閑話その三

大掃除のその後に

 夏が過ぎ秋が来て、気づけば冬がやって来た。海に季節なんか関係ない。レジャーの夏が終わっても、海上保安庁の仕事は決して楽になったりはしない。四季のある豊かな日本の海は穏やかな顔ばかりでなく、ときに厳しく荒れる。自然だけではない。人間が起こす波は特に荒い。釣り人の事故、密漁の取り締まり、隣国の不法侵入と様々な懸案事項が転がっている。


 さて、救難の現場を離れた勝利はどうしているだろうか。目を吊り上げて若者たちをまくし立てているのだろうか……。





「よーしっ。がんばるぞ」

「海音、窓全部開けたぞ」

「ありがとう」


 今日は年に一度の大掃除の日。海優かいゆうを両親に預けて、ショウさんと家中を掃除するの。普段はやらない照明器具の裏とか、お風呂の天井や換気扇はこんな時じゃないとやらないから。それに、歩くのが楽しいさかりの海優がいたら危ない。上から降ってくる埃をかぶりながら、おもちゃ箱をひっくり返すに決まってる。そしてそのおもちゃの部品を、ショウさんが踏んづけて悶絶するのがオチ。


「よし! 高いところは俺が全部するから、海音はキッチンとトイレを頼む」

「気をつけてね?」

「心配するな。高いところは得意だぞ?」

「ううん、そうじゃなくって。力入れすぎて壊さんでねってこと」

「なんだとぉ? 人を筋肉バカみたいに言うんじゃない」

「ふふふっ」

「まったく……」


 救難の現場を離れたショウさんだけど、若手の育成のために忙しくしている。若い奴らに舐められてたまるかって、トレーニングは前よりもハードになってるし。


(ぜんぜん衰えとらんちゃんね。ショウさんの体、すごく……ダメ。考えちゃダメ。お掃除に集中!)


「さて、おトイレから始めようっと」


 腕まくりをした時に見える腕の筋とか、肩の盛り上がりとか、特に背中なんて現役時代と変わらないの。40超えてるなんて思えない体。私より12歳も上だなんて嘘みたい。同級生の男の子たちの方がよっぽどオジサンなんだから。


「なんであんなにカッコイイっちゃろ……今でもこんなにドキドキしとる。ダメダメっ! 磨け、磨けっ」


 最近おかしいの。子育てに慣れたから? 海優も健康に問題ないし、働いたほうがいいのかな。

 何がおかしいかっていうと、ショウさんを見るたびに欲情しちゃって困るってこと。


(私……欲求不満なの? そんなことないよね。だって、ショウさんとはちゃんとそれなりにシとるし。やだ、もしかして、私)


「発情期!?」

「海音?」

「は、はいっ!」

「掃除機、どこにおいた? けっこうな量の埃が落ちた」

「あっ、掃除機ね! えっと、カイの部屋にある」

「ん、分かった」


(今の、聞かれたかいな。聞こえとらんよね、多分。ショウさんのあの感じなら)





 朝早くに海音のご両親が海優を迎えに来てくれた。ずいぶんやんちゃな海優も空気が読めるのか、じいちゃんばあちゃんには大人しくしているらしい。俺たちといるときは、ちょっと目を離すととんでもない事をしてくれるんだがな。人を見る力ってのは本能なんだろうか。


(こっちは試されてる気分だ。あいつが成人するまでは、体力キープしておかないとな)


 それはさておき、近ごろ海音がおかしい。家にいるときも、三人で出かけているときも、視線を感じるんだ。それも、ちょっとねっとりとした熱いやつをな。


(男として見てくれているんだったら、最高だよな。こっちは日に日に老いていくわけだからな。やっぱりなんだかんだ、12歳差は気にする)


 そんな事を考えながら照明器具の掃除が終わった。下を見るとフローリングは埃まみれだった。


(一年分の汚れって、すげぇな)


 俺は掃除機をかけようと探したがいつもの場所に見当たらない。たかが掃除機で海音の手を止めるのは気が引けたが、俺が思いたる場所にことごとくない。


(やっぱり聞いたほうが早いな)


 俺はトイレを掃除していた海音のもとに行った。そしたら、なにやらブツブツ言ってるんだよ。そんな姿も可愛いんだよなんて、本当に俺は海音に惚れすぎてて困る。


「海音、悪いんだが、掃除機……」

「発情期!?」


(は、発情期!? なんだ、なにがだ!)


「海音?」

「は、はいっ!」

「掃除機、どこにおいた? けっこうな量の埃が落ちた」

「あっ、掃除機ね! えっと、カイの部屋にある」

「ん、分かった」


(おいおいおいおい。海音の顔が真っ赤になってたぞ! 発情期ってなんだよ! 発情期って)


 もしかしたら海音は、本能的に第二子を欲しているのかもしれない。そう思った途端、俺のオレが反応したのは仕方のないことだよな!





