愛と毒薬

 物語とはいえ、致死量の香辛料で夫を殺す話にぎょっとしたかもしれません。


 婚姻の解消は、離婚が基本的に認められないキリスト教社会では容易ではありませんでした。マントヴァ公爵のような権力者でも教皇の許しが必要です。なので配偶者を厄介払いしたければ殺すのがてっとり早く、当時もっとも手軽な方法が毒殺だったのです。


 そこで今回は夫婦間の毒殺の例を。ただしフィクションではなく、実際にあった凄惨な事件です。法廷記録らしきものを元にしているので読みづらい部分があるかもしれません。


***

 1415年頃、トスカーナの小さな町コルトーナにチェーフォという男が住んでいた。妻子持ちだったが、クリスティーナという近所の17歳の娘に惚れていた。


 クリスティーナの母メアは娘の結婚相手を探していた。候補に挙がっていたのは農夫のトーレ、織物職人ジョヴァンニ、それにビアジオという若者である。

 チェーフォはそれを阻止するため、彼らの悪口を母娘に吹き込んだ。

 いわく、クリスティーナは農婦には向いてないからトーリとは結婚しないほうがいい。ジョヴァンニは連れ子がたくさんいるし、彼は死んだ妻を虐待していた、云々。虐待の真偽は不明。


 3人目、ビアジオは縁談に乗り気だった。チェーフォは彼を呼び出し、言った。


「おれたちは隣人同士で、幼なじみだ。クリスティーナとは結婚しないでくれ。おれは彼女を愛している。ずっと前から狙って、手に入れたんだ。もう何度も寝てる」

 しかしそれは嘘で、実際には寝たことはなかった。

「あんたが好きだから言ってるんだ。お互い、女一人のために殺し合いたくはないだろう」


 びびったビアジオ、ならクリスティーナのことは諦めると約束し、嫁資の少なさを理由に縁談を断った。


 チェーフォはメアに、娘の結婚を待ってほしいと言った。実は、妻アンジェラは結婚後5年以内に死ぬと占い師に言われていて、もう4年たっている、と。メアは占いを信じていなかったが、アンジェラが本当に死んだら娘をやってもいいと言った。


 チェーフォはクリスティーナに想いを告げた。愛してるよ。


 私も愛してる、とクリスティーナ。もしアンジェラが死んだら、喜んであなたのものになる。でも彼女のことは好きだし、親友だから死ぬのは悲しいの。


 近所ではクリスティーナが彼の子を身ごもっているという噂が流れた。噂を聞いた母はアンジェラが働きに出て留守の日、チェーフォの家に押しかけた。


「どおりでビアジオが娘と結婚したがらないわけだわ、あんたが孕ませたって言われてるんだもの。娘がもし妊娠してたら、あんたの子なんか殺してやる、覚えておくんだね」


「今ごろそんな噂を聞いたのか、おれはもう何日も前に聞いたよ。だが、事実じゃないから安心していい。何度も言っただろう、もう少し待ってくれればおれが結婚してやるって」


「何を考えてるの?」


「おれに任せといてくれ。今に分かる」


 この言葉で、メアは彼が妻の殺害を計画していると悟る。


 彼女は決断を迫られた。変な噂をたてられている以上、クリスティーナをもらいたがる男はもう見つからない。遊んで暮らせる貴族でもない限り、未婚の女の先行きは暗い。チェーフォと結婚させるしかなかった。


「どうするつもり?」

「早めにやっちまおうと思う。他に方法がなければネズミ駆除の薬を使う」

「しかたないね。急いでちょうだい」


 毒殺は要人暗殺の常套手段ですが、毒薬は町の薬局で簡単に入手可能で、かつ露見しにくいので庶民の間でも広く使われていました。


 数日後、チェーフォはアンジェラを殴ってベッドから追い出し、床で寝させた。具合が悪くなった彼女に、チェーフォは毒入りの食事を与えた。アンジェラは胃痛を訴えて寝込んだ。


 6月1日、チェーフォ、メア、クリスティーナの3人は祭りに出かけた。戻ると、アンジェラは少し元気になっていた。


 翌日、チェーフォは別の毒薬を購入し、粉末にして鍋に入れ、妻が留守の時に煮豆を作った。豆を煮ながら、ふと思った。


 ――アンジェラがこれを口にすれば、彼女が授乳している息子も死ぬ――


 彼は煮た豆を捨て、完全に空にするために鍋をひっくり返しておいた。


 アンジェラが帰宅した。彼女は鍋が逆さまになっているのを見て不審に思う。

「どうしたの、これ」


 チェーフォは答えた。

「猫のしわざだろ」


 鍋の底に豆が少し残っていたので、アンジェラはそれに水と油を入れて煮て食べ、嘔吐して倒れた。


 そこからは3人がかりでの殺害となる。


 チェーフォは水銀入りの卵料理を与えた。アンジェラは日に日に弱り、体の痛みを訴え、吐き続けた。メアが鶏肉のパイをこしらえ、チェーフォがそれにも毒薬を混ぜた。さらに、彼は毒入りの菓子をクリスティーナに渡してこう言った。


「アンジェラに食べさせてくれ。が入っている」


 あれとは毒薬のことだった。


 アンジェラは6月6日に死んだ。8日後、チェーフォとクリスティーナは2名の証人をたて、結婚式を挙げた。殺人がばれるのを恐れ、誰にも言わずひっそりと。


 しかし悪事は露見するもの。チェーフォとメアは殺人の罪で逮捕され、死刑になった。


***


 アンジェラが衰弱していく間、クリスティーナが何を考えていたかは分かりません。死ぬのは悲しい、とは言ったものの、やはり想い人と一緒になりたかったのかもしれない。結婚話が当事者の意思と無関係に進むものだった時代、彼と母親の計画を固唾を呑んで見守るしかできなかったのかもしれない。


 分かっているのは彼女も有罪となり、鞭打ちのうえ市中引き回しと追放の判決を受けたことだけです。


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