宗佑を先頭に、おれが右後方、早瀬が左後方についた。三人の守備範囲は頭上も含めて広くなったが、一人一人が細心の注意を払った。

 本音を言えば、気力は回復していない。松井の左腕が置かれたままの先ほどの場所へ戻りたいくらいだ。しかし、宗佑の言葉を閑却することはできない。犠牲になったみんなを、おれは裏切りたくなかった。

 三本の光が、白い闇の中を縦横に動き回った。羽音は聞こえないものの、近づけさせまいとするおれたちの必死の防衛策は休むことがなかった。

 どれほど歩いただろうか。前方にだだっ広いシルエットが浮かんだ。

「建物だ」

 宗佑が言った。

「資料館……だよね?」

 期待を込めた声を放ったのは、早瀬だ。

「ああ、間違いないな」

 宗佑のその答えどおりだった。進むごとに、資料館であることが明確になってくる。

 気づけば、周囲の霧が薄くなっていた。

「宗佑、ライトはどうする?」

「しばらくは点けておこう」

 おれに答えた宗佑が、「バスの様子が変だ」と付け加えて歩調を上げた。

 三人ともライトは点けたままだが、警戒態勢を維持している者はいない。

 駐車場の東の端が目の前だった。縁石以外に遮るものはなく、おれたち三人はそのまま敷地に入った。

「あれがおれたちのバスだよな?」

 愕然とした声を漏らした宗佑を、おれと早瀬は追った。

 バスは到着時と同じ位置にあった。しかし、外形がいびつである。

 おれたちはバスの右横で足を止めた。

 目を疑うほかになかった。絶望という文字が脳裏をよぎる。

 バスは中央が潰れていた。まるで巨大な何かに押し潰されたかのようだ。

 これでは、歩いてこの霧から脱出する以外に手立てはない。

「ねえ、見て」

 早瀬が周囲を見渡していた。

 駐車場のあちこちに、楕円形のへこみがあった。

「足跡じゃねーのか」

 そんな宗佑の言葉に、おれは意見する。

「足跡にしちゃ大きすぎるよ」

 ざっと見積もっても、差し渡しが三メートルはあろうかというへこみなのだ。深さは二十センチほどだろうか。

「蛇にしては大きすぎる生き物がいたんだよ」早瀬が言った。「しかも、それは翼が生えていて、空を飛んでいた。信じられないことが、現実に起きているんだから」

「そう……だよな」

 認めなければならないのだろう。松井が犠牲になったことも含めてだ。

「蹄みたいだな」

 足跡の一つを見ながら、宗佑は言った。

 確かに、先割れのつま先に見える。だが、そうだとすれば、これらの足跡は四方八方に向いていることになる。普通に歩いた様子――ではない。かなり派手なヒップホップダンスでもしたかのようだ。

「ちょっと待っていろ」

 言うなり、宗佑はバスに近づいた。そして、割れた窓から中を覗き込むが、よく見えないのか、フロント側から反対側に回った。

 おれと早瀬は顔を見合わせた。考えは同じのようだ。頷き合い、宗佑のあとを追う。

 宗佑は乗降口の横にいた。ひしゃげたドアが開口部を塞いでいるが、わずかな隙間はあった。

「入れないか?」

 おれが尋ねると、宗佑は首を横に振った。

「これでは無理だろうな。でも、中には誰もいないようだ。少なくとも、生きているやつはいない」

「資料館に入ったほうがいいと思う」

 即座に、早瀬は訴えた。

 資料館を見ると、いくつかの窓から明かりが漏れていた。少なくとも明かりがあれば、安心材料が増える。この足跡の主からも守ってもらえるかどうかは、はなはだ不明だが。

「宗佑、そうしよう」

 おれが追従すると、宗佑は頷いた。

「だな。資料館の中で助けを待ったほうがいいだろう。みんなもいるかもしれない」

 おれたちは資料館の出入り口へと向かって歩き始めた。

 しかし、五歩と進まないうちに早瀬が立ち止まった。

「どうした?」

 宗佑が声をかけるが、早瀬は答えず、首を横に振りながら一点を見ている。

 見ないほうがよいものが、そこにあるに違いない。だが、早瀬が見ているのに見ないわけにはいかないだろう。

 例の足跡らしきへこみがあった。その中にバスガイドの制服がぺたんとへばりついている。いや、それだけではない。服の中身が潰れてアスファルトに圧着してるのだ。内蔵や、その中に詰まっていたらしいものまでが、へこみの中に広がっている。

「ニッタ、行くぞ」

 宗佑は言うと、スマートフォンをズボンのポケットにしまい、その手で早瀬の腕を引っ張った。

「あ、ああ」

 声にならない声で答え、おれは宗佑と早瀬のあとに続いた。歩きながら、スマートフォンをブレザーの内ポケットに入れる。

「早瀬、スマホを落とすなよ」

 宗佑は早瀬の腕を引きながら注意を促した。

 足に力の入っていない早瀬は、言われるままにスマートフォンをブレザーの内ポケットに入れる。

 資料館の観音開きの玄関ドアは外側に開いていた。開館時間中は開いているようだが、この期に及んでも開きっぱなしというのが、どうにも解せない。

 玄関の照明が点いていないが、思えば先ほど入ったときも点いていなかった。どうやら日中は点けていないようだ。

 これらの現状に鑑みると、ここには誰もいないのかもしれない。少なくとも、蛇のような化け物が光を嫌うという事情を知っている者は、ここにいないだろう。すなわち、有野たち四人はここにまだ来ていない、ということだ。

