第4話

 翌朝、約束通りに入り江へとやってきた少年は、彼女の言葉に耳を疑った。

「だから、早くいらっしゃいよ。でないと泳げるようになれないでしょ?」

「そ、そんなこと言ったって……」

 彼女は昨日と同じ岩場に立った少年に対し、そこから海へ飛び込めと言ったのだった。昨日の事故でここの海が深いことぐらいは解っている。泳ぎの練習をするのだから海に入ることくらいは解るが、泳げもしないのにいきなり立てない深さのところに入れと言われて、ためらわずにいられようか。

 いつまで経っても海に入れそうもない少年に手を差し伸べて、

「大丈夫よ。ちゃんと受け止めてあげるから」

 微笑んだ。その笑顔に引き寄せられるように少年は彼女の手を取り、ふらりと足を踏み出し──。

 思い切り、腕を引っ張られた。

 バシャアアアッ!!

 派手に飛沫をあげて少年は顔面から海に突っ込んだ。あの冷たく暗い海の底へと沈んでいくのかと、少年は必死にもがこうとした。

(手が──)

 片腕が動かなかった。目も開けられないままで動かない腕を振り回そうとして、ようやく思い当たる。そうだ。彼女と繋いだ手はそのままだ。冷たい水の中で、彼女の手の温もりだけが少年に希望を与えた。彼女の姿を確認しようとして目を開けたが、海水がしみてほんの少ししか開けていられなかった。それでも薄暗い海の中でも彼女の髪が美しい太陽の色をしていたことと、手を繋いだままで彼女が人差し指を立てて唇にあて、「しーっ」という仕草をしていたのだけは解った。

 希望の温もりは、違わず少年の手の中にある。

 少年はもがくのをやめ、手の温もりにすべての意識を集中させた。

 受け止めると言ったはずの彼女は、決して沈み行く少年を引き上げようとはせず、ただ手を繋いだままで寄り添っていた。そして彼女を信じる少年は、その身をすべて委ねている。

 どれだけの時間が経っただろう。そろそろ息が持たないかもしれない、と少年が思った頃、ふと沈んでいた身体が水面へと向かって浮き始めた。彼女が手を引いてくれたのかと思ったが、繋いだ手に力がこもった様子はない。自然に、ふわふわと漂うように浮かび上がっている。身体が軽くなって宙に舞い上がるかのような感覚に身を委ねていたが、少年の息はそろそろ限界だった。

 しーっという仕草をした彼女の姿を思い出して、少年は繋いだ手に力を込めて苦しみに耐えた。すると、強い力で腕を引っ張られた。一気に海面へと踊り出た少年は、大きく胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。

「ぶはっ」

「やればできるじゃない!」

 彼女の肩に捕まってぜいぜいと息をする少年の頭をくしゃくしゃと撫で、息も整わない内に強く抱きしめた。おかげで胸を圧迫された少年は、苦しさから咳き込みながらも反論する。

「やればできるって、むりやり引きずり込んだんじゃないかっ」

「だってそうでもしなきゃ日が暮れそうだったんだもの」

「僕、顔を水に浸けるのだけでも怖いのに、ひどいよ」

「でも、もう大丈夫でしょ?」

 ようやく呼吸が整った少年は、顔をあげて彼女を見た。すぐ近くに青い瞳がある。

「ほっといても身体が浮くって解ったでしょ? へんな海流に飲まれない限りは浮くって決まってるんだから、暴れたりしなくていいの。そうすると浮こうとしてる身体を逆に沈めることになっちゃうから。あとは水を蹴ってやれば前に進むわ」

「そんな…うまくいくのかな」

「大丈夫よ。このちっちゃい身体が浮くっていうのは、今証明されたんだから」

 彼女の眩しい笑顔に頬が熱くなるのを感じて、少年はうつむきかけたが、はっとして顔を上げた。

「ちっちゃいって言うなっ」

「子供なんだからちっちゃくっていいのー。これから大きくなればいいのよ」

 ふてくされる少年を、彼女は明るく笑い飛ばす。

「ほら、今日はとりあえず水に慣れること、身体は浮くんだってことを覚えましょうね」

 そう言って身体を離そうとすると、まだ怖いのか少年がしがみついてきた。まるで赤ちゃんみたいだと思いながら少年を両手で抱きかかえて、彼女はふとそれに気付いた。

「ねえ、それ邪魔なんじゃない?」

「それって?」

「だから、これ」

 少年が着ていた薄いシャツを指でつまんだ。

 この小さな島では、子供は泳ぐときも服を着たままだ。少年ももっと幼い頃は服を着ずに水遊びをしたものだったが、六歳にもなれば薄い服を一枚着る。幼いながらも子供たちが性差を意識するようになるからだろう。

「でも、みんなだって服着て泳いでるし……」

「服っていうの? でもこれ水を吸うじゃない。その分動き辛いし重くなるから、ちゃんと泳げるようになるまではない方がいいと思うけど……」

「ええ? でも、はだかになるの?」

「んーと、それを言うなら私もそうだし、魚だってみんなそうなんじゃない?」

 確かに彼女は服を着ていなかった。腰から下は鱗なのだから考えようによっては服、というか鎧を着ているのだが、上半身は人間と同じ肌を晒している。海の中には衣類という概念がないから、彼女は素肌を晒すことに何ら抵抗はない。むしろそれが自然だった。少年のように、服を着て海に入ること自体が不思議なのだ。

「その格好で泳ぐのが人間風ならそれでもいいけど、今は一緒に魚になって泳ぎましょうよ。多分それがない方がもっと楽に身体が浮くと思うし」

「一緒に?」

「ええ」

「魚になるの?」

「そうよ。海の中がどれだけきれいか、見せてあげる」

 再び目が合った。海を切り取ったような青い彼女の瞳が、きらきらと輝いている。少年にとっては薄暗く冷たいという印象しかない海だが、彼女にとってはきれいだと言う。それは彼女の瞳よりもきれいなのだろうか。

「服、脱いでくる。ちょっとあがるね」

 彼女に押し上げてもらって、少年は岩場に上がった。そうして海水をたっぷり吸って肌にまとわりついてくる服をすべて脱ぎ捨てた。波のかからないところに置いておけば、帰りまでには乾くだろう。

 少年は興味があった。彼女が見る海の世界──それは少年にも見ることができるのだろうか。今は恐怖しか感じない海を、いつか美しいと感じる日が来るのだろうか。

 岩場の縁に立つと、少年は彼女に手を振った。

「今度はちゃんと受け止めてよね!」

 そうして、青い海へとその身を投げ出した。


「うあ……つかれた」

 岩場に横になった少年を、赤い夕陽が包み込んでいた。彼女はそこよりも少し低い岩場の潮溜まりに腰掛けて、ぐったりした少年の頭を撫でている。

「がんばったじゃない」

 彼女の声に、少年が力なく笑った。

 とりあえず身体を浮かせることはできるようになった。泳げはしないが仰向けになって海に浮かんで、クラゲのように漂うこともできるようになった。だがそれまでに飲んだ海水はどれほどになるだろう。

「僕、泳げるようになるかな……?」

「当たり前じゃない」

 穏やかな笑顔。嘲りなど微塵も含まないその表情に、少年は安堵したように笑った。

「明日も来ていい?」

「泳げるようになるまで、ちゃんと教えてあげるから。いつでも来て?待ってるから」 

 夕陽を照らし返す彼女の髪が、きらきらと輝いている。寝転がったままの少年は、目を細めてその姿を見つめていた。

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