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アスファルトの道はその幅を保っていた。それでも道から外れれば、雑草の茂みや砂利が敷き詰められた地面だったりする。
今のところ、道の分岐はない。周囲の様子は窺えないが、この道に沿って進む限り、迷うことはなさそうだ。
羽音は聞こえなくなっていた。そればかりか、おれたちの走る音以外には、何も聞こえない。自分たちの立てる音や間近で発生する音は普通に聞こえるが、距離を隔てた場所からの音は聞こえないような気がした。まるで霧に音が吸い取られているかのようである。
霧ならではなのだろう、湿気を含んだ空気が頬や額にまとわりついた。
前方のみ、わずかに視界が開けた。左右と後方は相変わらずの濃霧だが、すぐ先が緩い傾斜の上りであるのが見て取れる。
いくつかの建物があった。屋根はどれもがスレートらしい。
緩い傾斜を駆け上り、門扉が開かれたままの門を通過したところで、おれたちは足を止めた。
駐車場だった。規模は資料館の駐車場の半分程度だろう。
案内板があった。見学コースの道順や、施設の紹介などが記載されている。立ち入り禁止のエリアもあるらしい。
「みんなは?」
周囲を窺う小林が、声を漏らした。
「この先じゃないかな」
高部の答えに、おれは頷く。
「うん。とにかく行ってみよう」
「そうだな」と相づちを打った宗佑が、先に立って歩き出した。
駐車場の先に延びるコンクリートの道は、傾斜がさらにきつかった。もっとも、道幅はそれなりに確保されている。往時には一日に何台もの車両が行き交っていたに違いない。
鉱山施設はまるで段々畑に建てられたかのようだった。どの建物も煤や水垢で汚れきっている。補修された可能性は否めないが、ほとんどの窓ガラスはそのまま残っていた。
見学コースの案内板があった。右へ曲がるように指示している。
その案内板がある十字路で宗佑が足を止めた。あとの三人もそれに従う。
「おかしいな。誰の声も聞こえない」
死んだような風景に、宗佑は目を配った。
左右を見ると、建物と建物との間に、この道と同じような道が延びていた。
どの建物も、おれたちがいるこの道に面する巨大な出入り口は、シャッターが下りていた。シャッターの横に据えられたドアを開けることができれば、中の様子を確認できるだろう。
「建物の中にいるのかな?」
思ったままをおれが口にすると、宗佑が右の建物に近づき、そのドアを開けて中を覗いた。そうするように仕向けたわけではないが、宗佑を動かしてしまったことに負い目を感じた。
ドアを閉じた宗佑が、戻ってくるなり報告する。
「結構広いし、暗いんだ。少なくとも、見える範疇には誰もいない」
「大声で呼んでみたいけど、それはやらないほうがいいだろうな」
おれのその見解に宗佑は頷いた。
「だな。さっきの変なのを呼び寄せてしまうかもしれない」そして続ける。「スマホでマッキーに電話してみる」
持参禁止など気にしている場合ではない。宗佑がスマートフォンを手にするのに続き、おれも内ポケットからスマートフォンを取り出した。高部と小林も各自、スマートフォンを手にする。
しばらくして、「電源が入っているのに通話ができない」と宗佑が言った。
「須藤にかけようとしたんだけど、こっちもだめだ」
小林が言った。
「SNSやメールも使えないぞ」続けて吠えたのは、高部だった。「GPSも使えないから、現在地も表示できない」
おれもクラスメートの男子に電話をかけようとしたが、電波が使えないらしく、まったく通じない。
ふと、ステータスバーに目を留めた。データ通信も位置情報サービスも使えないことが、一目瞭然だった。
おれはスマートフォンを内ポケットに戻した。全員のスマートフォンが通信不能になった原因がなんであるか見当もつかないが、それにこだわっている場合でないのは、確かである。
意見を求めようと、おれは宗佑を見た。
ズボンのポケットにスマートフォンをしまった宗佑が、おれを見返す。
「二手に別れよう。おれとニッタは右」そして宗佑は、高部と小林に視線を移した。「高部と小林は左だ」
「ああ、かまわないよ」
承諾した小林だが、不安げな趣だった。
「どっちの道も百メートルくらいだ」宗佑はなだめるように言う。「何かを見つけても見つけなくても、またここに戻る。横道はこの先にもあるみたいだから、横道があるたびに、それを繰り返そう。四人でまとまって建物の中を探索するより、理論上、半分以下の時間で済む」
「もし誰かいたら、須藤と須藤をさらった何かのこと、伝えるのか?」
高部が宗佑に確認した。
「当然だ。あの何かに対する警戒は必要だよ。……急ごうぜ」
そしておれたちは、二手に別れた。
右の横道に入ってすぐ、おれはたまらず口を開いた。
「なあ、さっきの何かだけど――」
「なんだと思う? なんて訊くなよ」
宗佑はおれには目もくれず、左右の建物の様子を窓ガラス越しに窺っていた。
「そう……だよな。わかるわけないよな」