 むなしさを感じながら玄関に入ると、背中を壁に当ててしゃがみ込んでいる男子がいた。

 束の間、おれたち三人は、玄関に入るのを躊躇した。

「よかった」

 口火を切った宗佑が、早瀬の腕を解放してドアをくぐった。

 おれと早瀬が、そのあとに続く。

 しゃがみ込んでいるのは有野だった。この様子では、ドアを閉める余裕などなくて当然だろう。

「無事だったのか」

 宗佑が有野の正面で片膝を突いた。

「なんとかな」

 苦笑を浮かべた有野は、額から一筋の血を流していた。

「あとの三人は?」

 宗佑の問いに、有野は首を横に振る。

「みんなやられた。おれも巻きつかれたけど、ライトを向けたら、ほどけたんだ。そのとき、やつの胴に並んでいるとげで頭を切っちまった」

「ここに救急箱があったら、お互い、応急手当をしようぜ」

 宗佑は自分の左手のひらを有野に見せた。そして自分の右腕を有野の左の脇に通して、有野を立ち上がらせる。

「ニッタ、そのドア、閉められるか?」

「やってみる」

 おれはドアを閉じようとしたが、ロックがかかっているようだ。

「待って」

 言いながら、早瀬が左右のドアの下部ロックを解除した。

 おれは手を伸ばして、左右のドアの上部ロックを解除する。

 その刹那。

 太いロープ状のものが玄関の中に、一直線に伸びてきた。

「ニッタ!」

 ドアを閉じろ、と言いたかったのだろう。その宗佑が支える有野を、この化け物が襲った。

「くっそおおお!」

 気合いを入れて、おれは観音開きのドアを内側に閉じた。

 怪物の胴体は固かった。ドアを思いきり閉じたのだが、まるで歯が立たない。

 ドアの外はいつの間にか濃霧に包まれていた。化け物の全身はやはり目視できない。

 不意に、化け物の長い胴がさっと玄関の外に引き下がった。

 瞬時にドアを閉じ、おれは振り向いた。

 呆然と立ち尽くす宗佑がいた。その足元に有野がうつ伏せに倒れている。だが、首がない。

 後ずさろうとして背中にドアが当たった。そして自分の足元を見る。

 有野の頭部があった。血まみれの彼は、目が半開きだった。

 我に返り、すぐにドアをロックした。

「もう嫌」

 早瀬が両手で顔を覆い、泣き出した。

「泣いてもいいから、奥へ行こう」

 宗佑に促され、早瀬は歩き出した。

「ニッタ」

 おれにも声がかかった。

「わかっていよ」

 やるせなかった。何人もの同級生が殺されてしまったのだ。それなのに、おれたちは逃げることしかできないのだ。

 歩き出そうとした俺は、壁にスイッチを見つけ、それを入れた。

 今更ながら、玄関に明かりが灯された。

 無残な遺体を残して、おれたちは資料館の奥へと進んだ。


 玄関の奥に自動ドアがあった。何事もなかったかのごとく、それが開く。

 ロビーに明かりが点いているが、人の姿はなかった。売店にも誰もいない。

 ロビーと展示室との間にドアはない。おれたちはそのまま展示室へと進んだ。

 展示室にも照明は点いていた。

 人の声がする。

 宗佑が片手を上げて、おれと早瀬を制した。

「静かに進むぞ」

 抑えた声で指示され、おれと早瀬は黙して頷いた。

 身を屈めて展示ケースの陰に隠れながら、おれたちは奥へと進んだ。

 この先で言葉が交わされているらしい。少なくとも男と女である。

 先頭の宗佑が展示ケースの角で足を止めた。おれと早瀬は、並んで宗佑の後ろで待機する。

「山田先生が彼女の名前をはっきりと口にしたじゃない。どういうこと?」

 声からすると若い女だ。聞き覚えのある声だった。かなりの剣幕である。

 宗佑が角から顔を少しだけ出した。

「誰なんだ?」

 小声で尋ねてみた。しかし、宗佑は片手で、待て、と合図する。

 おれはさらに腰を屈め、宗佑の横から奥の様子を覗いた。

「え――」

 声を吞んだのは、おれの横から顔を出した早瀬だった。

 壁と展示ケースに挟まれた広いスペースだった。片隅に休憩用のベンチがあり、真壁が腰かけている。その真壁を見下ろすように立っているのはスクールブレザーの女子だが、背中をこちらに向けているため、顔は見えない。もっとも、それが誰なのかは、すぐにわかった。

