第5話

「だからー、足は揃えるの! ちゃんと揃えてこう動かして、水を蹴るのよ!」

「違うってば! そんなんじゃ泳げないよ! 足は広げるもんだよ!」

 彼女が泳ぎを教えてくれると言ったときに、少年は期待した。何せ相手は海に棲んでいて、生まれたときからすでに泳いでいるのである。この島の誰よりも優れた泳ぎの名手だろうと思ったのだが、このときお互いにとんでもない思い違いをしていたことに気付かなかった。

 確かに彼女は泳ぎの名手だった。けれど、それは海の世界での話であって、陸の世界の話とはまた訳が違うのだ。

 決定的な違い──それはふたりの下半身の違いにあった。

 少年のまだ未発達な二本の足と、彼女の見事な鱗に覆われた尾ひれ。

 少年が普段見ている泳ぎとは、両手足を広げて水を掻くものだった。だが彼女にとって泳ぎとは、その尾ひれで強く水を蹴ることだ。基本的に泳ぐのに両手は使わない。何もかも、泳ぎの形式が根本から違っていた。

 波間に揺れながらさんざんお互いの主張を繰り返し続けたふたりは、どちらからともなく沈黙した。静かな波の音の中でにらみ合っていたが、やがて彼女の方が小さくため息をついた。

「これじゃキリがないわ」

 少年は彼女の腕に掴まったままでうつむいた。泳げるようになりたいのはもちろんだが、彼女とこんな言い争いをしたい訳ではないというのに。

「でも、その足を広げて泳ぐっていうの、やってみてできなかったから泳げないんでしょう? だったら、もしかしたら泳ぎ方が合わないのかもよ。一度私の言うようにやってみない?」

 もっと幼い頃に、両親に泳ぎは習っている。足を広げて水を蹴って、手は水をかき分けるようにして、一気に押し下げるのだと。けれど顔を水につけることさえできず、顔をあげたまま母の腕に掴まって足の形の練習をしたのだが、結局は形にならなかった。

「んー……」

 どの道、あの泳ぎ方は少年に向いていないかもしれない。だったら見た目がおかしかったとしても、彼女の言うとおりにやってみた方がいいのではないだろうか。形がどうあれ、泳げるようにさえなれば、船で漁に出ることもできる。

「僕、そんなきれいな尾ひれ持ってないけど、その泳ぎ方でできるかな」

 彼女の言う泳ぎ方はどう考えても魚のそれだ。一緒に魚になって泳ごうと約束したところで、実際に身体の構造は違うのだから、可能かどうかはわからない。

 それでも彼女は疑うことなく、満面の笑顔で頷くのだ。

「どうせなら、誰にも真似できないような泳ぎを探しましょうよ。泳ぎがヘンだなんて言われる前に、あっと驚かせてやるのよ」

 少年がこのまま一生泳げないかもなどとは微塵も思わず、彼女は笑った。どこまでも真っ直ぐで眩しい笑顔を見ていると、不思議と本当にやれるのではないかという気持ちになる。少年は力強く頷いた。

「うん、やってやろう! もう絶対に笑わせない!」

「そうよ、その意気!」

 照らしつける太陽の下で、ふたりは少年に合った泳ぎを模索し始めた。


 岩場で身体を休めながら、少年は彼方の水平線を見つめた。

「僕、海の色って嫌いだった」

 少年の方へと目をやった彼女の方を振り返りはせずに、水平線を見つめたまま少年は続ける。

「夕陽が沈むときのきらきら光る海は好き。でも普段の青い海は、なんか飲み込まれそうでイヤだ。怖いよ。だからいつまで経っても泳げないのかもしれない。

 それに、僕泳げないでしょう? だからみんなが海で遊んでるのを、砂浜から眺めてなきゃいけなかったから、なんか海を見てるとすごくひとりぼっちな気がしてイヤなんだ。海が入って来るなって言ってるみたいでさ。

 でも父さんはもちろん仕事だけど、船で海に出ちゃうから。いつでもその日の内に帰ってくるわけじゃないし、海が荒れてるときとか、すごく母さんが心配するんだ。いつか海が父さんを連れてっちゃうんじゃないかって。

 だから海は嫌いなんだ」

 手に重なった温もりに、少年が初めて振り返った。そこには岩場に腰掛けている彼女がいる。

「そんな悲しいことを言わないで」

 初めて見る彼女の曇った表情に、少年はギクリとした。泣き出すのではないか、もし泣き出したら何を言って笑わせればいいんだろうとうろたえていたが、彼女は少年の手をぎゅっと掴んで、

「海、今も嫌い?」

 潤んだ瞳でじっと見つめた。海を切り取ったような青い瞳が溢れそうな涙で揺れている。

「あの…」

 こういうとき、何を言えばいいのだろう。少年と年の近い女の子はみんな気が強くて、こんな状況に陥ったことがなかった。心の中でわたわたと慌てながら、沈黙に耐えかねた少年はとりあえず思ったことを片っ端から口にした。

「あ、あのね! ほらその目! 海と同じ色だなって思ったんだ。海なんていつも見ててもういいよって思ったりするんだけど、その目を見てすごくきれいだなって! で、そのきれいな目が海と同じ色なんだなって思ったら、海もすごくきれいなんだなって思えてさ。

 でね、最初にその金髪を見たときに、夕陽が沈むときの金色の海みたいだなって。今はまだ泳げないけど、こうやって僕のこと笑わない友達ができたし、ちょっと怖いけど海のこと好きになったよ!」

