことなのだろうが、その結果、監察医務院は破綻寸前だ。人員を増やすか、仕事を減らすかせねばならん。例えば、行政解剖を大学に割り振るとか」

 佐川監察医は右手をポケットから出した。その手にはぺしゃんこになったゴールデンバットの箱。最後の一本を口にくわえると、監察医は《院内禁煙》と印刷された張り紙でマッチをすった。

「そもそも法医学に特化した公的機関をつくろうという考え方が馬鹿げているのだよ。法医学は学生に人気がないんだ」マッチの燃えかすをバットの空き箱にねじ込んでポケットに入れながら、監察医は是非もなしと言った具合に頭を振った。「他の医学を修めた学生たちが社会に出て大病院や独立した医院で荒稼ぎするのに対して、法医学を学んだ学生に待っているのはスズメの涙ほどの俸給のみだ。法医学の博士号を取った秀才の行き先は監察医しかない。そして、私たち監察医はしがない公務員に過ぎない。通常の医学と法医学は、苦労は同じなのに報酬は段違い。労多くして功少なし。この有り様で、医学部に入学した若者たちは法医学を学びたいと思うだろうか」

 佐川監察医は蒸気船のようにぷかぷか煙をふかしながら、通りがかりの同僚や事務員に「よう」とか「おう」などと挨拶している。見たところ、佐川監察医の行動を注意しようとする医者や事務員はいないようだった。佐川監察医の愛煙ぶりは有名で、もしチェリーやスターを同じ調子で呑んでいたら、間違いなく一ヶ月で身代をつぶすとまで言われていた。

「おまけに致命的なのは」佐川監察医は続けた。「法医学は感謝されるための医学ではないということだ。外科医なり内科医なりなら病気を治していただいてありがとうございましたといって患者とその家族は頭を下げてハラハラと涙を流すだろうが、それに引き換え監察医はどうだ? 死後数ヶ月経ってぶよぶよに脹らんだ腐乱死体だの機関車と正面からぶつかってぐちゃぐちゃになった轢死体だのを切開して隅々まで調べまわしても誰も礼を言わん。感謝の言葉を目当てとするなら、監察医は間違いなくやりがいのない仕事だ」

 佐川監察医は煙草を肉厚な観葉植物の葉に押しつけて、植木鉢の中に吸殻を捨てた。植物の葉には同じような痕がいくつも残り、植木鉢の土の上にはへし折れた吸殻が十五、六個転がっていた。

「それでも博士は監察医になったんですね」有川が言った。

 佐川監察医は振り返って、にやりと笑った。「医師としての道を決めるここぞというとき、ニコチンが脳みそにまでまわって頭がおかしくなっていたのさ。さあ、ここだ」

 丸いガラス窓がついたステンレス製の扉を開けると、そこは解剖室だった。佐川監察医がスイッチを弾いて、電気がついた。壁は腰までの高さに薄緑色のタイルを張り、そこから上は白い漆喰で出来ていて、部屋全体を照らす電球の他に、傘つきの電球が二つずつ検視台を強く照らすために天井から垂れていた。

 ステンレス製の担架のように細長い台が一つ、そこまで長くない台が二つあった。一つ目は切開済みの黒焦げ死体が、二つ目には摘出した臓器が、三つ目は黒焦げの遺留品が並べてあった。

「さて、こちらがホトケさんだ」佐川監察医は一度両手で拝んでから説明を続けた。「もう諸君の知っている情報とかぶるかもしれないが、一応最初から説明しておこう。まず、私は現場で見た遺体の状況から、被害者が焼死したのではないと判断した。ホトケさんの見つかった物置は確かにごちゃごちゃしていたが、生きたまま火をつけられた男が暴れまわったにしてはきれいだった。また、被害者は仰向けの状態で見つかったが、ひっくり返したら、背中に刺し傷があったんで、ここに持ち込んで解剖に処した。摘出した臓器の数々が死後炎上説を裏付けてくれたよ。ホトケさん相当呑むほうだったらしく(そう言いながら佐川監察医は煙草を吸う真似をした)、このとおり肺は真っ黒だった。だが、煤は検出されなかったよ。焼かれたのは間違いなく死んだ後だな。肝臓や血液を調べたが、睡眠薬や毒物の類は検出されなかった。胃の中の内容物は非常に少なく、消化の具合から推測すると朝にパンのようなものを一切れ食べただけだろう。後はコーヒーがかなりとビール少しにピーナッツくらい。よっぽど食欲がなかったんだろうな。さて、死亡推定時刻は午後六時から七時のあいだ、死因は背後から心臓への一突きでほぼ即死だ。刃渡り十五センチほどのナイフのようなものが凶器と見てよい」