「澪ちゃん」

 早瀬がそっとつぶやいた。

 間違いなく、水野の後ろ姿である。

「脅されたんだよ」

 真壁はうつむき、両手で頭を抱えていた。

「彼女に?」

「ああ。あいつは澪とおれとの関係に気づいたんだ」

「それで、彼女に言われるまま、こんなところに決めたわけ?」

「そうだよ。そうするしかないだろう」

「だいたい、あたしたちがあけぼの鉱山に来たって、彼女にとってなんの得があるっていうのよ?」

 水野は真壁を問いただしてばかりだが、二人の関係がただならぬものであることは自ずとわかった。

「おれに聞くなよ」真壁は顔を上げなかった。「とにかく、おれは校舎の裏で彼女に脅された。そしてその様子を、山田先生に見られてしまった」

「校舎の裏? そんなところで話なんかするからじゃん。いくら普段は人がいないからって、学校の敷地内だし」

「話があるから校舎の裏に来てくれ、って言ってきたのは、彼女のほうだ」

「真壁先生が場所の変更を提案すればよかったんだよ」

「おれを脅すとは思っていなかったんだ」

「だってそれがなければ、真壁先生が山田先生を殺すこともなかったんだし」

 おれは声を上げそうになった。

 宗佑と早瀬が小刻みに震えている。

「そのうえ」水野は言った。「あたしは共犯者だよ」

「修学旅行初日を前にしたあの晩、澪が予告なしにおれのアパートに来たからいけないんじゃないか。サプライズだ、前夜祭だ、なんて言ってさ。……よりによって、あんなときに山田先生が怒鳴り込んでくるだなんて」

「真壁先生は悪くないの? あたしの突然の訪問に喜んでくれたじゃん。……そりゃあ確かに、下着姿の教師の背後で、全裸の女子生徒が布団にいれば、山田先生も怒るよね。君は教え子にも手を出してしまったのか、だもん。だからって、殺しちゃだめっしょ」

「懲戒免職だけは避けたかったんだ。おれたちの関係が明るみに出されたら、澪だって学校にいられなくなるんだぞ」

「何度も同じことを言うんだよね。年齢以上に老けてんじゃない?」

「なんだと」

 真壁が頭から両手を下ろし、顔を上げた。

「だってさあ、あたしはまだいくらでもやり直しが利くの。本当にあたしを愛しているんだったら、素直に山田先生に謝って、懲戒免職くらい受ければよかったんだよ」

「じゃあ、なんで山田先生の死体を運ぶのを手伝ったんだ?」

 いつもの真壁の顔ではなかった。白目がちの目で、水野を見上げている。

「それこそしょうがなかったの。だって、教え子と淫行に及んだ教師がその現場で教師仲間を殺害した、だなんてことになれば、若いあたしだって、さすがにやり直しはできなくなるかもしれないじゃん」

「自分だけやり直しが利けば、それでいいのか?」

「当然でしょっ」

 水野はぷいと横を向いた。わずかに見える彼女の表情は、男を支配する女王のようだった。

「あんなことのあとだもん、修学旅行なんて来たくなかったよ。山田先生が怒鳴り込んできたわけを聞くためだけに参加しただけなの。こんなことになるんなら来なきゃよかった。とにかく、この気持ち悪いところから早く連れ出してよ。あんな化け物に襲われたら、やり直しもできやしない。真壁先生だって、ここから脱出すれば、何事もなかったかのようにこれまでと同じ生活を送れるんだよ。犯行が発覚しなければだけど……そうなったら、あたしもやばいよねー」

「冗談じゃない」

 猛然と真壁は立ち上がり、両手で水野の首を締め上げた。

 体力の差がありすぎるのは考えるまでもない。水野は自分の両手を真壁の両手にかけるが、彼女の力ではどうにもならないだろう。

 おれたち三人は同時に飛び出していた。

「やめろ!」

 叫んだ宗佑が、真っ先に真壁の腕に飛びついた。おれと早瀬で、屈強な十本の指を水野の首から引き剝がそうとする。

 水野は白目を剝いていた。一刻を争う事態だ。

 一方の真壁は、おれたちが止めに入ったことなど意識していないらしい。血走った目で水野を睨んでいた。

 兆しがあった。真壁の指が開き始める。

「澪が悪いんだ」真壁の唇が震えていた。「澪からおれに近づいてきたんだ。おれは澪にそそのかされたんだ」 

 ついに、おれと早瀬は十本の指を完全に開かせることができた。

 刹那、宗佑が真壁の両腕を押し下げた。

 おれは真壁に飛びつき、宗佑に加勢した。

 床に両膝を突いた水野が、激しく咳き込んだ。彼女の背中を早瀬がさする。

「そういうことだったのね」

 おれと宗佑は真壁を抑えたまま、声のしたほうを見た。

 おれたちが進んできた通路とは一列違いの通路から、一人の女が歩み出た。ロングヘアにスカートスーツという姿は、一組の担任、古賀優美だった。

「どうして優美が……」

 とたんに真壁の全身から力が抜けた。それでも、おれと宗佑は彼の体を離さない。

 古賀はおれたちの近くで足を止めた。そして真壁を見つめる。

「修学旅行初日の朝、出発前に山田先生があなたのスマホに電話をかけてきたけれど、あれ、簡単なトリック、というか、自作自演だったんでしょう? おおかた、電話をかけてきたのは、水野さんね」