 トイレもキッチンもきれいになった。あとは、寝室の棚を拭けば今年の大掃除は終わり。勝利はリビングにあるテレビ周りの埃を丁寧に払っていた。


「ショウさん。寝室してくるね」

「おーう。頼んだ」


 勝利が大きな体を小さく丸めて頭を突っ込んでいる姿を見て、海音は口元を手で抑え声を殺しながら笑った。その後ろ姿がなんとも動物的で滑稽だったから。


(ショウさん、かわいいー)


 寝室に逃げ込むように入った海音はニヤニヤしたまま棚の扉を開いた。その瞬間、空気が変わった。その扉の奥には、20数年に渡る勝利の歴史が詰まっているからだ。

 海上保安大学校を卒業してからの、救難一筋の鬼がそこにある。海音は勝利の現役時代をほとんど知らない。オレンジ色に染められた第三管区海上保安部特殊救難隊は羽田基地に行かなければ見られない。オレンジのベレー帽を被った若き日の勝利は、海音にとって夢の中の人だ。


「ショウさんが特救隊にいた頃、私は……高校生受験してたんだ! うそぉ……」


 海音は額に入ったオレンジの精鋭たちの埃を払う。彼らのお陰で、たくさんの命が救われているのだと思うともう拝むしかない。


「これからも海の安全を守ってくださいっ」


 そして海音は、その中に存在した自分の夫を見つけて、指先で愛おしそうに上から撫でた。黒く焦げた肌に眩しいくらいの白い歯。シワひとつない笑顔は海音の知らない男、五十嵐勝利だ。


「ショウさん? 私と出会ってよかった? 幸せ? 私は出会えてよかった。あの島で怪我をした自分を褒めてあげたいくらい。ふふっ……、やっぱり今のショウさんが好き。この頃のショウさんやったら、逃げとったかもしれんもん」


 様々な苦難を乗り越えて、今の勝利に出会った。目尻に入るシワを見てずいぶん年上だと悟ったけれど、それが海音の心と体を離してはくれない。


「もう、どうしてくれるとよ。はぁ……」


 熱いため息が、海音の口からこぼれた。


「海音?」

「……ん?」

「なーに座り込んで見てるんだよ。うわぁ、懐かしいな。てか、俺、若っけぇー」

「ぴちぴちショウさんだよ。なんか、怖い」

「怖いってなんだよ。なんか、あれだなぁ……この頃の俺の方が海音に合ってるよな。年とったよな」


 そう言いながら懐かしそうに写真を見る勝利は、すっかり味のあるいいオッサンだ。勝利のその横顔を見た海音はたまらなくなって抱きついた。


「おっと、海音。どうした」

「この頃の俺の方が私に合ってるとか、言わんでっ! 私は今のショウさんやけん好きになったとよ? ……バカっ!」

「っ、す、すまん。怒らせたか」

「怒っとらん」

「いや、怒ってるだろ」

「やけん、怒っとらんって」


 ぷうっと膨れた海音が可愛くて仕方がない。拗ねた顔もまた勝利の好物だ。膨らんだ頬、ツンとそらした鼻先、誘うように艶やかな唇が勝利の劣情を煽る。


「海音は俺のもん。誰にもやらん。当然、ここにいる過去の俺にも、だ」

「ショウさん! 大好き!」

「おいおい! まて、こらっ」


 なぜか勝利が押し倒された。こうなった時の海音はさすがの勝利にも止められない。大きなゴリラに跨がって、目と声で縛り付けてくる。この時ばかりは怪力も役立たず。頼みは自身の昂ぶりのみ。


(俺のオレ! 出動よーいっ)


 掃除はほとんど終わっている。あとは自分たちがみそぎをするのみ。


「ショウさんが、いかんとよ?」

「なんで俺のせいなんだ。これは完全に海音だろ」

「いいえ、ショウさんです! ショウさんがかっこよすぎるとが、いかんとっ」

「なんだよぉ」

 

 今も昔もかっこいい。年の差なんて関係ない。過去に戻る必要も、未来にジャンプする必要もない。願うなら、こんな時間をたくさんください。


「ねぇ、今ならデキル気がすると」

「なにができるんだ」

「女の子」

「……(マジか)」


 まったくうちの、この嫁は。嬉しい悲鳴をあげながら、夫は全力でそれに応えると誓う。


「覚悟はいいんだな」

「はいっ」

「くっそ、こんのやろぉぉー!」







 何ヶ月かのあと、海音のお腹はふっくらと膨らんだ。大きな男と小さな男が寄り添って、撫で撫でスリスリが止まらない。


「カイ、にいーに」

「そう。お兄ちゃんだね」

「カイが守ってやるんだぞ」

「あいっ!」



 二人目は、待望の女の子! らしいです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

オレンジヒーロー群青の海へ再び 佐伯瑠璃(ユーリ) @yuri_fukucho_love

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