 佐川監察医がため息をついた。

「さっきも言ったとおり私は現場を見た。ホトケの倒れていた物置部屋のすぐそばには水面までぶちぬかれた吹き抜けがあって、堀から流れ込んだ水が大きな池を作っているのを簡単に見下ろすことができた。鮫ヶ淵はそうなんだ。どん底に水がある。おそらく凶器はそこで捨てられただろう。潜水士を使って苦労して底をさらったところで凶器から指紋は出んだろうな。労多くして功少なし」

 有川は遺体の顔を指差して訊ねた。

「この顔や胸に黒くへばりついたベトベトは?」

「焼けたゴムだ。おそらくレインコート」

「あの日、雨が降る気配はなかった」照山が言った。「犯人はこれを着て、返り血対策をしたんだろう。一応、現場で見つかった犯人の遺留品だ。しかし、返り血対策までしたとは計画性が高い。ガソリンも前もって用意していた可能性が高いな」

「よっぽどうまく隠したんでしょうね」篠宮が言った。「ガソリンなんて換金しやすいもの、ほっぽっといたら、あそこじゃすぐ盗まれるでしょ?」

「ガソリンをどう用意したのか分からんが」佐川監察医は口髭の端をつまみながら言った。「最大の謎はなぜ死体を焼いたかだ」

「というと?」

「こういっちゃ何だがホトケさんは半焼けの状態で発見された」

「半焼け?」

「カツオのタタキみたいにな。ほれ、ホトケの内側は焦げずにきれいなもんだろう? 放火から発見までが割りとすぐだったし、火も住人の手ですぐに消し止められた。実に効率的な消火作業だったそうだ。鮫ヶ淵は最低の連中が住む町だが、最低には最低なりの連帯意識がある」

「身元の確認のために必要な指紋はホトケから取れたんですか?」

「難しかったが、不可能ではなかった。一本だけ左手の小指だけがさほど火傷していなかった。これなら後は簡単だ。昭和十五年以降に運転免許証を取得するもの、もしくは更新するものは指紋を採取することを義務づけられている。件の神宮寺氏は昭和十八年五月二十日に運転免許証を更新し、指紋を登録している。一致したよ。それに歯医者の治療跡でも割り出せたし、神宮寺弘と印刷された名刺五十枚ほどが入った名刺入れがこれまた奥まで焼けずに判読可能な名刺を多数残した状態で発見された。一応、この後すぐに親族や知人に遺体を見せて確認を取ってもらう予定だが、まあ顔の火傷はひどいし、溶けたゴムがこびりついていて、判別は無理だろう。でも、このホトケが神宮寺弘であることは間違いない。もし、ホトケの身元をごまかすために火をつけたとするなら、犯人には落第点をくれてやらねばいかん。では、この場合、犯人はどうすればよかったか?」

「はい、先生」篠宮が手を挙げた。「指を大型ペンチで全部切り落として犬に食べさせるなりして処分させます。それから死体の口にありったけの銃弾を詰め込んでから唇を縫い合わせて、それからガソリンをかけて火をつけます」

「それで指紋と歯の治療跡を追えなくなるからな。ふむ、文句なし。及第点を与えよう」

「被害者の所持品で鮫ヶ淵の住人に盗まれたものとかはなかったんですか?」有川が訊ねた。

「それが当日、鮫ヶ淵では救世軍婦人会が貧民向けの炊き出しをやっていてね。それに同行していた護衛役の警察官たちが現場保存に努めたおかげで、所持品はまるまる残っていると言っていいと思う。犯人が持ち去ったものがないかぎりの話だがね……おっと、いかん。私としたことが重要なことを忘れていた」

 佐川監察医はその場を離れると、いそいそとガラス張りの木製薬品棚のほうに歩いていった。十個以上の鍵をぶら下げた鍵束から一つ小さな鍵を選んで、薬品棚の扉を開けた。監察医は薬品の瓶が並んだ棚の一番端に寄せられたカーキ色の紙包みを手に取った。紙包みはちょうど贈答用の羊羹くらいの大きさだった。佐川監察医は包み紙をビリビリ破ると中からゴールデンバットの箱と同じくらいの大きさのものを二つ――というよりはゴールデンバットそのものを二つ取り出して、白衣のポケットの左右に一つずつ入れた。

「さて、話を続けよう」両ポケットに手を突っ込んだまま、佐川監察医は戻ってきた。「このように半焼けの状態で発見された被害者だが、犯人は彼を焼くのに実に念を入れているのが分かる。犯人はまず仰向けにした遺体に満遍なくガソリンをかけ、その上にレインコートをかぶせてまたおそらくガソリンをかけた。そして、一体なんのつもりか分からないが、被害者の所持品である財布、腕時計、手帳、名刺入れ、ライター、煙草、それに二十六年式拳銃一丁をまとめて、被害者の胸部と腹部の上に置き、おそらく念入りにガソリンをかけている。火をつけたのはそれからだ」