 咳き込んでいる水野以外は、全員が古賀に集中していた。

「優美、どうしてここにいるんだ?」

 真壁は呆然とした表情だった。

「どうしてわたしがここにいるのか、わたしが訊きたいわよ。変な生き物がたくさん飛んでいるし、この建物の外はひどい有様だし。いったい何がどうなっているの?」

「うそよ」言ったのは早瀬だった。「古賀先生が仕組んだことなんだわ。だって、一組のバスの中で呪文を唱えたじゃない」

「何を言っているの? 呪文?」

 古賀は眉を寄せた。

「本当なのか? このおかしな現象は、全部、優美の仕業なのか?」

 脱力しきった体で身動き一つ取れないまま、真壁は尋ねた。

「ごまかさないでよ」古賀は眉を寄せた。「あなたが水野さんと関係を持って、そのうえ、あろうことか殺人まで犯していたなんて。現に今だって、水野さんを殺そうとしたし」

 この言い草が、一部の生徒から「魔女」と囁かれるゆえんだ。おれも今、初めて古賀を魔女のように思った。

「優美が悪いんだ」

 泣きそうな声で真壁が言った。

「どうしてわたしが悪いのよ」

「優美がつれなくなったからだ」

「意味がわからない」

「おれを避けるようになったじゃないか」

「じゃあ、言うわよ。輝明さん、あなたが水野さんと関係を持つようになったことを、わたしは知ってしまったの。半年も前から気づいていたわ。別れを切り出したかったけれど、理由を訊かれたって言えるわけないじゃない。輝明さんと水野さんとの関係にふれるのが怖くて……というより気持ちが悪くてね。もしかして、わたしが気づいていなかったとでも思っていたの?」

「気づいていたなら……言ってくれよ」

 その一言で、古賀の両目が見開かれた。

 白いこぶしが飛んだ。

 おれは止めるつもりなどなかった。宗佑も動かない。おれたち二人は、まさしく古賀による刑の執行を補佐するかのごとく、真壁を押さえていた。

 鈍い音とともに真壁がのけ反った。古賀の右ストレートが正確に真壁の顔面にヒットしたのだ。

 おれと宗佑は真壁から手を離した。

 支えるものを失った真壁の体が、その場にへたり込んだ。口元を鼻血で汚した顔に教師としての威厳はもうなかった。

 未だにむせっている水野を一瞥し、古賀はおれと宗佑を見た。少しは落ち着きを取り戻したようだ。しかし、目つきは鋭い。

「あなたたちのほうが真壁先生より頼りになりそうね」

 おれは何も答えなかった。宗佑も口を結んでいる。

「古賀先生、わたしたちをどうするつもりですか?」

 水野の背中をさすりながら、早瀬が尋ねた。

「言うまでもないでしょう。あなたたちを無事に帰らせなきゃ」

「だって、先生は……」

 言いさした早瀬は、水野の背中をさする手を止め、わずかに震えた。

「ああ……なるほど」思い当たる節でもあるかのように、古賀は言った。「そういうことなのね」

 おれも宗佑も水野も、古賀の次の言葉を待った。

 静かに、古賀が宗佑に詰め寄った。

「わたしが魔女だから?」

 口を閉ざしたまま、宗佑はあとずさった。

「そうなんでしょう?」

 一歩、古賀が前に出た。

「なんていうか」宗佑は声を潜めた。「そういうあだ名というか」

「それも知っていたわ。みんながわたしを、魔女、と呼んでいる」

 古賀が目を細めた。

「古賀先生……」か細い声を出したのは、水野だった。「あたしが憎いんでしょう? 彼氏を奪った女だもんね……」

 水野は早瀬の肩を借り、二人揃って立ち上がった。

「そりゃそうでしょう。憎くないわけがないわ」

 自分の優位性を示したかったのだろうか。古賀は表情を変えずに答えた。

「だったら……あたしに呪いをかけたっておかしくない」

 水野は早瀬から離れ、古賀と対峙した。

「水野さんに呪いをかけることができれば、とっくにやっているわ」

 この状況をどう受け取ればよいのか、おれにはわからなかった。宗佑も同様らしく、黙したままである。

「殺しなさいよ」水野はもうむせっていなかった。「あたしを殺せばいい。もう、うんざり。大人なんて誰も信用できない。真壁先生もお父さんもお母さんも、大人はみんな自分勝手だよ。こんな世界に生きていたって、息が詰まるだけ」

