朝チュン コーヒー

 潮騒の音が聞こえる。

 私は、暗い岩窟の中で、両腕を縛られ、吊るされていた。

 潮風のにおいのする方角から、光が差し込んでいる。

 光の方角は、とても青い。どうやら、向こうは海なのだろう。

 吊るされている手が、痛い。そして、手から冷たい水が伝わって落ちてきて、全身が寒い。

 身体を伝う水は塩味がした。とても辛い。

 私は、旅館の浴衣のようなものを羽織っていて、びしょ濡れだ。

「大丈夫か」

 不意に頬にのばされた温かい手。目の前で心配そうに私を見つめる『セイ』。

 応えようとするけれど、のどが痛くて声が出ない。

「水、飲むか?」

 優しく彼はそう言って、水筒から水を含んで、私の唇に押し当てる。

 柔らかな彼の唇の感触。

 彼の温かい手が、冷え切った私の身体を温めるように這いはじめた。

 快楽に溺れていく私の耳に潮騒の音がどんどんと大きくなって、いつの間にか水底へと身体が落ちて……。




 落下する感覚で身体がビクンとすると、香しいコーヒーの香りがした。

 頭が、やや痛い。

 目を開けると、優しい朝の光がさしている。開け放たれた扉の向こうのダイニングで、鬼頭がいすに座っているのが見えた。

 いつものYシャツとスラックス姿だ。

 時計を見ると、針は、六時を指している。

 どうやら私は、一晩、彼のベッドを占領していたのかもしれない。

「起きた? コーヒー飲む?」

 身じろぎした私に気が付いた鬼頭が、優しくそう言った。

 その声が甘くて、妄想朝チュンコーヒーのシーンを彷彿させ、私はドキリとする。

「はい」

 妄想と同じように、鬼頭は、コーヒーをサイフォンでいれている。オーブントースターがチンと音を立て、焼けたパンの香りがした。

 私の服装は彼シャツ状態のままだ。かかっていた布団をめくると、むき出しの素足があって、急に恥ずかしくなった。

 白昼夢かと思う光景ではあるけれど、これは、妄想朝チュンコーヒーとは違う。

 ベッドサイドには、すでに洗濯して乾燥をすませた、私の服がたたまれていた。

 女子力の低い、安いバーゲンで買ったブラジャーとパンティもていねいに置かれていて泣ける。せめて、セット商品ならよかったのに、と場違いな反省をする私。いろんな意味で恥ずかしい。

 私は、鬼頭の視界が通らない場所に移動して、服を着替えた。

「お砂糖、いる?」

「いえ、ミルクだけ下さい」

 着替え終わると、ダイニングテーブルには、焼きたてのパンとちょっと焦げたハムエッグが用意されていた。

「料理苦手だから、これで我慢して」

「いえ。充分です。ありがとうございます」

 そういえば、妄想彼氏の『セイ』くんは全く料理をしない人だった。でも、台所には、調味料と調理道具がおかれているのを見ると、鬼頭は料理をする方なのかもしれない――いや、誰か作りに来ている人がいるのかも、と思うとちょっと胸がちくんと痛んだ。

「あの……結局、何が、どうなったのですか?」

「とりあえず、奴の霊波は君の力も借りて断ち切れた。しばらく奴が君を霊的に見つけることはできないだろうが……思ったより強敵そうだ」

 鬼頭は険しい顔でそう言って、私の隣に座る。私と彼の椅子の距離が、微妙に近い気がするのは、テーブルの大きさの問題なのかもしれない。

「あいつに会ったことは?」

「昨日が初めてだったと思います」

「夢で見たとかはなかった?」

「たぶん、ないです」

 私の妄想? は、すべて『セイ』を中心に回っている。それ以外の男性は登場したことがない。

 予知夢なのかもしれないが、願望が入り混じっている気がする。とにかく、妄想彼氏の『セイ』は、私を溺愛して求めてきた気がするけど、鬼頭は、別に私を求めていないのだから。