「被害者は銃を所持していたのか?」田島はしきりにメモしていた手を止めて、目線を手帳から照山に移した。

「今朝、内務省の関係当局に問い合わせて確認したが――」照山が言った。「ホトケさんの拳銃携帯許可証は先月末に申請されてまだ審議中、交付はされていない。つまり不法所持ということになる。ちなみに弾は入ってなかった。おそらく犯人は銃を燃やすことによって弾薬が暴発し、大きな音を立てるのを危惧したんだろう。たぶん弾も池の底だな」

「労多くして功少なし、か」有川が言った。

「そういうことだ」いつの間にか煙草をくわえていた佐川監察医が相槌を打った。

「弾だけ池に捨てて、銃は焼く。犯人のしたいことがさっぱり読めない。さて残りの所持品についてだが、財布からは上半分が焼けた五円札が十二枚、一円札が三枚」照山が報告書を読み上げた。「それに小銭少々。これだけあれば、本場英国製の生地をふんだんに使った三つ揃いの背広を一着仕立てられるぞ」

「つまり物盗りの線はない、と」

「驚きだね」篠宮が言った。「鮫ヶ淵で物盗り以外の殺人事件が起こるなんて」

「いや、そうでもないぞ、篠宮」田島が言った。「痴情のもつれもかなりある。ヒモが街娼を刺したり、その逆もしかり」

「ちょっと話を戻すぞ」照山が言った。「さっき犯人の行動がさっぱり読めんといったが、あれはちょっと大げさだった。実はまったく読めないわけではないんだ。被害者の所持品に注目してくれ」

焼け焦げた財布、焼け焦げた二十六年式拳銃、焼け焦げた名刺入れ、焼け焦げた煙草の箱がステンレス製のテーブルの上に番号付きで並んでいた。

「鍵がないな」有川が言った。

「ご名答」照山が言った。「そうなんだ。鍵がないんだよ。家の鍵も車の鍵もまとめてなくなっている。名刺入れだの不法所持の拳銃だのはご丁寧に遺体の上に置いていったくせに鍵だけはしっかりなくなっている。すると、犯人の動機は神宮寺氏から鍵を奪うことであった可能性が高くなる。そう、例えば――」

「例えば金庫の鍵とか?」篠宮が言った。

「その可能性が一番高い。一課は令状を取り次第、神宮寺氏の家と会社の金庫を捜索する予定だ。それに各銀行の貸金庫で神宮寺弘名義で借りているものがないか調べる。ただ警察がこのホトケの身元を確認したのは十六日だ。十五日に被害者を殺した犯人はすでに銀行へ向かい、偽造書類を使って神宮寺その人か、あるいは公定代理人になりすまし、貸金庫の鍵を使って、必要なものを取り出している可能性が高い。だが、それでもやらないよりはマシだ。神宮寺の貸金庫をいじったやつがいたのなら、行員たちも顔や姿を見ているはず。一課はこの金庫の線に賭けている」

「もし神宮寺氏がヤミ金庫を使っていた場合は?」篠宮が言った。「可能性として考えられるでしょ?」

「そのときは――」照山は両の手のひらを上に向けてオケラの真似をした。「お手上げだ。とてもじゃないが捜査し切れない。捜査員を千名動員しても無理だ。どの街塔区の奥にもヤミ金庫屋が数十店はあるといわれている。全部を調べるのは無理だ」

「でも、貸金庫の線はいいと思うぞ。調べりゃ、そのうちいくつか絞れる要素が出てくるさ」田島は手帳にメモをしながら言い、手帳から目を上げずに訊ねた。「ところで目撃者はいないのかい?」

 照山は首を左右に振った。

「なしだ。この場合、同じ階で炊き出しをしていたのが致命的だったな。住民全員が給食所に集まっているから、犯人は誰にも見られず、あの階を移動できた。上の階も下の階も自由に行けただろうな。単純に考えればホトケさんがやられたとき、あの階層にいたやつ全員が容疑者ってことになるが、もう少し絞らんといけない。ただ、鮫ヶ淵だからな。まず警察に協力なんてしないだろう」