「それは確かに子供の台詞ね。でも、真壁先生を寝取るなんて、子供にしてはませすぎていない? ただのわがままなだけな……ガキね」

 即座に水野がこぶしを握るが、同時に、古賀が水野のその右手首をつかんだ。

「殺しなさいよ……そう言ったばかりだったわね。それなのに、この手は何かしら」

 そして古賀は、水野を突き放した。

 よろめいた水野を、早瀬が抱き止める。

 憔悴しきった表情の水野は、早瀬に支えられながら、口をつぐんだ。

 おれと似ているかもしれない――そう思った。水野も居場所がなかったのだ。

 古賀は早瀬に視線を移した。

「さっき、呪文がどうとか言っていたけれど、どういうことなの?」

「吉沢くんから聞いたんです。バスの中で変な声を聞いた、って」

 早瀬が答えると、古賀は得心したように何度も小さく頷いた。

「そういえば、誰かがぶつぶつと何かを唱えていたわね。あれが呪文かどうかは知らないけれど」

「本当に古賀先生じゃないの?」

 尋ねたのは宗佑だった。

「当然でしょう。わたし、魔女なんかじゃないもの」

 うんざりとした顔だった。

 信じるべきなのか、おれには判断できなかった。宗佑の顔を横目で見るが、警戒を解いた様子は見受けられない。

 ふと、疑念が生じ、おれはどうにか口を開いた。

「古賀先生は、いつからこの資料館にいたの?」

 玄関は閉鎖したはずだ。それ以前にここにいたことになる。

「ついさっきよ。たぶん、あなたたちのあとから」

「入れるわけないよ。だって、おれたちが玄関のドアを――」

「玄関のドアは鍵がかかっていたわ」古賀はおれの言葉に被せた。「おまけに、内側には誰かが倒れていた。首が胴体から離れた状態でね」

「何それ」

 つぶやいたのは水野だ。

「なら、どうやって入ってきたの?」

 再度、おれは尋ねた。

「壁伝いに歩いたら、事務室の横にドアがあったのよ。そこから入ったわ。鍵がかかっていないのは、そこだけみたいだった。これで納得した?」

「ああ……うん」

 おれは首肯したが、すぐに宗佑が差し挟む。

「そのドア、ちゃんと鍵をかけた?」

「そうしたわ。でも、あの蛇みたいな生き物が本気を出したら、ひとたまりもないような気がするけれど」

「でも古賀先生は、あの霧の中を一組のバスから歩いてきたんでしょう?」

 今度は早瀬が問うた。

「ええ、そうよ。小嶋こじま先生や五、六人の生徒たちと一緒だったわ。誰かが、化け物にはライトを向けるといい、って言ったから、襲われそうになったとき、スマホのライトでそうしたのよ。確かに、それで助かったわ」

 小嶋は学年主任兼一組の副担任だ。物腰の柔らかいアラフォーのおばさんであり、おれや宗佑も含めた多くの生徒から母親のように慕われている。

「その生徒たちと小嶋先生は……」

 早瀬の声がかすれた。

「みんな、さらわれてしまった」

 演技かどうか見分けがつかないが、古賀はうつむき、首を横に振った。

「ちょっと待て」宗佑が言った。「大事なことが抜けていた」

「なんだ?」

 おれが問うと、宗佑は一人一人の顔に目を配った。

「展示室には窓はないようだけど、事務室があって、トイレもあるわけだろう。つまり、いくつもの窓がある、っていうことだよ」

「鍵!」

 早瀬が声を上げた。

「見てこなくちゃ」

 動き出そうとしたおれを、宗佑は片手を挙げて制する。

「真壁先生を残していくのもどうかと思う。連れていくわけにもいかない」

 当然だが、真壁は信用できない、ということだ。

「わたしも一人には、できないんでしょう?」

 古賀が自嘲の笑みを見せた。言われるまでもない。古賀も危険な存在である、とおれは認識していた。

「ここに残る班と、見回り班に分かれよう」宗佑が言った。「真壁先生はここに残る班、古賀先生は見回り班、でいいかな?」

 宗佑に尋ねられ、古賀は肩をすくめる。

「わたしと真壁先生が基準なのね。危険要因は分離させる。いいわよ、小倉くんの指示に従うわ」

「それから、早瀬と水野は残る班だ。いいな?」

 続けて出された指示に、早瀬と水野は頷いた。

「で、おれとニッタのどちらが見回り班になるかだ」

 宗佑はおれを見た。

「宗佑はここに残ってくれ。おれが見回るよ」

 すぐに答えた。

「あら、わたしとデート?」

 こんなときによく冗談が言えたものだ。むしろ普通の人間でないのなら、余裕はあるかもしれない。

「おれとデートをしてくれるかもしれなかった女の子は、さっき死んだよ。だから、おれはほかの誰ともデートなんかしない」

 目を逸らさずに言った。

「わたしと二人だけになるのは、その子の仇を討ちたいから?」

 古賀は無表情だった。「その子」が松井であるなど知る由もないだろう。

 半ば放心状態の真壁はもとより、ほかの三人も、口を挟む様子はない。

「古賀先生は本物の魔女だった、っていう証拠が見つかれば、考えてみる」

 本気だった。

「そのときは、気の済むようにしていいわ」

 古賀も本気なのだろうか。それとも、恋人を寝取られたあげく、こんな怪異に巻き込まれてしまい、やけになっているのだろうか。

「ニッタ、頼むよ」

「とりあえず、念のために展示室から確認する。さっき、ドアを見たような気がしたんだ。じゃあ、行ってくる」

 宗佑に頷き、おれは古賀とともに歩き出した。


「二組の別ルートをあけぼの鉱山にさせたのは、古賀先生なんだろう?」

 展示室の壁沿いを時計回りに歩きながら、おれは尋ねた。

「もしかして」古賀は首を傾げた。「さっきの真壁先生と水野さんの会話のこと?」

「そうだよ。校舎の裏で真壁先生を脅したのは、古賀先生なのか、っていうこと」

「さあねえ。わたしではないんじゃないかしら」

 こんな態度では信じられるわけがない。それに、腑に落ちない点はまだある。

「ほかにもある。古賀先生が魔女でないんなら、あまりにも主張が足らなすぎじゃん」

「そうかもね」

 横を歩く古賀は、曖昧なふうに返した。

「古賀先生はおれをばかにしてんの?」

「だいたい、魔女ってなんなの? 新野くんはどう思う?」

 改めて訊かれると、答えに詰まってしまう。

「どう、って……みんなが考えているような……」

「つまり、なんとなく考えているのよね。魔法というか、不思議な力でなんでもできる人、だなんてね」

 そうかもしれない。そうかもしれないが――。

「じゃあ、この現状はどうなの?」おれも問い返す。「温泉街へ向かっていたバスが、突然、あけぼの鉱山に来ちゃったり、蛇のような空飛ぶ化け物に襲われたり……これって、魔女と同レベルの不思議、じゃないの?」

