第18話 昭和二十年八月二十一日月曜日 乙

「寺井の馬鹿が何人に電話したか知らんが、これから何人かやってきた際に事情を説明するため誰か一人が、まあ、朝まで残らなきゃいけない」と、有川は言った。「俺が残ろうと思う」

 それで、と言いながら、有川は篠宮と響子のほうを向いた。

「篠宮、響子さんを送り届けろ。大変大変申し訳ありませんでした、と平謝りしとけ」

「でも、ここに来たのは、私にも半分責任があります」と、響子が言った。「帰ろうと思えば、夜間の飛行船タクシーが使えたんですし」

「そう言ってもらえると――」篠宮が頬をぽりぽり掻きながら言った。「とても助かります」

 篠宮と響子を乗せたダットサン・クーペがパルパルパルと夜道を走り、少弐も円タクを拾って帰ることになった。

 だが、千鶴だけはすぐに帰ろうとしなかった。二人は寺井宅の縁側に座り、上階層のファンがまわる音を聞きながら、何をどうするということもなしに話をした。

「こうして、有川くんと話すのも久しぶりじゃない?」

「尋常小学校が終わるころ以来だな」

「うそ。私が帝宝のオーディションを受けた後に会ったじゃない」

「そうだったか?」

「そうよ。それからだいぶ時間が開いて――あ、でも、有川くんは田島くんや照山くんと結構会ってるんでしょ?」

「ん、まあな」

 有川は座卓から灰皿を持ってくると、チェリーをつけた。千鶴もランソンのライターを取り出して、チェリーをつけた。千鶴はふーっと紫煙を吹きながら言った。

「有川くんと田島くんと照山くん……なんだか羨ましいなあ」

「帝宝の大スターが何をおっしゃる。大体、はやく帰ったほうがいいんじゃないのか?」

「どうして?」

「カストリ雑誌にすっぱ抜かれるぞ。銀幕のスター赤松千鶴、深夜の密会!」

「寺井くん相手なら別にすっぱ抜かれても平気よ」

「なんだそりゃ――と思いつつも不思議に納得いくのが、寺井なんだよなあ」

「でしょ?」

 涼しい夜だった。物音らしい物音は階層天井のファンの音とときどき呻かれる寺井のトンチンカンな寝言だった。

「ねえ」千鶴が訊ねた。「今、有川くんって事件を追ってるの?」

「まあ、一応」

「昔みたいねえ」

「そんなうっとりした顔しなさんな。変な話だが、俺がこのこんがらがった事件に首を突っ込むと、照山や田島が妙に嬉しそうにはしゃいで至極協力的になるんだよ」

 千鶴は笑って言った。

「私も照山くんと田島くんの気持ちはよく分かるわ。ときどき夢に見ることがあるの。名探偵有川順ノ助と少年探偵団。ひょっとすると、あの時期が人生で一番楽しかったんじゃないかって。私たちはたくさんの冒険とともに生きることができたじゃない。それを考えると有川くんと一緒に事件を追ってる照山くんや田島くん、それに篠宮さんがうらやましいなって思うもの」

「妙な話だな。刑事になった照山、記者になった田島、作家になった寺井、女優になったお前。お前らはいまだに少年探偵団のことで夢を見るのに、肝心の探偵になった俺はすっかり冷めちまってるんだもんな」

「そんなこと言って、そのうち叔父さんみたいな名探偵になれるかもしれないわよ」

「名探偵ねえ」有川は苦笑いした。「俺は別に今のままでも構わないよ。食ってけるし、それなりに楽しいしな。そういうそっちはどうなんだ? 女優業は?」

「やりがいはあるけど大変よ。仕事の掛け持ちをして二つの作品でそれぞれ別の役をやったりすると、性格が真っ二つに分かれて、その辺に飛んでいっちゃいそうな気がするの。だから、ときどき一休みしてフラフラ飛びかけた私をもう一度結びつけるの。そんなとき、ふっとあのAのバッジのことを思い出してね。思うのよ。もし、私が女優じゃなくて女探偵だったら?」

「確かに私立探偵に女はいないな。でも、まあ、探偵はそう冒険じみた仕事はまわってこない。順ノ助叔父さんが異常なのであって、普通の探偵は浮気調査とか遺産相続がらみの身辺調査とか人の不幸をタネにして飯を食ってる。女探偵赤松千鶴が一ダースの家庭崩壊劇に付き合うよりは、銀幕の大スター赤松千鶴として活躍するほうが俺は好きだ」

「そんなこと言ってるけど、有川くん、私が出てる映画、見たことないでしょ?」

 有川は苦笑した。「いいにくいが、おおせの通りだ。お前の映画って好いた惚れたの映画が多いだろ。探偵やってるせいか、好いた惚れたってのが奇妙に思えてな。素直に映画を楽しめない性格になっちまったんだよ」

 ふーん、と言いながら、千鶴は灰皿にチェリーを押しつけた。

 千鶴は立ち上がったので、夜間の飛行船タクシー乗り場まで有川が送った。

「有川くん」千鶴はタクシーのドア枠に手をかけながら振り返って言った。「いつか私が、女探偵を演じる映画に出たら、見てくれる?」

「まあ、それなら見られるかな」

「じゃあ、約束ね」

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