第3話

 柔らかな光が頬を撫でた。きらきらと輝くのは波間に反射する太陽だろうか。

 目の前が明るかった。薄暗く孤独で冷たい場所である海の中で漂っていたはずなのに、少年が目を閉じていても照らしつける太陽を感じられるほどだった。

 ここはどこだろう。僕はどうなったんだろう?

 海に落ちたと思ったのは夢だったのだろうか。泳ぎの練習をしようとして溺れたのだろうか。

 温かい誰かの手が頬に触れた。少年の濡れた髪をかきあげて、顔を覗き込もうとしているのか少年に影がさした。

 おかあさん……? それとも……、

「…、………」

「大丈夫?」

 聞き慣れない、けれど美しい声がした。

 呼ぼうとして開きかけた唇を一度閉じて、少年は目を開いた。

 ──太陽だ。

 目の前に太陽が広がっていた。

 沈む夕陽を受けて金色に輝く大海原の色そのものが、少年の視界を覆い尽くした。

「大丈夫ー?」

 目の前の太陽に見惚れて息をすることも忘れた少年の上に、再び声が降って来た。

「え、あ……」

「こんなところに人が来るなんて思ってなかったから、びっくりしたわよ」

 視界から太陽が消え去った。代わりに現れたのは、年上の女性の顔。

 それも、とびきりの美女だった。

「うわ、あああぅわえあああっ!?」

 言葉にならない悲鳴をあげて、少年が飛び上がって一気に後ずさった。その様子を見ていた美女が、失礼ねと憤慨する。

「ちょっと! 助けてもらっておいて、お礼も言えないの?」

「え、だって、でも、人魚の入り江に入っちゃいけないって! なのになんでここにいるの?」

「そういうあんただってここにいるじゃない」

 もっともなことを言われて少年は黙り込み、何故か海に入ったままで岩場に寄りかかっている美女を改めて眺めた。

 彼女の髪は見事な金髪だった。先ほど太陽だと思ったのは、彼女の濡れた髪が日の光を反射していたせいだろう。年の頃は少年よりも十は上だろうか。長い睫に守られた瞳は海を切り取ったように深い青だった。

「あ…ありがとう、助けてくれて」

 眩しい彼女から目を逸らし、うつむきながら少年は呟いた。自分で顔が紅潮しているのが解る。

「どういたしまして。ねえ、もしかして泳げないの?」

 彼女の言葉に、紅潮した頬が怒りと羞恥でますます熱くなるのを感じ、少年は声を荒げた。

「で、でもっ! ここは入っちゃいけない場所なんだよ!それなのに海に入ったりして、人魚に呪われたりしたらどうするの!?」

 まくし立てる少年に、彼女は美しく青い瞳をまんまるにして、

「どうして人魚に呪われるの?」

 笑った。

 だが、泳げないことを冷やかした島の子供たちとは異なり、決して少年の心をささくれ立たせるものではなかった。むしろ、ずっと見ていたくなるような、そんな眩しい笑顔だった。

「だって、ここは人魚の入り江で……人魚が住んでるから、勝手に入ったりすると怒るんだ。人魚が怒ると海が荒れるし、危ないよ」

「人魚が怒っても海は荒れないわよ」

 真剣に心配する少年に、彼女は笑顔で返す。他の島の者ならともかく、この島で生まれ育った少年にとっては重大なことだ。それを笑うなんてどういうことだろう。彼女は島の者ではないのだろうか。

「でも、みんなそう言ってるよ」

 大人たちもかつて子供であった頃から、人魚を信じている。現にこの人魚の入り江には誰もいない、いた気配がない──そう、彼女以外は。

「……ねえ、どこから来たの……?」

 少年がここに来たときには誰もいなかった。いるはずがない、ここは禁断の聖地なのだから。そして誰も訪れるはずがない、船を泊めるのも困難なこんな入り江には。それなのに彼女はここにいて、そして溺れていた少年を助けてくれた。船もなく、どうやってここへやってきたのだろう。

 恐る恐る訪ねた少年に、彼女はやはり笑って答えたのだった。

「ここよ?」

「でも、ここは立ち入り禁止の……」

「誰もそんなこと決めてないわ」

「だって、呪いが…」

「どうして呪われるの?」

「ここは人魚の家で、家の中に勝手に入ったら誰だっていやだろうって……」

「人間はそうかもね。でも海は誰のものでもないから、誰が入ってきても怒ったりしないわよ」

 次の言葉を探して少年は口をぱくぱくさせた。だが少年の心に芽生えたわずかな「まさか」を打ち消してくれるだけの言葉は、彼の中には存在しなかった。信じてはいるものの、その存在を見ることなどないはずのものが、目の前にあるだなどと、少年の中の理性は夢のような奇跡を必死に否定していた。だがそれ以上に、少年の真っ直ぐな心は、とっくにそれを確信している。少年の小さな身体の中で、心は真っ二つに分かれて果てしない取っ組み合いを続けていた。

「じゃあ、こうしたら信じてくれる?」

「え?」

 自分の内側の葛藤に夢中だった少年は、突然の彼女の言葉に我に返った。顔を上げてみれば、すぐそこの岩場に寄りかかっていた彼女は海へと深く潜って、太陽の欠片のような髪の一筋さえ見えない。

「…え!?」

 転ばないように四つんばいになって、岩場の淵を覗き込もうとした少年の目に、飛沫が映った。きらきらと太陽の光を浴びて輝く飛沫の向こう側に、大きく背を逸らした彼女がいた。

 白蝶貝のように美しくなめらかな肌、宙に舞う彼女の背を覆う長い金髪は、まるで天使の羽のようだった。

 そして腰から下に巻きつけられた海色のドレスは、太陽の光を浴びて七色に輝いた。つい先刻、少年が薄暗い海の中で見たのと違わぬ輝きを纏って、弧を描いて再び飛沫をあげて海の中へと消えていった。

 海色のドレス──絹でも麻でもない、魚と同じ光沢を持つ、鱗。

 少年は言葉を失った。

 驚くよりも、見惚れていた。あの美しい七色の輝きに、心を奪われていた。

 この島に存在する人魚像よりも、本物は遥かに美しいのだと漠然と思いながら、少年は彼女が水面に上がってくるのを待つ。

 しばらくして彼女が水面からひょいと顔を出した。多分彼女は「信じてくれた?」と言いたかったのだろう。だがそれは言葉になる前に、興奮気味な少年によってかき消されてしまった。

「すごい! すごいきれいだった! 僕、あんなきれいなの見たことないよ! 他の島からくるガラス細工をきれいだなって思ったことはあったけど、こんなきれいなのないよ!」

「…本当にそう思ってくれる?」

「うん!」

 目を輝かせて強く頷いた少年に、彼女ははにかんだ。

「ねえ、あなた泳げないんでしょう? だったら、私が教えてあげようか?」

「本当に?いいの!?でも、なんで?」

「きれいだって言ってくれたお礼よ。他の人には内緒にして、泳げるようになって驚かせてやりましょうよ」

 そう言って笑った彼女はあまりにも魅惑的で、

「うん! 僕、明日また来るよ。きっとだよ、約束だよ!」

 少年は迷うことなく頷いていた。 

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