「そこからして、とらえ方を間違えているのよ」

「間違えている?」おれは眉を寄せた。「どういうこと?」

 古賀から答えを得る前に、歩き出して二つ目の角に突き当たった。その突き当たりに観音開きの大きめのドアがある。搬入口らしい。

 左右のドアノブに両手をかけてみるが、びくともしなかった。

「大丈夫なようね」

「うん」

 おれたちは歩き出した。

「それで、間違えているというのは?」

 歩きながら、続きを促した。

「科学的に考えたほうがいい、ということよ」

「あの化け物たちを科学的に考えるなんて、そんなの無理じゃん。未知の生物、っていうか……UMAユーマとか?」

 そういえば古賀は、あの化け物たちを「生き物」と称していた。少なくとも妖怪の類いとは考えていないのだろう。

「そうね」古賀は言った。「一組のバスがここに来ちゃったのも、ワープみたいな……時空の壁を突き抜ける瞬間移動かもしれない」

「ちょっとそれは……科学的というよりSFじゃないかな」

 魔女と同レベルの不思議などと揶揄されたが、古賀の話はテレビの超常現象特集並みのレベルだろう。

「新野くんは呆れているかもしれないけれど、魔法というファンタジー世界のファクターに比べたら、SFのほうがまだ現実的よ。だから、魔女なんてばかばかしいと思ったわけ。まともに請け合っていられないわ。あだ名でそう呼ばれるほうが、まだ笑っていられる」

 もし古賀が魔女ならば、おれを混乱させようとしているに違いない。魔女でないのなら、単なる妄想癖か、もしくは、この現状と真壁の不義が影響して精神に異常を来した、とも考えられる。

 もう少しで元の位置だ。宗佑たちの姿が見える。彼らに異常はないようだ。

 とりあえず、展示室にはほかにドアや窓はないらしい。時間を短縮するために、宗佑たちの少し手前で、ロビーのほうへと進路を変えた。

 展示ケースの陰に入る前に、おれは片手を挙げた。

「展示室に一か所、ドアがあった。確認済みだよ」

「わかった」

 宗佑も片手を挙げた。

「わたしを疑っている場合ではないでしょう。急いだほうがいいんじゃない?」

 どうしても言い方が気に障る。これでは真壁に愛想を尽かされるのも無理はないだろう。

「そうだね」

 言われるまでもない。少しだけペースを上げた。

 ロビーに入ると、すぐに左に折れた。

 売店の隣に三つのドアが間隔を置いて並んでいた。左と中央はガラスなどの類いのないドアで、右はガラス張りのドアだ。

 おれは左のドアを確認した。施錠してある。

「そこから入ったのよ。鍵はかけてあるでしょう?」

 高飛車な言い草だった。

 おれは中央のドアの前に移動した。ノブには鍵の類いが見当たらない。ドアはすんなりと開いた。壁の手前にスイッチを見つけ、それを入れる。

 どうやら備品室らしい。狭い部屋だ。キャビネットにはいくつかの段ボール箱やたたまれたブルーシート、清掃用品、工具箱などが並んでおり、その手前には一台の手押し台車が置いてある。

小さな窓があった。閉じてはいるが、すぐに確認する。これも施錠してあった。

 照明を点けたままドアを閉じたおれは、右のガラス張りのドアへと移った。ドアの向こうは照明が点いている。事務室であることは、すぐにわかった。

 ドアはすんなりと開いた。古賀の前に立って、おれは中へと入った。

 事務机が四つあった。二つずつ、向かい合うように据えてある。それぞれの机にノートパソコンと電話機が一つずつあり、書類やファイルが広げられている。そのほかに、キャビネットやコピー機などの事務用品が見られた。もっとも、人の姿は皆無だ。

 窓の外は相変わらずの濃霧だ。見える範囲に化け物はいない。

 おれは窓の鍵の一つ一つを確認した。すべてが施錠してあった。

 手前の電話機の受話器を取ってみた。電源は入っているらしい。しかし110番や自宅、自分のスマートフォンのどれにかけても、「ツー」という音が聞こえるだけで反応はなかった。あとの三台でも試したが、結果は同じだ。

