第8話 昭和二十年八月十七日金曜日 甲

 水道橋街塔区のアパートを出て、中央本線に乗って市ヶ谷で降りて、第八階層の事務所があるビルへ。八階ワルツ丸商店街の店はどの店もまだ店を開けておらず、八来軒もまだ閉まっていた。時計を見ると午前八時五十七分。昨夜別れるとき、篠宮には明日午前八時に来いといっておいた。これでたぶん午前九時に篠宮がやってくるだろう。

 事務所に入ると、受付部屋(叔父のころは受付をやる事務員がいたが、今は引退してしまった)を通り抜け、所長室と黒く記されたガラスドアを開けた(所長室とあるが篠宮の机もここにある)。チョコレート色のソフト帽と上着を帽子掛けにひっかけて、ピストルとホルスターをむき出しにした状態で卓上扇風機をつけた。壁の温度計によれば気温は二十七度だったが、ひどく暑かった。有川は隣の部屋につながるドアを見た。まだ整理が終わっていない。そこには資料室という名の大混沌が存在していた。そんなものに一人で刃向かうのは馬鹿げている。書類の整理は篠宮が来てからやればいい。有川はそう思い、まわる扇風機の羽にアーと声をぶつけた。

 そのうちダットサンが走ってくる音が聞こえてきた。篠宮の青いクーペが車庫の前で止まった。普通ならここで篠宮は車庫を開けて、ダットサンを後進させて入庫するのだが、篠宮はダットサンをそのままにしてガレージの横の扉を開け、階段を上ってきた。

 篠宮は受付部屋を通り抜け、所長室に突っ込んできた。

「大変なことになった。警察記事の欄を読んでくれ」

 そういって東京日日新聞を有川の目の前に突き出した。

「警察記事?」有川は手にとると、ろくに読みもせずに記事の末尾に目をやった。そこには幼馴染の政治記者、田島の名があった。

「田島ぁ?」有川は素っ頓狂な声を上げた。「あいつ、サツ回りに戻ったのかよ!」

「大変なのはそこじゃない。文章を読んでくれってば」

「文章?」

《鮫ヶ淵で発見の他殺体、身元判明》

《今月十五日午後七時ごろ、鮫ヶ淵街塔区第七階層菅野町二丁目で起きた放火事件で見つかった他殺体の身元が、十六日、東京府監察医務院の司法解剖の結果、判明した。被害者は貿易会社経営の実業家神宮寺弘氏(五十二歳)、死因は刃渡り十五センチほどの刃物によって背中から心臓に達する傷を負わされたことが原因と判明している。これに対して、警視庁捜査一課は捜査本部を四谷街塔区第十五層浜島署に設置し、陣頭指揮する宮部警部以下捜査員は万全の体制で捜査に臨むこととなった》

 くそっ。

 こっちが馬鹿面下げて事務所に戻り、その次の日も馬鹿面下げてダンスホールで待っていたあいだに神宮寺弘はもうこの世の人ではなくなっていた。鮫ヶ淵で火事があったなんてことも知らなかったし、社長が二日連続で所在がつかめないと会社側からの話があったのに、こっちはただ馬鹿面を晒していた。

「一課か」有川は新聞を強く握った。「まだ、挽回はできる」

「照山さんに頼むの?」

「このまま何もしないんじゃマヌケが過ぎる。どうせ今は仕事もない。別の仕事が入るまではこの件に関係していようと思う。お前はどうする? これは俺の考えで強制はしない」

「もちろん汚名返上だよ」

「よし、行こう。捜査本部は四谷だ」


 四谷街塔区第十五層浜島署は外周道路沿いに大きく面を取った建物でその道路縁は船体を青く塗った警察用巡航飛行船が三機停まっていた。ダットサン・クーペが警察署の来客用駐車場に入ると、有川と篠宮は署の入口から受付で一課の照山刑事と話したいと言った。