いくら憶測を連ねても、正体はわからないのだ。だいいち、情報が少なすぎる。事実とは異なる姿を勝手に想像すれば、役に立たないどころか、窮地に追い込まれる可能性もあるわけだ。もっとも、今の状況が窮地でないとは誰にも言いきれないだろう。
建物の中は広く、薄暗かった。何本もの鉄骨の柱が立っており、ところどころに巨大な機械が見える。とはいえ、空間が多く、殺風景だ。
この通りの中間まで来ると、右の建物に、シャッターの降りていない巨大な出入り口があった。すかさず、おれたちはそこから中を覗いた。
コンクリートの床はひびと染みに覆われ、隅々になんらかの鉱石が積もっていた。やはり、見える範囲に人の姿はない。
おれたちは再び道を歩き出した。
ふと、思った。
おれたちは二度と家に帰ることができないのではないか。
そうなれば、おれの両親はどうするだろうか。
今年の夏の初め頃から、おれの両親の様子が変わった。必要以外のことで二人が会話を交わすことがなくなったのだ。加えて、おれもそんな両親に話しかけることが少なくなった。
一度だけ母がおれにこぼした。それでなんとなく、見えたのだ。父が若い女と不倫している、と。
半年近くも家庭は暗いままだ。そんなところに帰るのは、気が重い。アパートで独り暮らしを満喫している社会人の兄は、そもそも両親やおれとも会話がほとんどなかったため、当てにはできない。
ならばいっそのこと、おれはあの何かにさらわれてしまってもかまわないのではないか。
両親は泣くかもしれない。
後悔してくれるかもしれない。
おれはかぶりを振った。
「どうした?」
宗佑が歩きながらおれの顔を覗き込んだ。
「いや、なんでもない。ていうか、びびっているだけ」
口を突いて出た言葉だが、あながち的外れではないだろう。
「ニッタだけじゃないよ。おれだってびびっている」
「そんなふうには見えないよ」
「怖いに決まっている」宗佑は正面に顔を向けた。「怖いから、行動しているんだよ。無事に帰れるようにな」
「無事に帰る……」
おれはその言葉を嚙み締めた。
そして、おれたちはその通りの終点へと至った。
左右の建物が切れ、道は別の道と直角に接続していた。丁字路である。丁字路の突き当たりは、深い茂みだ。
「誰もいなかったな」
宗佑が言った。
「ああ」
答えたおれは振り向き、息を吞んだ。
振り向いたおれたちから向かって左の建物の壁際に、一人の少女が座り込んでいた。壁を背にし、両手で左右の耳を塞いでいる。うちの高校の制服を着ている彼女は、紛れもなく松井だ。
「松井」
おれが声をかけると、松井が顔を上げ、両手を下ろした。
「新野くん」
おれは松井の正面にしゃがんだ。
「松井、大丈夫か?」
「うん、わたしはなんともない」
怯えきった表情だが、受け答えはしっかりとしていた。
「何があった?」
おれの横にしゃがんだ宗佑が問うた。
即座に、松井は首を横に振る。
「わかんない。霧の中から太い紐みたいなのが飛び出してきて、
二人の男子がさらわれたようだ。
「ほかのみんなは?」
再び、宗佑は問うた。
「みんなばらばらに逃げちゃって、どこへ行ったのかわからないの。電話をかけようとしたのに、全然繫がらないし」
ある意味、松井がスマートフォンを持参していたことは驚異である。
「そうか」宗佑は立ち上がった。「さっきのところへ戻ろう」
促され、おれも立ち上がった。
「どこへ行くの? あの変なのは、もういない?」
おれたちを見上げたまま、松井は立ち上がろうとしなかった。
「おれたちもその変なのを下のほうで見たよ。でもこの辺には、今はいないようだ」
なんとか立たせようと、おれは説いた。
「向こうの通りの十字路で高部たちと待ち合わせしているんだ。急ごう」
宗佑が付け加えたとたんに、松井は首を横に振った。
「須藤くんたち、いるの?」
普段から、必要のない限りはあの三人に近づかない松井なのだ。必要があっても、宗佑が気を利かして対処するほどである。
「須藤はもういない」宗佑は即答した。「あいつはさらわれた。高部と小林はいるけど、二人とも協力的だ。心配はいらない」
「須藤くんが?」
安堵した様子ではなかった。むしろ、体が小刻みに震えている。
「とにかく高部たちと合流しよう。そして、自分の家に帰ろう」
おれはそう言って右手を差し出した。
「うん」
弱々しく頷いた松井が左手でおれの右手を握った。
柔らかくて温かかった。
松井を立ち上がらせたおれは、宗佑を見た。
「行こう」
「ああ」
頷いた宗佑が歩き出した。
おれと松井がそれに続く。
三人とも急ぎ足だ。
おれは、繫いだ手を離さなかった。
長く思えたこの通りも、走ってみれば意外に短かった。
待ち合わせの十字路に至る直前、反対側の通りから高部と小林が走ってくるのが見えた。
「どうだった?」
宗佑が尋ねたときには、双方のグループとも十字路に差しかかっていた。
「あいつが現れた」宗佑の正面で立ち止まった高部が、息を荒らげながら告げた。「急に霧が濃くなって、そうしたら、またあのミミズの化け物みたいなやつが飛び出してきて」