「念のため、ここも確認したら?」

 古賀が指差したのは、受付カウンターに繫がるドアだった。

 相変わらずの口調に反論したかったが、おれは無言で行動した。

 そのドアは半開きだった。こちらもガラス張りである。

 カウンターの向こうに有野の下半身が見えた。

 顔を背け、ドアを閉じてロックした。

 当て推量で棚の扉を開けてみると、救急箱が入っていた。僥倖である。宗佑の怪我も気になるが、今後も必要になるかもしれない。おれはそれを左手に持った。

「次に行こう」

 おれは古賀を促し、事務室を出た。

 事務室の反対側にトイレがあった。そこへと向かう途中、ロビーと玄関とを仕切る自動ドアの前で足を止めた。

 当然のことだが、自動ドアが開いた。

「自動ドアのロックはキーがないと無理よ」

 古賀の言うとおりだった。左右のドアの下部にロック用の鍵穴が見える。

 それより、有野の体と首がもろに視界に入ってしまった。

 数歩、後ずさり、自動ドアが閉まる。ガラス張りのドアなのだから、無論、有野の死体を隠すことはない。

「トイレを調べる」

 短く告げて、おれは歩き出した。

「女子トイレは、わたしが見てあげようか?」

 もう冗談はうんざりだ。次に言ったら躊躇せず殴る、そう決めた。

「だめだ。二人揃っていないと」

 こらえるのはこれが最後だ。

 トイレの前で足を止めた。右が男子用、左が女子用だ。ここのドアは鍵がなく、奥にも手前にも開くタイプである。

 おれは古賀を従えて女子トイレのドアを開いた。照明は点いていない。壁の手前側にあるスイッチを入れた。

 タイル張りの床に足を踏み入れた。三つの個室と洗面台との間を奥へと進む。

 個室のドアはどれも開いたままだ。何かが隠れていないことは、すぐにわかった。

 消臭剤のにおいが、かすかに漂っている。

 窓は一組だけであり、鍵はかかっていた。

 おれは振り向き、古賀を一瞥してから歩き出した。声をかければ、また憤ることになるだろう。余計なことは話さない、これに尽きる。照明を点けたまま、女子トイレから出た。

 男子トイレも照明が落とされていた。おれはドアを開けると、すぐに照明を点けた。

 洗面台の前の床に、バスの運転手のものと思われる制服の上着が落ちていた。近づいて見下ろすと、血まみれだった。

 そして気づく。窓が全開だった。

 救急箱を左手に持ったまま、慌てて窓を閉め、鍵をかけた。

 振り向いたおれと目が合った古賀が、一つしかない個室を無言で指差した。ドアが閉じている。

 おれはそのドアの前に立ち、耳をそばだてた。

 衣擦れが聞こえた。息遣いも伝わってくる。

 ドアを凝視している古賀は、自分の手を使って確かめることを拒んでいる様子だ。

 はなから期待していないおれは、そっとドアノブに手をかけた。

 鍵がかかっていた。軽く揺すってみたが、開く様子はない。

「ひっ」

「嫌」

 ドアの内側から二つの声が同時に聞こえた。どちらも若い女だ。女子生徒だろうか。

 おれは横目で古賀を見た。

 任せる、とでも言いたげな顔だ。

 軽く二回、ノックし、「誰かいるか?」と声をかけた。

 十秒ほど待ったが、返事はない。

 おれは古賀を見た。おれの目力がいかほどのものかわからないが、古賀は渋々と口を開いた。

「わたしは二組の古賀よ。うちの学校の生徒なんでしょう? ここを開けて」

 それに反応したかのように、ドアの内側で何やらひそひそと会話が交わされた。

 ほどなくして、鍵を開ける音がした。

 おれが手を出すまでもなく、ドアが内側にゆっくりと開いた。

 狭い個室に二人の女子生徒がいた。便座の左右に別れて立っている。

 小柄なほうは、城ヶ崎じょうがさきという一組の生徒だ。おれは個人的に口を利いたことはない。

 そしてもう一人も一組の女子だ。ロングヘアで色白の彼女は、宗佑の恋人、佐々木だった。

「新野くん……」

 佐々木はおれを見て目を丸くした。

「無事だったのか。宗佑も無事だ。この奥にいる」

 とにかく宗佑の無事を伝えた。

「本当? よかった」

 安堵の表情で涙ぐむ佐々木が、城ヶ崎とともに個室から出てきた。

「それにしても、どうしてこんなところに入っていたんだ?」

 個室を一瞥して、おれは尋ねた。

「あのね……」

 ためらいの色を浮かべて、佐々木は血まみれの上着を見下ろした。

「これを着ていた人……っていうか、たぶん二組のバスの運転手だと思う」城ヶ崎が言った。「その人が、わたしに襲いかかってきたの」

「運転手が?」

 古賀が割って入った。

「はい」城ヶ崎は頷いた。「わたし、バスから逃げ出したあと、みんなとはぐれちゃったんです。そしてこの建物の正面入り口に逃げ込んですぐに、トイレの前でその人につかまって、男子トイレの中に連れ込まれたんです。それで……体をさわられて……」

 言葉に詰まったようだ。城ヶ崎は目を潤ませていた。

 佐々木が話を繫ぐ。

「城ヶ崎さんのすぐあとにわたしがこの建物に入って、彼女がトイレに連れ込まれるのを見ました。それで、二人を追いかけて、その運転手に体当たりをしたんです」

 さすがは宗佑の恋人だ。普段から活発な佐々木ならではだろう。

「どうして運転手が……」

 古賀が眉をひそめると、佐々木は答えを続けた。

「床に尻餅をついた運転手は、どうせみんなあの化け物に食べられてしまうんだから、最後くらいは好きなことをしたかった、って言っていました」

「でもさ」おれは佐々木に尋ねる。「その運転手はどうしちゃったんだ?」

「開いていた窓からあの長いのが伸びてきて、それに巻きつかれちゃったの。わたしたちはすぐに個室に逃げ込んでドアを閉じたわ。その人の叫び声が聞こえて……あとはわからない」