「生前の被害者を鮫ヶ淵で見たものは?」

「それもいない」

「あの階層で炊き出しをするとあらかじめ知っていた人物は?」有川が訊ねた。

「わかるよ、有川」照山が疲れたように目頭を押さえ、ふうっと息を吹いた。「俺も同じこと考えた。つまり、ホシは事前に炊き出しのあることを知っていた。住人は豚汁に夢中で不審者なんて見ちゃいない。それは犯人にとって好都合だ。人目を気にせず自由に動ける。だから、ホシはその日を神宮寺殺しの日に決めた。そう考えたいところだが、さらにちょっと考えればそれは無理だとすぐ分かる。炊き出しをするんなら当然該当する区域の住人に宣伝するはずだからな。あの日あの場所で炊き出しが行われることを知っていた人間は大勢いる。数えていないが、とにかく大勢なのは間違いない。炊き出しは十日前から鮫ヶ淵街塔区中に知らされていた。他の街塔区の貧民まで食べに来たくらいだ! もっと人数を絞れる要素がないとこの線じゃ追えんよ」

「炊き出しの利用者はとにかく、救世軍婦人会のほうはとりあえず会うことができる」有川は言った。「俺はこの線を少し追ってみたい」

「あまり得るものは少ないと思うがね」照山は言った。

「しょうがない」有川はメモを取りながら言った。「貸金庫という一番の線はおたくら本職が握っているんだ。しがない私立探偵は二番目の線を追うしかないじゃないか」

「まあ、宮部警部も一番の線をこちらで抑えているとわかっているから、探偵とか新聞記者といった部外者にもある程度は寛大になれるはずだ」

「他にあるかね?」佐川監察医が訊ねた。

 篠宮が言った。「神宮寺氏はその物置部屋で殺されたんですか? どこか余所から移動された可能性はないんですか?」

「ああ、それについては――」照山は苦そうな顔をして、佐川監察医と目を合わせてから、うなづいて言った。「難しい。完全に否定はできない。さっきも言ったとおり、現場じゃ炊き出しの真っ最中。そして、鮫ヶ淵には人一人隠して殺せる秘密の部屋があちこちにある。死因は心臓への一突きとなっているが、このナイフを刺したままにして、ゴム引き布で二重か三重にしてホトケさんを包めば、途中で誰にも見られず、血痕も残さずに殺害現場から発見現場へと運ぶことも不可能ではない。まあ、この場合は犯人が複数であることが前提条件だがな」

「それにたとえ、血痕が発見されたとしても――」佐川監察医が会話を引き取り、首を振った。「それが犯人によって移動中の被害者から漏れたものだとどうして断定できる? 鮫ヶ淵じゃ流血沙汰は日常茶飯事だ」

 監察医が照山に視線をふったので、照山は手帳を取り出して読み上げた。

「調べてみたが、事件の前日、あの階層で酔っ払い二人が割れた瓶でお互いを突き刺し、救貧病院で治療を受けていることが分かった。さらに三日前にはまたあの階層で追い剥ぎがあって、住民が鉄管で頭を殴られて、十銭玉一枚の入った巾着袋を奪われている。これも出血ものの怪我だった。そして、極めつけがこれ。一週間前にやはりあの階層で、田島の言うところの痴情のもつれがあってな、二人の淫売が出刃包丁で自分たちのヒモを刺した。このヒモ野郎は二度ほど軽く突っかれただけなのにこの世の終わりがやってきたみたいに大騒ぎしながら、淫売二人の振り回すヤッパをかいくぐって、あちこち逃げまわった。さぞ盛大に血痕を残してくれたことだろう。そして、注意すべきなのは、これらの事件は氷山の一角であって、実際にはさらなる暴力事件があの階層で発生しただろうということだ」

「つまり、血痕が見つかったからといって、殺害現場が別の場所だとは確定できないってことか」

「あらゆる可能性を考えて動かなければいけないが、可能性は無限大だ。その点を考えると、貸金庫の線はまさに蜘蛛の糸に見える。もし犯人がまだ貸金庫に手をつけていなければ、張り込んでしょっぴくことも可能だ。持ち物のなかで他に質問はあるか?」

「手帳はどうだ?」

「手帳は持ち物の中でも燃焼が一番ひどくて、ほとんど読めない。いくつかの商談に関する覚え書きが数ヶ所、それと『赤坂十五階 男爵』という記述が一ヶ月半前から三箇所。それ以上のことは分からん。

 有川は考えた。赤坂街塔区の第十五階層といえば、白系露人の街だ。男爵があだ名だけか、それともかつての帝政ロシアで本物の男爵だったのかは分からない。

 有川には白系露人の町に詳しい知り合いがいた。救世軍婦人会や鮫ヶ淵をあたってから、そっちを調べてみるのもいいかもしれないな。

 ポルフィリーエフ! そう書きなぐって、有川はパチンと手帳を閉じた。

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