「その場所は?」
宗佑は話を促した。
「そっちの道の突き当たりだよ。丁字路になっている」
どうやら反対側も同様の道の配置らしい。
「いたのは、松井だけか?」
小林に目を向けられ、松井は肩をすぼめた。
「そうだ。一緒にいた中島と武田が連れ去られたらしい」
おれが答えると、小林は慚愧の色を浮かべて「いったいなんなんだ、あれは」と嘆いた。
先にも宗佑が退けた問題だ。誰にも答えることができないのである。
宗佑が周囲に目を配った。そして、資料館のほうに正面を向け、やや左を指差す。
「あっちは霧が薄いな」
その一帯だけがわずかに景色が窺えた。雑草に覆われているが、小道が東のほうに延びている。
「で、それがどうしたっていうんだ?」
高部が尋ねた。
「確信はないけど、あの変なやつは霧が濃いところで襲ってくるような気がするんだ」
宗佑の説におれは頷く。
「そう言われれば、そうだな。松井はどう思う?」
ひどいかもしれないが、松井たちが襲われた状況も把握したかった。
「うん。中沢くんと武田くんがさらわれたときも、そうだったよ」
答えた松井は、おれの手を強く握り返した。
「少しでも安全性の高いほうを選ぼう」
おれは言った。
高部が「おい、見ろ!」と声を上げた。
見れば、高部たちが走ってきたほう――その通りの中間付近まで、濃霧が迫っていた。
おれたちはとっさに走り出した。
門をあとにしたおれたちは、すぐにアスファルトの道から左へと折れた。草地の間に延びる未舗装の小道だ。
道の左手は先ほどの施設のあった山の斜面の連なりだ。一分も走ると、木々に覆われたその斜面に人工物らしきものが見えてきた。霧の中に浮かぶシルエットは、まるで巨大な階段である。
霧がさらに薄くなった。
巨大な階段状のものの端に差しかかったところで、おれたちは足を止めた。
それはコンクリート製の構造物だった。古代文明の巨大遺跡のような趣もある。斜面に向かって奥側がコンクリート壁、手前がコンクリート柱、コンクリートの屋根があったり屋根なしの吹き抜けだったり、とそんな構造物が階段状に組み合わさって山の斜面にへばりついているのだ。一段の高さは十メートルはあるだろう。幅は何十メートルあるのか、この位置からではわからない。
「これは……なんだ?」
誰に問うでもなく、おれは疑問を口にした。
「
松井がおれの手を握りしめたまま答えてくれた。
思わず彼女の顔を見てしまう。
「センコウ……それって、何?」
「鉱石を選別する施設」
「どうして松井が知っているんだ?」
「さっき、資料館で施設の説明を読んだから。つまり……にわか仕込みの知識」
松井の顔が赤くなった。しかし、彼女が資料館で真面目に学習していたことに違いはない。むしろ、恥じなければならないのはおれのほうだ。
何かが動いたような気がした。
おれは選鉱場の一番下の段に目を凝らした。少し先のほう、柱と柱との間にいくつかの人影が見える。
すでに気づいたのだろう。宗佑がじっとそちらに顔を向けていた。
「誰かいるな」
宗佑が言うと、松井の握った手がわずかに震えた。
「ここで待っていろ」
おれたちを片手で制した宗佑が、そちらに向かって歩き出した。
「大丈夫かな」
消え入りそうな声を出したのは、意外にも高部だった。この不安げに立ちすくむ男が、本当に松井をいじめていた一人なのだろうか。
どんなに悪ぶっていても、たかだか高校生なのだ。この異様な状況下で、学校と家庭という狭い世界しか知らない分際にできることがあるとすれば、こうやって怖がって、そして逃げることだけだ。所詮はその程度である。無論、おれも宗佑も例外ではない。だが、少なくとも宗佑は、冷静に判断している。それは確かだ。
十メートルほど先で立ち止まった宗佑が、選鉱場の一角に向かって何やら声をかけた。
若干の間があって、宗佑は振り向き、手招きをした。
「来てもいいぞ」
声の調子からすると、憂慮すべき事態ではなさそうだ。
とりあえず、慎重に歩き出した。松井はもとより、高部と小林も浮き足立っている。
宗佑に並んで、そこにいる者たちが誰であるかをようやく知りえた。
早瀬と二人の男子だった。男子は
「亜希ちゃん」
声を上げるなり、松井はおれの手を離して早瀬に抱きついた。
「七海ちゃん、無事だったんだね」
早瀬も松井を抱きしめた。
「三人だけなのか?」
おれは有野に尋ねた。
「ああ」有野は頷いた。「十人くらいが霧の中にさらわれた。それは見たんだけど、あとのみんなはどうなったのか、わからない」
「さらったやつの姿は、見えなかったか? 太いロープみたいなやつじゃなかったか?」
立て続けに尋ねた。やつらの正体が気になって仕方なかった。
「ああ、太くて長い何かだった。蛇みたいなやつだった。頭から尻尾の先までがとてつもなく長いやつなんだ」
答えたのは大場だった。
「じゃあ、あれは尻尾……いや、胴体、って言うべきなのか?」
おれが眉を寄せると、すぐに高部が口を開いた。
