第36話 オレンジヒーロー
深夜、物音をたてないように勝利はそっと玄関の鍵を開けた。リビングに繋がる廊下は、妻である海音の気遣いか、淡い灯りがついていた。
あの後、一時間も船の甲板でユウジという少年と海について語ったのだ。勝利はユウジを自分の膝に上げ、ユウジは勝利の首に腕を回し、荒れ狂う波に耐えた。
『表面はこんなに暴れているのに、海の底、深海はいつも変わらないんだよ。ボク、深海魚が好きなんだ』
恐怖を少しでも和らげようと、勝利が海の何が好きなのかという問いに、ユウジはそう答えた。
『でも友達はみんな、気色悪いっていうけどね』
『なんで気色悪いんだよ』
『え? だってさ、ちかっぱ悪役な顔しとるやろ。深海の水圧に負けんように進化した顔は、マジで悪役やけん』
『あはは。確かにそうかもしれんな。目なんてほとんど無いに等しいし、顔はぺしゃんこだしな』
『でも、生きるためにそんな風に進化するとか、すげぇ』
そんな話をしながら救助を待っていた。少年の瞳は、自分が命の危機に晒されているというのに、語るごとにキラキラと輝く。その少年に、実は勝利自身が救われたんじゃないかと、今になって思えた。
リビングに繋がるドアを開けると、ダイニングテーブルのランチョンマットに、勝利がいつも使う食器が伏せて置かれてあった。本当は夕方には帰ってくるはずだったからだ。
(連絡の一つも入れられない仕事で、申し訳ないな……)
今夜のメニューは何だったのかと、勝利はこっそり冷蔵庫を開ける。気のせいか、いつもりより豪華に感じるおかずが、皿やタッパーに収まっていた。
(ん? うちの両親が来たのか? いや、誰かの誕生日だったか? 違うな)
両親が来たにしては、おかずが残りすぎている。誰かの誕生日かと一瞬思ってみたが、そんなわけはない。不思議に思いながら、妻の手料理を眺めていた。
「開けっ放しにせんでくれん?」
「うわっ!」
突然、後ろから話しかけられて、勝利は大きな体をビクンと揺らした。
「ふふふっ、ショウさん、ビックリしすぎ! あはは、おかしっ」
「海音っ。誰だってビックリするだろ? 寝てると思ってたんだからさ。あ、俺が起こしたのか、すまん」
薄暗いキッチンで、怒るどころか口元を抑えながら笑う海音。勝利はこの笑顔があるから、いつも救われるんだと改めて思う。
「遅かったね。もしかして事故? 長い一日、お疲れ様でした」
「連絡も入れずに、心配かけたな」
「まあ、多少の心配はしたけど、ショウさんは絶対に帰ってくるって知っとるけん」
「海音っ」
勝利は海音をぎゅっと抱きしめた。まだ小さな、頼りにならない子供を抱えて、不安がないはずがない。それでも、一度も、弱音を吐かずに行ってらっしゃいと見送ってくれた。
(もう、こんな気持ちにはさせないからな)
「ショウさん? お腹空いてない? 今日はね、スペシャルメニューだったとよ」
「明日の朝でいい。カイが起きたら大変だろ」
「あ、それがね……。カイ、おじいちゃんたちとお泊りになったの」
「……は? いないのか」
勝利の両親も招いて、夕飯を食べるように準備をしていた。しかし、帰宅予定になっても勝利は帰らない。心配で落ち着かない海音に両親が提案したのは、息子の海優とホテルで泊まること。しかし、海音は自宅で待ちたいからと断った。その気になって喜んだ海優だけが、両親に連れられてホテルにお泊りする事になったのだと。
「なるほど。父さんたちもカイがいて、気が紛れてるだろ。しかし、カイのやろう。泣かなかったのか? 海音と離れて」
「それが、ぜんぜんなの」
海音の不満そうな声を聞けば分かる。海音の方が、海優と離れて寂しかったのだと。
「それでうちのお姫様は寝ずに起きてたのか、ん? こんな気持ちにさせてしまったお詫び、しないとな」
勝利は背を屈めて、海音の顔を覗き込んだ。どんなお詫びをしてくれるの? と、海音はほんの少し首を傾げる。
「海優がいない、久しぶりの夫婦水入らずだろ? やることは一つだろ」
「ひとつ?」
「俺は海音を朝まで独り占めにできるって、ことだろ?」
「う、ん」
そこまで言っても、ピンときていない海音。抑えきれない欲望に、口元を厭らしく歪める勝利。未だ気持ちは母親な海音と、とっくの昔に男に戻った夫の勝利の温度差に、ちょっと笑いが込み上げる。
「あはは。こりゃ、時間がかかるな。長期戦でがんばるか」
「え、なに? ねえ、わ、わっ、待ってぇ。ショウさんっ」
よいしょと、勝利は海音を抱き上げて、灯りのついた寝室へ入った。ベッドに海音ごとダイブして、逃げられないよう抑え込んで、勝利は囁く。
「まだ、分からないのか?」
「もう……ショウさん」
そこまでされたら、さすがに海音も分かる。父親ではなく男の熱い視線、体中に響く低い声で言われると、海音の心も体も女になる。