「どちらさまで」受付を担当した署員はうさんくさそうに訊ねた。

「有川と篠宮が来たと伝えてくれれば通じるはずだ」

 署員は内線電話をかけ、すぐに答えが返ってきた。

「三階の捜査本部まで行ってください。入口で照山刑事が待ってます」

 浜島署は大騒ぎだった。靴底がすり減るまで歩き回り聞き込みに徹する私服刑事たちは既に壁に貼り出した鮫ヶ淵の地図(決して正確ではない)や四谷、赤坂に到るまでピンを打ち、受け持ちを決めていた。内務の制服警官も和文タイプライターとタイプ用のロール紙を大量に用意し、大捜査に付き纏う膨大な書類仕事を消化するために万全を尽くしていた。

 一課の捜査本部のある三階の大部屋前には『鮫ヶ淵第七階層実業家放火殺人事件特別捜査本部』と楷書で書かれた半紙が貼り付けられていた。そして、その横で照山刑事が立って、二人を待っていた。

「よお」有川がポケットから手を出して挨拶した。

「おう」照山も同じように挨拶した。照山は柔道五段、剣道六段でがっしりとした体つきの男だが、妙に愛嬌のある顔をしている男で、有川のかなり古い知り合いだった。

「こんにちは、照山さん」篠宮が挨拶した。

「よお、篠宮。久しぶりだな。二人そろって来るってことは今度の事件、因縁ありか?」

 有川は十三日に篠宮が被害者と顔を合わせたこと、身辺警護の依頼を受けるべく十五日に待ち合わせ場所に行ったが遅刻して被害者と会えなかったことを説明した。

 照山は手帳にそれらを書き込みながら、ちょっと眉をあげて、

「で、お前、今度のヤマに興味があるのか?」

「今のところヒマでね」有川は答えた。「それに聞いた話じゃ被害者は十五日の午後遅くに死んだっていうじゃないか。本当なら俺たちは被害者と会って、被害者の身辺警護にあたるはずだったんだが、俺も篠宮も遅刻してな。それで被害者はボディガードなしで殺害現場に向かっていったことになる。それじゃ寝覚めが悪いから、仕事がないあいだはこっちも何かしら調べてみるつもりでいるんだよ」

 分かった、とうなずいた後、自分の知っていることを話した。

「ホトケさんの身元が確認できたのは昨日もだいぶ遅くなってからだ。その少し前に失踪届が被害者の姪と被害者の交際相手から出されている。十五日に何の連絡もなく帰ってこず、会社にもいないので何か事故に巻き込まれたんじゃないかと心配になって失踪届を出したそうだ」

「そのときにはもう神宮寺は殺されていた」

「そういうことになる」照山は言った。「これから府の監察医務院に行くつもりだ。ホトケさんはそこにいる。監察医は佐川博士だ。一緒に行こう」

「俺たちもついていって大丈夫か?」

「宮部警部のことなら大丈夫だ。心配ない」照山は言った。「ちょっと残ってる仕事を片付けたら、すぐに行くから先に飛行船乗り場で待っていてくれ」

 そう言って、捜査本部の大部屋へ戻ろうとしたとき、

「あ、そうだ」

 と、照山は動きを止めて、振り返って訊ねた。

 「田島のこと、聞いたか?」

「新聞で読んだ」有川が答えた。「政治部にいりゃ出世できたのにな。政界にコネができるし、そうなりゃ、いずれは自分が議員さまだ」

「立身出世を棒にふってでもサツ回りでいたいらしい」照山は肩をすくめた。「もう政治家の提灯持ちをやるのも、ありもしないアメリカの戦いをでっち上げるのにもウンザリなんだとさ」