「羽ばたきが聞こえたじゃねーか。それは別のやつなのか?」
「同一のやつだ」大場はじれったそうに渋面を呈した。「蛇というより、蛇みたいなやつ、なんだよ。全体が見えたのはほんの一瞬だったけど、翼があった。その翼が、コウモリの翼に似ていたんだ。……そういや、スマホで撮影したんだっけ」
大場はブレザーの内ポケットからスマートフォンを取り出し、その画像を表示する。
「おい――」
おれは声を吞み込んだ。
「これ、亜希ちゃん……でしょう?」
懐疑の言葉を口にしたのは、いつの間にかおれの横に立っていた松井だった。
画像には、濃い霧の中、カメラに向かって走ってくる早瀬が写っていた。必死の表情で走る彼女の背後で、一本の太い触手状のものが宙を舞っている。今まさに彼女を襲おうとしている、そんな情景だ。しかし、化け物の全身は写っていない。
「でも……無事だったんだよな?」
宗佑が大場のスマートフォンから早瀬に視線を移した。
「うん。さわられもしなかったよ」答えた早瀬は、大場のスマートフォンの画像を忌まわしそうに見下ろしていた。「でも、こんなに近くまで迫っていただなんて」
「撮影した瞬間に、そいつが、さっと引いたんだ」
「撮影した瞬間?」宗佑は大場を見た。「もしかして、フラッシュを使ったか?」
「ああ、そうだよ」
大場の言葉に宗佑は得心がいったようだった。
「宗佑、何かわかったのか?」
おれのその問いに宗佑は頷く。
「あいつらは光に弱いのかもしれない。フラッシュで引き下がったり、それに、霧の薄いところでは襲ってこなかった」
「そうか。じゃあ、やっぱりスマホの電源は入れておいたほうがいいよな。ライトを使えばやつらを蹴散らせる」
高部が言った。
「可能性があるだけで、絶対とは言いきれないぞ」
念を入れたうえで、宗佑はズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。電源が入っているか確認しただけのようだ。すぐにそれをポケットに戻す。
おれを含むほかの全員も宗佑に従った。
そして選鉱場に避難していた三人は、通信が不可能である旨を口々に訴えた。この程度の移動では電波の入りは変わらないらしい。この霧が影響しているのかもしれないが、それを説明できる者は一人もいなかった。
「大場」宗佑は大場を見た。「もう一度、さっきの画像を見せてくれないか」
大場はすぐにスマートフォンを操作し、それを宗佑に手渡した。
「うーん」うなりつつ、宗佑は画像を拡大した。「これが生き物かなんなのか、まったくわからない。でも、相当な長さが宙に浮いているにもかかわらず、人間一人を持ち上げてしまうんだ。つまり、どういうことか、わかるよな?」
視線の先におれがいた。
「おれたちが素手で立ち向かってもかなわない相手である、っていうことだ」
答えながら、おれは背筋に寒さを感じた。
大場にスマートフォンを返して、宗佑は言う。
「さらわれていないやつがほかにもいるかもしれないけど、おれたちはおれたちでどうにかしよう。資料館の駐車場のバスまで戻る。それを当面の目標にしたい。そうすれば、この霧から脱出することができるかもしれないしな。意見があるやつは、遠慮なく言ってくれ。おれの判断が間違っている可能性だってあるじゃん」
「小倉の言うとおり、バスまで戻ったほうがいいと思う」
真っ先に賛同したのは高部だった。
「おれもそう思う」
大場が続くと、小林と有野、早瀬、松井が頷いた。
「そうしよう」
最後におれが言った。
「ありがとう」宗佑は礼を述べると、全員の顔を見回した。「なるべく霧の薄いところを狙ってバスに近づこう。でも、霧の濃淡がおれたちに都合のいいようにできているわけじゃない。できるだけ固まって移動して、それぞれが与えられた方向にスマホを向けておく。常にどの方向にもスマホが向いているようにするんだ。スマホのバッテリーに余裕のないやつは、いないか?」
挙手したのは有野だった。
「残りが三十パーセントってところだけど、問題ないと思う」
「有野のより少ないやつは?」
宗佑は問うが、対象者はいないらしい。
「じゃあ、ルートを決める」
言いながら、宗佑は山の斜面の反対側を見た。
「そっちはほぼ南だよね」早瀬が続いた。「霧の薄いところは、南北に伸びている感じだから、少なくとも南には行ける」
「でも、なんとなく資料館から東のほうにずれている感じだな」
小林の言葉どおりだった。資料館の建物は、深い霧の中らしい。
「よくも悪くも、霧は動く」宗佑は言った。「霧の薄いところを伝って南下して、見当をつけて南西に進路を変える。その時点で進行方向に深い霧が立ち込めていたら、ライトを点灯するんだ」
提示されたプロセスに、早瀬が付け加える。
「霧が出る前にちょっとだけ見たんだけど、今から通るところは、ほとんどが雑草だらけだった。歩きづらいだろうから、みんな、気をつけてね」
「ごめんね亜希ちゃん。本当は副委員長のわたしが委員長のサポートをしなきゃならないのに」
