彼シャツ


 影追いに捕えられ、私は大地に倒れ込んだ。

 龍は、私の身体にまとわりついた影追いを、引きはなすように払っていく。

 影追いの赤い双眸が憎々しげに輝いた。すると、闇の中から、突然、大波が押し寄せてくる。

 龍が、咆哮をあげ、その波を跳ね返した。ザーッと波が吹きあがり、飛び散った波がシャワーのように私に降りかかる。

 ねっとりとした塩水だった。海の水より、もっと濃度が濃い味がして、目が痛くてしみる。

 冷たくはなかったものの、体中にべっとりとした液体が流れていく。

――右手を伸ばして、復唱して。

 突然、頭の中に、鬼頭の声がした。

 私は訳がわからないまま、右手を龍に向ける。

――我は龍

「我は龍」

 ――いかになくとも妖魔はいぬ。龍の逆鱗、おそれざらめや

「いかになくとも妖魔はいぬ。龍の逆鱗、おそれざらめや」

 ガクンと、身体から力が抜けると、龍の銀鱗が辺りを焼くほどに発光した。


 ぐわあああああ


 あたりに絶叫が響く。影追いから湯気が噴き出し、急速に影が消えていった。

 やがて。

 龍が姿を失って、私の手の上に、切れた紐がぽとりと落ちると、辺りに静寂と暗闇が戻ってきた。

 あまりのことに、私は茫然と道路に座り込んだまま、その紐を見つめていると、眩しい車のヘッドライトが近づいてきて、静かに停車した。


「大丈夫? 怪我はない?」

 車から降りてきたのは、鬼頭だった。

 彼は、座り込んだ私を抱き起すように立たせてくれた。 

「はい」

 頷いてから、「どうして」と続けたくなったけれど、何から聞くべきか、迷う。

「……びしょ濡れだ。とりあえず、車に乗って」

 彼はそう言って、助手席の扉を開けてくれた。

「シートが濡れてしまいます。歩いて帰れますから」

「気にしなくていい。えっと。そんな恰好で歩いたらダメだから」

 そんな恰好? と思い、私はずぶ濡れの自分を見る。

 髪からは水が下たる状態で、濡れたブラウスは、ぴたりと肌に張り付いている。タイトスカートも太ももにピタリとくっついて、下着のラインが見えてしまいそうだ。

「す、すみません」

 私は思わず鞄で胸元を隠した。需要があるかどうかは別として、公道を歩くのに適しているとは言い難い服装である。

「いや……別に謝る理由はないケド」

 鬼頭は、そういって、慌てたように私から目をそらした。

 なんか、がっつり胸のラインを見られていたような気がしたけど、きっと気のせいだろう。

 彼が見ようとして水をかぶらせたわけじゃないし、助けてもらったのだから、そんなことでどうこう言うつもりもない。

 そもそも、妄想彼氏のセイには全裸をさらしている設定だったのだ。今さら、この程度のことで、恥じらうというのも、私の中ではおかしな感じではある。

 私は、バックの中からハンカチを取り出し、座席に敷き、その上に座った。

 シートベルトを締めると、鬼頭がちらりと私の方を見た。

「はい。大丈夫です」

 私が頷くと、「あ、ああ」と彼は頷いて、エンジンをスタートさせる。

 車がゆっくりと動き始めた。

「あれ?」

 なぜか、知らない道へと曲がり、私の家とは全然違う方角へと走り出す。

 鬼頭の顔が、少し険しく見えた。

「……あの、鬼頭さん?」

 私の問いに、鬼頭は「うん」と頷いて。

「なんか、ついてきているから、とりあえず俺の家に行く」

「え?」

 なんか、って、影追いだろうか。

 影追いは、さっき、龍に倒されたと思ったのに。

「この前の、電車の時は、そんな感じはなかったけれど、今回の影追いは、使役されていたみたいだ」

「使役?」

 影追いというのは、闇に普通に生息するもので、まれに使役される……という妄想はしていた気はする。

「心あたり、ない?」

 ハンドルを切りながら、鬼頭が問う。

「たぶん……あります」

 私はコクンと頷いた。そもそも、「いやな感じ」があったからこそ、電車でなくバスで帰ってきたのだ。

 駅で見かけた男性の話をすると、鬼頭は眉をしかめた。

「どうしてその時点で、電話をしなかった?」

「えっと。気のせいかな、と思ったから……」

 私は正直に話す。そもそも昨日まで、霊感なんて意識したこともなかったのだ。

 妄想のたくましさに自信があるだけに、妄想と霊感の区別なんてつくはずもない。

「まあ、今回は無事だったからいいとして。変な遠慮はかえって、迷惑だから」

 車は、マンションの立ち並ぶ住宅地へと入っていく。

 なんとなく、景色に見覚えがあるような錯覚を抱いた。

 毎週のように訪れたセイの部屋は、七階の5号室。入り口には、アジサイの垣根……。

 まさかね、と思っているうちに、車は駐車場に入った。

「降りて」

 言われるがままに、私は鬼頭についていく。

 エレベータホールに灯されたライトが、すぐそばのアジサイの垣根を照らす。

 鬼頭とともにエレベータに乗り込むと、私はつい、無意識に七階のボタンを押した。

 エレベータはそのまま、七階につき、私は鬼頭に言われる前に、右へと歩き出す。

「……俺の家、知っていたのか?」