どちらからともなく、体を引き寄せて唇を重ねた。キスは毎日しているけれど、こういう熱のこもったキスは久しぶりかもしれない。
「海音」
「ショウ、さっ……ん」
勝利は海音の柔らかな感触を味わうように、ゆっくり、ゆっくりと自分のペースに引き込む。少し緊張していた海音も、大好きな勝利の腕に
徐々に激しさを孕み始めた時、勝利の手がなにかに触れて、それが音をたてて転がり落ちた。
「ん? なんだこれ」
「あっ、それ。ショウさんのアルバム」
「アルバム?」
海音は乱れた襟元をそっと戻して、落ちてしまったアルバムを拾い上げた。
「こんなの俺、持ってたか?」
「これね、ショウさんのお義父さんがくれたの。お義父さんとお義母さんの大切なものなに……。でも、これからはお嫁さんが持っていてって。多分、ショウさんも知らないやつあるよ?」
アルバムを広げて、海音は勝利に見せた。やんちゃ坊主だったころの一枚から、海上保安大学校時代のもの、そして、特殊救難隊に入隊したときの浅黒く焼けた笑顔など。
「いつ手に入れたんだよ、オヤジ」
「あとね、こういうのも」
海上保安庁が行った行事や式典、特殊救難隊がテレビで取り上げれたときの記事、勝利がかつて所属していた三管区の会報まで。
「おい、これ……マジか」
海猿という名がついた映画の切り抜き、二人が行ったのであろう映画のチケットの半券。息子の仕事に、何ひとつ口出しをしてこなかった両親は、ずっと陰で息子を見守っていたのだ。
「ショウさん。本当にお疲れ様でした。オレンジ脱いでも、私の中ではずっとショウさんはオレンジヒーロー」
「か、海音! 知っていたのか!」
うんと、頷く海音に勝利は思わず天井を仰いだ。早く言わなければと、思いながらも今の今まで隠していた。心と体に現役は終わりだと、納得させたつもりでも、海音に言えなかったのは諦めがついていなかったからだ。しかし、海音は知っていた。
「すまない。もっと早く、言うつもりだったんだ。けど」
「いいとよ。なんとなくその気持ち、分かるような気がするもん。ずっと、救難一筋だったんだもん。明日からやらなくていいよって、言われてもね」
「限界だったんだ。精神力も体力も。今はそう思える」
「うん」
「本当に、明日からどうやって過ごしたらいいのかって。正直言うと、不安だ」
「でもね、ショウさんっ」
勝利がそう言うと、海音は勝利の腕を強く握った。そこに込められた言葉は、言われなくても勝利には分かる。
「俺には家族がいる。かわいい息子と嫁さんがな。だから、止まってるわけにはいかない」
「そうよ。それに、現場から離れたって、きっとショウさんは叫んでるわ。お前らぁ! もっと速く走れーって」
「そうだな。現役時代以上に、うるさいやつになるかもな」
「うん」
海音に話せたことで、やっと、勝利の救難への強い想いは溶けていった。私達がいるから大丈夫よと、自分の肩に擦り寄る海音を、勝利は優しく抱き返す。
「若い奴らから嫌われたくないから、ここはひとつ夢中になるものを増やすか」
「夢中に、なるもの……なんやろね」
「まだ分からないのか。困った嫁だな。さっきの続き、いいか? 次は娘が欲しいな。娘だったら外に出たくなくなりそうだろ?」
「そういうこと!?」
「そういうこと。ほーら、海音。観念しろ」
再び勝利は海音をベッドに押し倒す。海音も勝利の首に腕を絡めて、性急に熱を求めた。
海から上がっても、勝利のオレンジ色の情熱は消えない。それは、海音が一番わかっている。そして、その情熱を受け止められるのは、これからは海音だけになる。
「ショウさん。いっぱいシテ? そしたら、かわいい女の子が生まれるかも」
「お姫様の仰せのままに」
「……ばかっ」
◇
翌朝。
「カイお帰り!」
「パパー!」
「海音さんは?」
「昨夜、俺の帰りが遅かったからさ」
「海音さん、心配疲れよね。大事にせないかんよ? あんないいお嫁さんおらん」
「分かってるよ」
両親はそう言い残して、海音には会わずに
その後、気怠そうに起き上がる海音に、息子の海優がニコニコ笑顔で近づいた。
「ママ、どーじょ」
「ありがと」
脱ぎ捨てられた洋服を拾って、海音に渡し、なでなで、ヨシヨシしてくれたとか。
私たちの生きる希望がそこにある。助けが必要なとき、困難に立ち向かうとき、絶対に諦めないで這い上がって欲しい。誰かが助けを求めていたら、手を差し伸べて欲しい。誰かが困っていたら、声を掛けて欲しい。
きっとあなたの中にもある、オレンジ色の輝きが、世界を笑顔に変えてくれるから。
海での事故、事件は118!
その時、彼らがやって来る。
海を守るヒーローは、今日も明日も私達のそばにいる。
【おしまい】
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