松井は言うと、そっとうつむいた。
「そんなことを気にしてどうすんの。みんな仲間なんだから、誰もが協力しなくちゃ」
早瀬の言葉を受けて、松井は顔を上げた。
「うん、ありがとう」
嗚咽をこらえた声だった。
高部が松井の前に立った。
「おれにも協力させてくれ。松井にはひどいことばかりしてきた。本当に悪かった」
高部が頭を下げると、小林も頭を下げた。
「うまく言えないけど、おれも……悪かった。ごめん」
「もうわかったから……頭を上げて」
松井は二人を許したらしい。
おれは高部と小林を信用したわけではないが、とりあえずはまとまった、と思う。
希望はまだある。
いや、なんとしても松井と一緒に帰るのだ。松井という存在があれば、あの日常に戻っても耐えられそうな気がする。
それぞれがスマートフォンを手にし、移動が始まった。
走りたいのは山々だが、混乱を来さないよう、通常の歩行速度だった。陣形は二人の女子を六人の男子が囲むというものだ。先頭がおれと宗佑、右に有野、左に大場、最後尾に高部と小林がついた。各自がスマートフォンを陣形の外側に向けて持っている。松井と早瀬は、手にしたスマートフォンをいつでも頭上に向けられるように構えていた。
早瀬の忠告どおり、足元は雑草に覆われていた。もっとも、背の低い雑草ばかりで、今のところ歩行に支障はない。
三分ほど歩いただろうか、おれの左を歩く宗佑が、突然、足を止めた。全員がそれに倣う。
「おい」宗佑は陣形の左前方を指差した。「あれを見ろ」
宗佑の示す先に、大きな四角い物体が見えた。
「バスみたいだな」
大場が言った。
「とりあえずルートはそのままだ。もう少し前進すれば、はっきり見えるだろう」
賢明な判断だろう。宗佑のその言葉に従い、陣形は進み出した。
しかし、十メートルほど進んだ辺りで、誰が言うとなく、全員の足は止まってしまった。
大きな四角い物体の正体は、確かにバスだった。山のほうにフロントを向けて停まっている。しかも、おれたちが乗っていたあのバスではないか。
「駐車場からここまで移動したんだ。助けに来てくれたのかもしれない」
有野は言うが、少なくとも、今はエンジンが切ってあるようだ。
「少し霧が濃くなった感じだけど、確認したほうがいいんじゃないか?」
提案したのは小林だった。
「もっともだな。おれたちが目指していたのは、このバスなんだから」
宗佑は同意した。
陣形は向きを変えず、宗佑と大場を先頭とする形で左前方へと移動した。
近づくにつれて、バスの状態の些細がはっきりとしてきた。フロントガラスが割れている。それがわかっただけで、移動速度がわずかに鈍った。
「バスも襲われたのかな?」
心細そうな声を漏らしたのは、松井だった。しかし、答える者は誰もいない。何か気の利いた言葉をかけてやりたいところだが、おれにそんな余裕はなかった。
バスの手前で、おれたちは足を止めた。
「どういうことだよ」
宗佑が愕然とするのも無理もない。おれやほかのみんなに至っては、驚愕の言葉すら失ってしまった。
フロントガラスの内側に張られたステッカーの番号は「1」だ。つまりこのバスは、一組用の一号車ということである。
バスからは物音一つしなかった。それぞれの窓には人の姿など一つも見えない。もっとも、乗降口のドアは開いている。
前後左右、上空、と霧の様子に目を配った宗佑が、口を開く。
「みんな、スマホのライトは準備しておけよ」そして宗佑は、おれを見た。「ニッタ、おれと一緒に中に入ってくれないか? 誰か、中にいるかもしれない」
「まって」言葉を挟んだのは早瀬だった。「中にいるのが人とは限らないじゃん」
「だから、ほかのみんなは外で警戒してほしいんだ」
宗佑言うと、おれを見た。
当然、足がすくんだ。しかし指名してくれなかったら、残念でならなかったはずだ。
「もちろん、一緒に入るさ」
「上等だ」
笑みを見せた宗佑が、先に立ってバスに乗り込んだ。
おれは宗佑の背中に続くが、宗佑のその背中がすぐに止まる。一段目のステップに両足を乗せた状態で、おれは立ち往生となった。
「どうした?」
「ああ、これ」
宗佑は運転席の斜め後ろまで進み、おれをステップの上に促した。
おれは目を剝いた。
運転席に、運転手のものと思われる下半身が残っていた。厳密に言えば、背骨が胸の辺りまでと、数本の肋骨も残っている。そのうえ、ハンドルやメーター類は完全に破壊されており、仮に運転できる者がいたとしても、走行は不可能だ。
「あいつらにさらわれたやつは、みんな食われてしまう、っていうことだ」
その言葉を聞いて、おれは宗佑を見た。
「宗佑、おまえはバスから降りろ。おれが一人で後ろまで確認してくる」
「何を言っているんだ。一緒に――」
「だめだ。頼むから、降りてくれ」
おれは宗佑の両肩を揺さぶった。そして、運転席を顎でしゃくる。
「外のみんなに、このことを説明してやってくれよ」
「ニッタ、おれ……」
ようやく、宗佑は頷いてくれた。こわばった顔が、今にも泣き出しそうだった。