「でも、それなりに役得があったはずだ。サツ回りと言ったら、歩き回るだけで益のない新米に押しつける一番きつい仕事じゃないか」

 有川はため息をついた。田島がサツ回りに戻りたがったのは《事件》の二文字に魅了されているせいだった。そのことについて有川は自分にも責任があるような気がした。

「みんな少年探偵団のせいだ」有川はぼやいた。

「いい思い出だ。名探偵有川順ノ助と少年探偵団。団員バッジもまだ持ってるぜ」照山はそう言って、財布から有川の『A』の字のピンバッジを取り出した。

 有川はやめてくれといった様子で両手を振った。「言っとくがな、叔父さんはその一つ十厘もしないチンケなバッジで俺たちを体のいい使いっ走りにしてたんだぜ」

「それでも楽しかった。それは間違いない」

 照山はそう言い切って、大部屋に消えた。仕方ない。そう思って、有川と篠宮は階段を降りて、入口の扉を開けて、道路を渡った。警察用巡航飛行船二号の乗り場に小柄な男がせわしなく煙草をスパスパやっているのが見えた。

「よお、田島」有川は手を振った。

「こんにちは、田島さん」篠宮が帽子をとって、ぺこりと頭を下げた。

「篠宮も一緒か?」田島は吸っていた煙草を落とし、足で踏み消した。「いい感じに人数が揃ってきたな」

「お前も一緒に行くつもりか?」

「サツ回りはサツにひっついてなんぼの世界だぜ」

 篠宮は有川より背が低かったが、田島はその篠宮より頭一つ低かった。だが、彼は小さい人間にはたくさんのエネルギーがつまっているという持説を掲げていた。かのナポレオンを見よ。彼はチビだったが、ヨーロッパ全土を敵にまわしてあそこまでやってのけた。そんなことを言いながら、いつもすばしこく動いている男だった。有川との付き合いはやはり古く、彼のポケットにも『A』の文字のピンバッジがあった。

 有川は説得するように言った。

「なあ、田島。今からでも遅くないから政治部に戻してもらえよ。そのほうが絶対にいいって」

「そうだな」田島はさも納得したように言った。「政治部の記者になって、やつらの望む記事をでっち上げて、尻尾をふって立憲政友会あたりから出馬して当選。そうしたら政治家として吸える甘い汁を体が破裂するまで吸い上げる。連夜お座敷で芸者を呼んでドンチャン派手に騒いで、飛行船の私航会社に新しい航路獲得の口利きをして袖の下をたっぷりもらい、手柄らしいことは何にもしてないのに金鵄勲章なんて胸に飾って見せびらかして、青山の最上階あたりに堂上華族もびっくりのお屋敷を造り、浅草のレビューガールを妾にして赤坂の二十三階か四階あたりに高級アパートを一部屋買ってやったりして――」ウム、とうなって田島は言った。「素敵な未来だ」

「だろう?」

「だが、赤坂だか青山だかの最上階のお屋敷でその日の朝刊を読む。そして、警察記事を読む。殺人、強盗、誘拐、放火。何でもいい。そいつが年老いた俺をぶちのめす。事件に、サツ回りにこそ俺の本当の生き方があったのだと絶望する。もう取り返しはつかない。結局、俺の血を沸かせるのは事件だけなのだと悟るのさ」

 田島は事件中毒者だった。その目に宿る光は嫁もいらん、家もいらん、地位や富もいらん。ただ一つの事件があればいいという狂信者の光だった。

 事件なんてものはろくなもんじゃないぜ、と有川は説得しようとするが、田島は全く聞き入れず、逆に、

「そうは言うがな、有川。お前だって今、この瞬間、事件に係わり合いになってるじゃないか。俺とお前は同じ立場なのさ」

「俺は職業として私立探偵をやってるんだ。もう脱け出そうとしても脱け出せない。でも、お前は記者なんだから政治部なり経済部なりにいける。お前はその選択肢を蹴ってるんだぜ」

「政治も経済もクソ食らえさ。そんなものはな、舐めろと言われりゃ、政治家の靴の裏まで舐めようとする売文屋どもがやればいい。俺はここで本物の仕事をする」

 有川が反論しようと口を開けたとき、照山がやってきてみなに言った。

「よおし、お嬢さん方。おしゃべりはそのへんにして出発しようや。遺体は文京街塔区の東京府監察医務院にある。それと篠宮は十三日に被害者と実際に顔を合わせてるんだよな? どのみち後で調書を取るが、まあ簡単な話を船の中で聞かせてくれ。段取りがつけやすくなるからな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る