 七○五と書かれたドアの前に立つと、鬼頭がそう言った。

「さっき、聞きませんでしたっけ?」

「言ってないと思う」

「そうでしたっけ?」

 私はついとぼける。もはや、妄想と予知の区別がつかない。

 どう考えても、毎週ここに通うという『妄想』が現実になるとは思えない。

 妄想の場合、確か部屋に来るのは『初キッス』のあとだ。一応、それなり順番は守って、進むストーリーになっていた。

 会って二回目で、お部屋デートなんて展開ではなかった。そもそも、キスはおろか、恋人になってすらいない。

「とりあえず、入って、シャワーを浴びてきて。ちょっと準備をしておくから」

 鬼頭はそう言って、先に玄関にはいって、白いタオルを私に投げてよこした。

 準備というのは、「ついてきて」いる奴をどうにかする、ということであろう。

「はい」

 頷いた私は、鬼頭に案内されるがままに、浴室に入る。

 その部屋の間取りも、浴室にある乾燥機つきの洗濯機の形も、よく知っているもので、何が何だかわからなくなってきた。

 思えば、妄想彼氏とお付き合い? を始めたころは、もっと内容が断片的だったかもしれない。何回か、妄想を重ねて、繰り返す間に、いろんなことが創作されて違うものになっていったような気もする。

 その証拠に、影追いは現れたけれど、満員電車ではなかったし、恋人関係でもないのに、私はこの家にいる。

 塩水でベッタリと張り付いた服を脱ぎ、私はシャワーを浴びた。

 まるで、白昼夢の中に入るような気分で、お湯を浴びて、タオルで体を拭きながら、ハッとする。

 私がシャワーを浴びている間に、私の服を鬼頭が洗濯機に入れてまわしてくれている。それはいい。

 しかし、これは妄想ではないから、当然、この家には私の着替えはない。

 浴室を見まわすと、鬼頭のものらしい、大きなTシャツ。

 えっと。これは、ひょっとして、恋人でもないのに、いわゆる『彼シャツ』デビューをしないといけないということだろうか。そういうプレイ? は、妄想ではなかった気がする。

 うん。現実は妄想より、エッチじゃないか。彼氏でもないのに、彼シャツなんて!

 いや、でも。よく考えたら、一人暮らし(たぶん)の男性の家に、女性の着替えはフツーないだろう。

 深く考えてはいけない。これは、緊急なことなのだ。

 私は、大きな白いTシャツを羽織った。細身に見えても、鬼頭の身長は高いため、サイズはダボダボ。着丈は太ももの半分まであった。大きな丸い襟首は、意外にふかくて、鎖骨の辺りまで露出するのがかなり恥ずかしい。

 しかも、下着をつけていないわけだから、相当、無防備である。

 とはいえ。

 非モテ女子の私がこんな恰好をしたところで、鬼頭のような二枚目と現実にどうこうなれるとは思えない。うん。意識しては、ダメだ。

 私は濡れ髪をタオルで拭きドライヤーで乾かしてから、浴室を出た。

「あの、お風呂ありがとうございました」

 そう言って、声をかけると、「ああ、こっちに来て」という声がした。

 リビングに入ると、部屋の電気は消されていて、いくつものろうそくが灯されていた。

 フローリングの床には、半紙が敷いてあり、円と意味の分からない紋様が描かれている。

 鬼頭は、白い狩衣をきている。その涼やかで端正な顔は、和装もとてもよく似合っていて、つい、ため息が出る。

「あの」

 私が声をかけると、鬼頭は、珍しいものでも見るかのように、私を凝視した。完全に固まっている。

 この格好で出てくるのは想定済みだっただろうが、思った以上に変だったのかもしれない。

「鬼頭さん?」

「……ヤバい。仕事を忘れそうだ」

ポツリと鬼頭はそう呟いてから、首を振った。

「えっと、その円の中に入って座って。今から、君を追っている奴に術を返して、相手を突き止めるから、いざとなったら、さっきの呪言を唱えて」

「我は龍ってやつですか?」

「そうだ」

素足の足裏に、半紙がくっつくような感覚に戸惑いながら、私は言われるがままに、描かれた円の中に入り、正座をする。

「はじめる」

 私のすぐ横の円の外側に鬼頭はすわり、パンと手を叩く。空気がピンとはりつめた。

 

 トウダンカンパク、リテンサンゲン、シンジンハチカ


 鬼頭の言葉が紡がれていくにしたがって、私の身体から小さな光の粒子がこぼれ始めた。

 粒子はうねるような龍となる。

 目の前の空間が、鏡面のようにきらめき、大きな護摩壇が映った。

 護摩壇の前にいたのは、駅で見た、あの男だ。

「行けっ!」

 鬼頭の言葉とともに、龍が男に突撃する。

 ジャリン!

 男を貫こうとした瞬間、男の手から錫杖がのびて、龍とぶつかり、辺りが真っ白になるほどの光を放った。

 何も見えない中で、肌が焼けるような痛みを覚える。力が、拮抗しているのだ。

 私は意識を集中した。

 

 我は龍。いかになくとも妖魔はいぬ。龍の逆鱗、おそれざらめや


 瞬間、身体の中の何かが弾けて――私の意識は遠くなった。

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