バスの外に向かって宗佑の背中を押し、おれはバスの中を後部へと歩き出した。
荷台はリュックやバックが載せてあり、特に変わった様子はない。とはいえ、床や各座席には、ペットボトルや菓子類の包装が散乱している。
最後部まで来たが、犠牲となった運転手以外に、このバスに残っている者は一人もいなかった。少なくとも、佐々木秀美――宗佑の恋人である「一組の佐々木」はここにはいない。
車外が騒々しくなった。乗降口の反対側、バスの右側にみんなが集まっている。
おれはそそくさとバスを降りた。無論、運転席に目は向けない。
ドアの外に、小林が立っていた。スマートフォンを霧に向けて構えている。ライトは点灯していない。
「小倉の指示。新野が出てくるまで警戒していてくれって」
「何があったんだ?」
とりあえず、おれもスマートフォンを霧に向けた。
「とにかく、行けばわかる」
と言って歩き出す小林に、おれは続いた。バスの前側から右側へと回り込む。
おれと小林以外の六人が、半円を組んでバスのリアタイヤを取り囲んでいた。
「宗佑」
声をかけると、宗佑がおれを見た。
「ニッタ、どうだった?」
憂いの表情の宗佑と、みんなが取り囲んでいる何かとを、おれは交互に見た。
その何かは、同じブレザーを身につけた男子だった。リヤタイヤに背中を当ててしゃがみ込んでいる。死んではいない。がたがた全身を震わせている彼は、眼鏡をかけていた。
とにかく、報告が先だ。
「運転手の死体は別として、誰もいなかった。でも、混乱の跡はあったよ。みんな、慌てて外に出たようだ」
「そうか、ありがとう」
この報告をどう受け取ったのか、それはわからない。恋人の安否が不明のままでは、憂慮が払拭できたとは言えないだろう。
「で、そこにいるのは?」
目下の渦中となっている人物を、おれは見下ろした。
「
宗佑の答えを耳にする直前に、おれはその男子の顔を認識していた。一組の生徒であり、松井と同様、須藤のグループからいじめられていた一人だ。小柄で痩せぎすの、引っ込み思案な生徒だ。
「じゃあ、落ち着いて説明して」
身を屈めて話しかけているのは、早瀬だった。
「えっと、あの……」吉沢はうつむいたまま口を開いた。「バスは温泉街に向かっていたんだけど、山の中で、霧に包まれちゃって。だから、バスはゆっくり走っていたんだ。でも突然、バスが急停止してさ。その直後に、フロントガラスを砕いて、何かが運転席に飛び込んできたんだよ。それで……」
声を詰まらせ、吉沢はかぶりを振った。
「大丈夫だよ。わたしたちも同じ目に遭ったの。でもね、詳しいことがわからないのよ。知っているだけでいいから……聞かせて」
いつもの早瀬ではなかった。こんなに優しい口調で語る彼女を、おれは知らない。
吉沢がわずかに顔を上げた。
「運転席が静かになったんだよ。飛び込んできた何かは、外へ出ていっちゃったんだ。その様子を見ていた生徒は、口々にこう言っていた。翼の生えた大蛇だった、って。大蛇が頭だけを突っ込んで、運転手のおじさんを食べてしまったんだ」
「やっぱり、同じだ」
小林が言った。
「吉沢くんは、ここがあけぼの鉱山だって、わかる?」
早瀬の質問が続いた。
「え……」吉沢は首を伸ばし、周囲を見渡した。「霧でわからなかった。そういえば、霧に包まれる前までとは、景色が違うような気がする」
「だいたいさ、おれらが目の前にいるってこと自体、おかしいとは思わね?」
いらだたしそうな声を漏らしたのは高部だった。
「高部くん、協力してくれる、って言ったよね? 脅してどうするの?」
松井が強気に出た。
「そうだった……すまなかった」
ばつが悪そうに、高部は口を閉ざした。
「吉沢くん」松井も身を屈めた。「バスが霧に包まれる前に、何か変わったことはなかったかな?」
「変わったこと……そういえば」
吉沢が松井を見上げた。
「何かあったの?」
「うん。なんていうか、お経のような声が聞こえたんだ」
吉沢の言葉に早瀬が首を傾げる。
「お経って、バスの中で聞こえたの?」
「ぼくだけが聞いたわけじゃないよ。みんな、なんだろう、っていう顔をしていた。お経っていうか、日本語でも英語でもない、意味不明の言葉だった」
吉沢の答えを聞いて、おれたちは顔を見合わせた。どの顔も、暗澹とした色だった。
「なあ吉沢」今度は宗佑が声をかけた。「言葉の意味はわからなくても、どんな声だったかはわかるだろう?」
「わかるよ。女の人の声だった。とても低くて、気味の悪い声。……まるで、魔女が呪文を唱えているみたいだった」
「まさか古賀ちゃん?」
思わず口走ってしまった。
全員の目がおれに集中した。
「確かに、古賀ちゃんは魔女みたいだ、って噂されていた」
重々しい口調で言ったのは有野だった。
「古賀先生……」吉沢が遠くを見た。「古賀先生の声、だったかもしれない」
「古賀先生が関係している、っていうこと?」
首を傾げた早瀬が、バスの後方に目を向け、体を硬直させた。
「亜希ちゃん、どうしたの?」