 ならば、ここの職員たちもあの化け物に襲われた可能性がある。

 ふと、おれは思い立った。再度、佐々木に問う。

「佐々木たちがこの資料館に入ったとき、運転手以外に人はいなかったか?」

「どうだろう……少なくとも、わたしはほかの人の姿を見ていないよ」

「個室の外の様子はどうだった? 足音とか話し声が聞こえたとか?」

「そういえば、個室に入って一分くらい経ってから、自動ドアの開く音がして、ロビーを走る複数の音がした。二人ぶんくらいだったかな? 奥の方へ行ったみたい。その五分くらいあとに、また自動ドアが開いた。今度の足音も複数だったけど、ゆっくりと歩いていた感じ。あとは、物音が何回か聞こえて、それからしばらくして、新野くんと古賀先生が来たの」

 おそらく、走って奥へ行ったのは、真壁と水野だろう。ゆっくりと歩いていたのは、おれと宗佑、早瀬の三人に違いない。何回か聞こえた物音は、おれと古賀が確認のために回っていたときの音だ。もし古賀が事実を言っているのなら、古賀が事務室の隣のドアから入ってきた音も含まれるだろう。

 ならば――と、おれは古賀を見た。

「古賀先生は事務室の横から入ったんだよね? そこ以外は入れなかった、って言っていたもんね」

「そうよ」

「ここの窓が開いていたことには気づかなかったの?」

「だって、こっち側は回っていないわよ。正面玄関から事務所のほうに回ったんだもの、気づくわけないでしょう」

「鍵がかかっていなかったのはそこだけだったんだろう? ていうことは、ほかに入れるところはないか、確認したわけじゃん」

「正面玄関が入れないから、勘で時計と反対回りに回ったわ。事務室の窓を開けようとしたけれど開かなくて、その先にあったドアを試したら開いたの。わたしが把握した鍵がかかっていたところは、正面玄関と事務所の窓、それだけよ。ほかのすべてのドアと窓も確認したように聞こえたのなら、ごめんなさいね。言葉の綾よ」

 悪びれる様子もない。むしろ嫌悪をあらわにしている。

「本当はそれ以前に資料館に入っていたんじゃないのかな、と思ってさ」

 おれは古賀から目を逸らさなかった。

「仮にそれ以前に入っていたとして、何か不都合でも?」

 古賀もおれを睨んでいる。

「佐々木たちが入ってくる前に、すでに資料館に入り込んでいて、身の安全を確保しておいた、とかね」

「何が言いたいのか、わからないわ」

 このおれと古賀のやり取りを、佐々木と城ヶ崎が固唾を吞んで見守っていた。口を挟む余地もないのだろう。

 そう、今は口を挟んでほしくない。ほしくないからこそ、おれはさらにたたみかける。

「この現象を意図的に引き起こしたのなら、あの化け物たちの習性を知っていてもおかしくはない。いち早くここに身を隠して。次の段階をひっそりと待っていた。違うかな?」

 もう少しで化けの皮を剝ぐことができる。そう確信した。

「なんでわたしがそんなことをしなくちゃいけないのよ。それに、次の段階って何?」

「真壁先生と水野に復讐すること、だよ」

「ばかばかしい」古賀は失笑した。「わたしが魔術を使ったとでも? そんなこと、できるわけないでしょう。それが可能ならば、もっと効率よくやるわよ。たった二人に復讐するために、こんな大げさなことをするだなんて」

「二人だけを狙ったら、色恋沙汰が明るみに出されちゃうじゃん。それは恥ずかしいし、この異常自体に自分が関与していることが疑われるもんな。その他大勢も巻き添えにすれば、自分の復讐を隠蔽できる」

「やってられないわ。さ、早く小倉くんのところへ行きましょう。佐々木さんだって、早く彼氏に会いたいでしょうに」

 古賀は佐々木を見るや、背中を向けて男子トイレを出ようとした。

「ふざけんなよ。テメーの勝手な復讐のせいで、大勢が死んだんだ。生きたまま、あの化け物に食われたんだぞ。生きたまま……引き裂かれて……」

 松井の左腕が脳裏をよぎった。

 視界が滲んだ。どうやら、おれは泣いているらしい。

 足を止めた古賀が、振り向いた。呆れたように肩をすくめて、言う。

「その話はあとで聞いてあげる。今は、どうやってここから……この現状から脱出するかが先決でしょう?」

 そして彼女は男子トイレから出ていった。

「どういうこと?」

 佐々木がおれに問うた。

 右手で両目をぬぐいつつ、おれは答える。

「真壁と水野はできていたんだ。だから、古賀は復讐のためにこの修学旅行に呪いをかけたんだ」

 佐々木と城ヶ崎は互いに顔を見合わせると、再びおれに視線を戻した。

「真壁先生と水野さんが……そんなまさか……」佐々木は驚愕の表情だった。「それに、復讐とか呪いだなんて」

「とにかく、宗佑のところへ行こう」

 おれは強引に話を締めくくると、佐々木や城ヶ崎とともに古賀のあとに続いた。

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