 その場しのぎではあったが、すべて本当のことだった。自分の知らない、彼女が見る美しい海の世界を見てみたいとも思う。恐怖心は拭えないが、嫌悪感はもう抱いてはいない。

 それでも彼女は黙り込んだままで、少年はどうしようかとパニック寸前だったのだが、手を繋いだままでうつむいて彼女は語り始めた。

「私もね。海、好きじゃなかった」

「え?」

「海で生まれて、海で育ったんだけどね。ひとりぼっちだったから。私みたいに人間と魚の中間みたいなのは他にいなくて。海って外から波を見てるだけだときれいでしょう?でも深く潜ると暗くて冷たくて──そんな海の底から見た海面はすごくきれいだったの。顔を出したら太陽があって、空があって、雲があって──明るくて、眩しいじゃない。鳥みたいに羽があったら、ここから飛び出して空を自由に飛び回るのにってずっと思ってたわ」

 空を見上げれば、カモメが優雅に飛んでいる。海の中であれほど自由に泳ぎまわる彼女なのに、空に飛び出したいと思うことがあるのか。

「ひとりぼっち、なの?」

 少年の声に、彼女が頷く。

「そう。ひとり」

「お母さんは?」

「さあ……」

「ちっちゃいときからひとりなの?」

「そうね。昔はそれが寂しくて、人間のところに顔を出したこともあったの。でも、そうしたら『化け物!』って言われて酷い目に遭わされるか、捕まえられそうになったから、もうやめたの。ここに来たら私と同じような姿の像が飾ってあるじゃない? だからきっと酷いことをしたりしないんだろうなって思って、それからずっとこの辺にいるんだけど……。

 もうどれだけ前のことか忘れちゃったけどね。海の中で泣いてたの。ひとりぼっちで寂しいって。どうして私だけがひとりなのって。そうしたらね、何が起きたと思う?」

 少年は黙って続きを待つ。

「サンゴの産卵だったの。寂しかったから、少しでも明るそうなところへ行こうとしてたのね。サンゴの近くで泣いてたら、突然ぶわーって! すごい数の卵が私の周りを踊るように漂ってたのよ! それからそれまで普通に泳いでた魚たちが、一斉に私の周りを回りだしたの。ぐるぐるぐるぐる。びっくりしちゃった。

 それ見ながら呆気に取られてたら、そんなはずないんだけど、海が……こう、何て言えばいいんだろう。ぎゅって抱きしめてくれたみたいに感じたの。サンゴや魚たち、海がみんなして私を励ましてくれたみたいに思えて──それからよ。海が好きになったのは」

 顔を上げて、彼女がいつもの眩しい笑顔を見せた。一瞬どきっとした少年に気付いたのか否か、彼女は構わず続ける。

「今、友達って言ってくれたでしょう?」

 こうやって僕のこと笑わない友達ができたし、と確かに言った。友達というよりは先生という方が正しいのかもしれないが、少年の口からはとっさに友達という言葉が出たのだ。

「ずっとひとりだったから、すごく嬉しかった」

 少年が海を見つめて感じた寂しさの、何倍の孤独を彼女は味わってきたのだろう。少年は繋いだままだった手を離し、まだ彼女を包むには足りない両手で抱きしめた。

「いつでもぎゅってしてあげる。僕たち、ずっと友達だよ」

 抱きしめられるには少し頼りない両手が、彼女を孤独から守ろうと包み込んでいた。明確な意思は伝わらないが、彼女を思ってくれる海の仲間たち。言葉で意思の伝達はできるのに、彼女をいつも傷つけようとする人間たち。そのいずれかしかなかった彼女に、今初めて心と言葉で優しさをくれる存在ができたのだった。

「……っ、うん、ありがとう……」

 少年を抱きしめて、彼女は大粒の涙をこぼした。こんなことを語ったのは生まれて初めてだった。そして誰かの腕に抱きしめられることも、初めてだった。その温もりが、こんなに心やすらぐものだとは、知らなかった。

 すすり泣く彼女に気付き、少年は慌てて身体を離した。何事かと驚く彼女に、

「あ、えっと、泣かないでっ! ええと、何言ったら笑ってくれる? あのね、こないだ母さんがね…」

 あまりに唐突なことに、彼女は呆気に取られてしまった。

「大丈夫よ? 悲しくて泣いてるんじゃないの。嬉しいのよ」

「でも、人魚を泣かせると雨が降るって…」

 何を言われたのか解らなかった。

「…え? 何? なんで??」

「だって、みんなそう言うよ? 雨が続くのは人魚が悲しくて泣いてるからだから、面白い話をして笑わせて、泣き止んでもらわなきゃって」

「そんなことないわよ。私、泣いたの久し振りだけど、雨はこの前も降ったでしょう?」

「海が荒れるのは人魚が怒ってるからだって……」

「あんまり怒らないけど、怒る度に海が荒れてたら海も疲れちゃうんじゃない?」

「でも……」

 それでも食い下がる少年に、彼女はこの日二度目のため息をついた。

「うん、解った。この島では人魚が海を動かしてると思ってるのね? だからあんなにも像がいっぱいあったのね。やっと解ったわ。でも、私が泣いてなくても雨は降るし、怒らなくても荒れるときは荒れるのよ」

「……そうなの?」

「でも、島の人はそう信じてるのね? だったらこのことは内緒にしておいて」

「どうして?」

「私が怒ったら海が荒れるって思い込んでるなら、もし姿を見られてもいきなり傷つけられたりはしないでしょう?」

 寂しそうに笑った彼女は、どれだけ人間に酷い目に遭わされてきたのだろう。それでも溺れた少年を助けたのだ。少年は彼女の手を取って指きりげんまんした。

「絶対言わない!」

「私のことも、ここで泳ぎの練習をしてることも、ふたりだけの秘密ね」

「うん、秘密だね」

 小さく微笑みあった。

「さあ、泳ぐ練習をしましょう? いつか私の見たあの景色を見せてあげる」

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