尋ねながら早瀬の視線の先を追った松井には、何があるのか把握できなかったようだ。
宗佑とともに、おれはバスの左後方に立った。
バスの後方も雑草に覆われているが、バスのタイヤの跡は、ほんの五メートルほどしかなかった。
「これは、ありえねーよな」
宗佑は言うが、ならば「別の可能性」が否定されなければならないだろう。
おれはバスの前に移動した。バスの前方の地面にタイヤの跡はない。
宗佑の横に戻り、自分の見解を伝える。
「このバスは後退してきたわけではないらしい。つまり前進してきて、停車した。なのにタイヤの跡は、これだけだ」
「急にここに現れた、っていうこと?」
タイヤの跡を見つめたまま問う松井に、おれは答える。
「そういうことになるかな」
「んなわけねーじゃん」高部だった。「アニメや漫画や映画じゃあるまいし、空間に穴が空いて、そこから出てきたってか?」
「だったら、高部が説明してみろよ」
躊躇なく反駁した。やはり高部は、松井を愚弄した低俗な男なのだ。
「なんだ、おれに意見するのか?」
すごみを利かせたつもりらしい。だが、あいにくとおれは、高部はもとより、須藤にも小林にも畏怖を抱いていない。
「尋ねるまでもねーだろう。おれが意見していることがわからないっていうのは、日本語が理解できないということだ。ばかかおまえは」
「新野、てめー」
振り上げられたこぶしだったが、すぐに動きを止めた。
高部の右腕をつかんだのは宗佑だった。
「そんなに死にたいんだったら、ここに置いていってもいいんだぜ」
その一言で、高部の表情が曇った。
「高部よ、おれはまだ死にたくないぞ」
さらに小林が言うと、高部の体から力が抜けていった。
宗佑は高部の腕を解放し、おれを見た。
「ニッタも冷静になろうよ」
佐々木の安否を気遣っているはずの宗佑に諭され、おれは頭を撃ち抜かれた気がした。
「そうだな。気をつける」
一言だけ告げ、高部から目を逸らすと、松井と目が合ってしまった。
大丈夫だよ、とでも言いたげに、松井は頷いた。
それだけでも、冷静になれる気がした。
吉沢も含めた全員を前にして、宗佑はこれまでのいきさつを簡単に語った。そして今からすべき行動を、口にする。
「スマホを構えて移動するのは変わりない。でも、資料館の方向は霧が深い。慎重に行くぞ。バスが無事な状態であれば、すぐにバスに乗る。それがかなわない場合は、資料館に入るんだ。陣形は、基本的に元のままだけど、吉沢はおれの横についてくれ。で、ニッタは……」
「高部と小林とともに、後ろを守る」
おれは言った。油断のならない高部から目を離すわけにはいかない。
「頼む。じゃあ、今から行くぞ」
号令をかけた宗佑は、南西と思われる方角へと向かって、すぐに歩き出した。続くみんなが、歩きながら速やかに陣形を作る。
右に高部、左に小林、という後列のさらなる後ろに、おれはついた。
高部はおれを見ようともしないが、右後方には絶えず目を配っていた。左後方を任された小林も、担当範囲の警戒を怠らなかった。
難しいのはおれのポジションだ。真後ろを任されたわけだから、歩きにくいことこの上ない。
一組のバスをあとにして一分と経たずに、深い霧がおれたちを包んだ。先頭の二人の背中がかすんでしまうほどの濃さだ。
「ライトをつけろ」
宗佑の指示が出た。
瞬時に、前後左右と上方にスマートフォンのライトが照射された。
おれは歩きながら上半身を右にひねり、右手のスマートフォンから放たれる光を真後ろに飛ばしていた。しかし、光は遠くまで行き届いていない感じだ。それだけ霧が濃い、ということなのだろう。
皆からはぐれないよう注意しつつ、また、雑草に足を取られないように注意しつつ、そのうえで後方の警戒を続けた。
鼓動が高鳴った。
湿気がまとわりつき、体中が重くなったような気がした。
誰もが、無口だった。
音がした。羽音だ。
「来たぞ」宗佑が言った。「怯んでスマホを落としたりするなよ」
そうなのだ。これを落とすわけにはいかない。しかし、意識をすればするほど、スマートフォンを持つ手を開いてしまいそうになる。
羽音が大きくなった。しかも、複数だ。
「わっ」と声がした。
光を後方に照射したまま前を見ると、高部の腰に人間の腕ほどもある灰色のロープ状のものが巻きついていた。そして次の瞬間、彼の体は右の霧の中に飛んでいった。
「助け――」
高部の叫びは、すぐに消えてしまった。
「ライトが効かないじゃないか!」
わめいたのは大場だ。
「ライトが隙間だらけなんだ。ほんの少しでいい、みんなのスマホを前後左右に揺らしてくれ」
宗佑が指示すると、それぞれの光が揺れ始めた。
おれは小林の横に並び、高部の持ち場を引き継ぐ。
八本の光が濃霧をひっかくが、羽音は続いていた。
嗚咽が聞こえた。松井かと思ったが、どうやら吉沢が泣いているらしい。
「吉沢くん、頑張って」
吉沢の真後ろについている松井が、逆手に持ったスマートフォンで光を天空に照射しつつ言った。
鈍い音がした。
有野が前のめりに転倒した。雑草に足を取られたらしい。