「どうやら敵は、渦潮使いらしい。君が塩水かぶったことからも間違いないとわかるのだが」

「渦潮使い?」

「霊的な力が、海に関連している能力者だよ」

 鬼頭はふうっとため息をついた。

「日本は海洋国家だから、渦潮使いも山ほどいる。それだけで特定は難しい」

 なんでも、防魔調査室という政府機関で把握している能力者だけでもかなりの数がいて、さらに、いわゆる「もぐり」と呼ばれる能力者も相当数いることが予想されるらしい。

「そういえば私、さっき、海の夢を見ました」

「どんな?」

 鋭い目で問われ、私はドキリとした。思わず視線をさげたら、鬼頭の唇が目に入る。柔らかな感触がよみがえり、身体がかっと熱くなった。

「海の見える岩窟で、吊り下げられている夢です」

「吊り下げられて?」

 どうやってどこに吊り下げられていたのかは、覚えていない。ただ、手首が痛かった。

「手首を縛られていました。えっと、塩味の水が天井から滴っていたので、海蝕の洞窟かもですね」

「それで?」

 鬼頭は真剣そのものだ。

「えっと、鬼頭さんが来てくれて……気が付いたら、水底に沈みそうになって、目が覚めました」

 途中経過をぶっとばして、私は説明した。どう考えても、鬼頭とのからみは私の願望だし、そのことを話して、彼にひかれたら困る。

 自分が私みたいな女の『妄想彼氏』にされていたと知ったら、きっと気持ち悪いだろう。

「ふむ……それ、俺が君を助けられないって予知だったら、まずいな」

 鬼頭の顔が険しい。私の話をすべて予知だと信じているようだ。

「それはないと思います。鬼頭さんは、その、前後の話とは、ひょっとしたら関係ないかも?」

「なぜ?」

「えっと。なんか唐突でつながりがなかったので」

 私は、慌ててそう言った。

 さすがに、鬼頭が出てきたところだけ、ただのエロ妄想にしか思えないからとはいえない。

「ひょっとして、何か隠してない?」

 鬼頭は私の頬に手を当て、顔を寄せて、凝視する。

「な、ないです」

 私は思わず、身体をのけぞらせた。心臓が跳ね上がるほど激しく動く。

 鬼頭との距離が近い。猛烈に近い。息がかかりそうな距離だ。

 妄想じゃないのに、なんでこんなに近いのか。美形は、何しても許されるからと言って、会って二回目の人間との距離じゃない気がする……勘違いするから、やめてほしい。

「本当にないなら、いいが」

 そういって、鬼頭は離れてくれた。心臓が、バクバクしている。

 非モテ系女子、彼氏いない歴イコール年齢の私には、刺激が強すぎだ。

「とりあえず、しばらくF駅は使用しないほうがいいな」

「また、狙われるとは限らないですよね?」

「十中八九、狙われる」

 何故か確信を持って、鬼頭はそう断言した。

「誰でもいいなら、影追いが倒された時点で、追跡はやめるハズだ。少なからず、君は執着されている」

「えっと。なぜでしょう?」

「君の夢が予知だとしたら、君は『贄』として狙われている可能性が高い」

「贄? でも、それって、美少女が定番じゃないのですか?」

 自慢じゃないが、それほど若くもないし美女でもないと、自分で思う。

「君の霊力は、かなり高く、しかも他人の霊力と親和性が高い――俺の龍を一発で使いこなせたことから、それは実証されている」

 鬼頭は私の腕に再びミサンガを結び付けた。同じものなのに、なんだか前より、少しだけ輝いているように見える。そういうと、私の霊力が馴染んだのだと、彼は説明した。

「でも、私、龍を使いこなしてなんかいないとおもいますが」

 私は首を傾げる。言われるがままに呪言を唱えただけだ。

「他人の使役するものに霊力を合わせるというのは、本来、訓練がいることだ――君には、天賦の才がある。まあ、俺の霊力と相性がいい、というのもあるが」

 意味がよくわからないが、生まれて初めて、天賦の才なんて言われた。ここは喜ぶところだろうか?

「……親和性が高いということは、力あるものの『いれモノ』として適性がある」

「イタコみたいのものですか?」

「……まあね。要するに巫女の才能が高いってことさ」

 鬼頭はそう結論付けた。

 巫女さんといえば、美女の代名詞だと思っていたが、現実には違うらしい。

「とりあえず今日は、俺が車で会社まで送ろう。しばらくはF駅に近寄るな。出来るだけ早いうちに調査を進めるようにはするから」

「……お願いします」

 会社、F駅近郊だけど、と、ちょっと思いながら……私は、作ってもらった朝ごはんを食べる。

 ここ数日、何もかもが、非現実的なことばかりだ。こんな時でも会社へ出社するつもりの私は、案外図太いのか、鈍いのか。

 鬼頭の作ってくれたハムエッグは、少し苦くて、そこだけちょっと現実味を帯びていた。


 

 あれ程までに非現実的なことが立て続けにおこったというのに、いつもどおりに私は伝票と格闘する。

 社食で、同僚の恋バナを聞き、砂糖を吐くような胸やけを起こしながら、仕事をこなす。文句なしの日常生活。腕のミサンガ以外は、すべて今まで通りだ。

 とはいえ。勤務時間が終わると、私はどうやって帰ろうか思案した。

 最寄り駅のF駅を使わないで、家に帰るという方法は、それほどない。

 タクシーで帰るか、昨日のバスに、駅以外の停留所から乗るか、それとも、歩いて帰るかだ。

 昨日の今日だ。

 幸い、明日は土曜日。二日間、休みだ。二日あれば、鬼頭が何とかしてくれるかもしれないし、今日のところはタクシーで、リッチに帰ろう。

 そう思って、私は会社を出た。

 タクシー会社に電話することも考えたけれど、会社の前の道路は、それなりに流しのタクシーがいる。

 私は、通りに立って、タクシーを拾うことにした。

 ところが、簡単に拾えそうで、なかなか空車が通らない。

 ちょっと、焦る気持ちで目の前を通っていく車を眺めていると、不意に背筋がゾクリとした。

「やあ」

 親しげな声に振り返ると、駅で見たあの男がにこやかに微笑んでいた。

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