陣形の動きが止まった。
全員の視線が有野に集中する。
「ごめん」
詫びながら有野が立ち上がりかけた、そのときだった。
羽音が急接近した。
「きゃあああ!」
叫んだのは松井だった。
右上空から伸びている灰色の太いロープ状のものが、松井の腰に巻きついている。
おれはスマートフォンをほうり出し、松井のスマートフォンを持っていないほうの左腕を両手でつかんだ。
風を感じた。扇風機の「強」ほどの風圧だ。霧がかき混ぜられている様子は見えないが、羽音の発生源から吹いてくる感じである。
「松井、踏ん張れ!」
おれが声を上げると同時に、宗佑が動いた。スマートフォンをズボンのポケットに入れた彼は、宙に張られた太いロープ状のものに両手で組みついた。
立ち上がった有野が、松井の腰に巻きついている部分を握った。小林と大場も巻きついている部分を引き剝がそうと加勢する。
吉沢がライトの光を化け物の頭部があると思われる白い闇に向けた。
その光が、うっすらとしたシルエットをとらえた。ほんの四、五メートル先に、そいつは浮いている。胴の前半分を垂直に起こし、巨大な一対の翼で羽ばたいているのだ。こいつが蛇だとすれば、頭部は胴体の太さに対して少し大きめだろう。その容貌は、霧に遮られて窺うことができない。
もう一つの羽音が大きくなった。
おれの目の前をもう一本の太いロープ状のものが走った。
松井のスマートフォンが雑草の上に落ちる。
「ぎゃっ」
短い叫びが上がった。
松井の左腕から力が抜けた。
おれはなんとか踏ん張ったが、宗佑と有野、小林、大場の四人は四方に弾かれて転倒した。
松井の姿はなかった。
おれは両手で、ブレザーの袖がついたままの松井の左腕を持っていた。ちぎれた部分から、鮮血がしたたっている。
力が抜けてしまった。どうしても立っていられず、地面に両膝を突いてしまう。それでも、松井の左腕は離さなかった。
「うわあああ!」
誰かが叫んだ。
有野と小林、大場、吉沢の四人が、立ち上がるなり、資料館のほうへと走り出した。
見れば、おれのすぐ横で、早瀬が腰を抜かしていた。がたがたと震えながら、おれの手にある松井の左腕を見ている。
宗佑は立ち上がらず、四つ足でおれのところまで来た。
「ニッタ」
呼ばれたが、答えられない。
「ニッタ」
生き延びてどうなるというのだろう。またあの暗い家庭で日々を送らなければならないのだろうか。
「ニッタ」
松井はもういない。
「ニッタ」
おれは松井を守れなかった。
「おい、ニッタ」
おれに生きる資格などないのだ。
「ニッタ、しっかりしろよ!」
両肩を揺さぶられ、おれは顔を上げた。
おれと同じように両膝を突いた宗佑が、目の前にいた。おれの両肩をがっしりとつかんでいる。
「行こう」
宗佑は言った。
「でも……」
それだけで精一杯だった。声が出なければ、力も入らない。
「さあ、松井を楽にしてあげよう」
宗佑はおれから松井の左腕をそっと取り上げた。
「それ、松井なんだ。松井なんだよ」
「ああ。でも、連れて行けないんだ。だから、ここで眠ってもらおうよ」
捧げもののように両手で松井の左腕を持った宗佑が、ゆっくりと立ち上がった。そして、傍らの低い雑草の上に、松井の左腕を置く。
雑草の上でおれのスマートフォンが上方に光を飛ばしていた。それを拾った宗佑が振り向き、口を開く。
「おれたちは、生きなければならない。犠牲になったみんなは、生きたかったんだぞ。それなのに諦めてしまったら、犠牲になったみんなを裏切ることになる」
右腕を強引に引っ張られ、おれは立ち上がることを余儀なくされた。
「おれは絶対に諦めないからな」
宗佑に睨まれ、おれは首肯せざるをえなかった。
「わかった」
そして、宗佑の右手にあるおれのスマートフォンが、おれに差し出された。それを受け取ったおれは、宗佑の左手が血まみれであることに気づいた。
「宗佑、その手……」
「あいつの胴体にとげが並んでいて、それで切ったんだよ。小さい切り傷だからたいしたことはないけど、ほかのみんなも怪我をしたかもしれない」
そんな胴体に松井は巻きつかれたのだ。しかも、同じそれによって左腕を――。
宗佑は怪我を負ったが、おれのスマートフォンは雑草がクッションになってくれたのか、無傷だった。もっとも、同じく落ちたはずの松井のスマートフォンは、見つけることができなかった。ライトが点いていればたとえ下向きであってもすぐに見つけられそうだが、どうやらその光は出ていないようだ。
「あいつら、無事だといいな」
四人の走っていったほうを見ながら、宗佑は言った。そして、まだ立てないでいる早瀬に、怪我をしていない右手を差し伸べる。
「三人で行こう」
「うん」と頷いた早瀬が、左手を宗佑に差し出した。
去り際に画面が真っ暗なスマートフォンが落ちていることに気づいたが、少なくともそれは、松井のではなかった。
羽音は一つも聞こえなかった。
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