7.3 イニシエーション

「私の母親は実に男を見る目のない女だった。子育てから仕事まで一手に引き受けてニートの旦那を日がなパチンコに行かせるような馬鹿な女だった。でも一人目の父親は子供にとってはそんなに悪い父親じゃなかった。子供にとっては、だ。この歳になって思い返してみれば本当にろくでもない堕落した人間だったね。家にいる時はゲームをしているか、飯を食っているか、寝ているか、そのどれかだった。ゲーム以外にもいろんな遊びを教えてくれた。虫取りとか、水切りとかね。でも仕事はしなかった。ハローワークに行って、三日から長くて二週間。そのあとしばらく家に居着く。だから母親の方がよほど継続的に働いていたね。昼も夜もいくつか掛け持ちして、私と弟に必要最低限の金をかけ、欲しがる分だけ父親に渡していた。もしももう少し仕事が堅気で男女が逆だったら、不思議なことだけど、それでだけで案外まともな家族に見えそうなんだよ。そう思わない?」

「かもね。話を聞いただけなら」と言ってサキはちょっと首を傾げた。

 私は感情が入らないようにゆっくり話を続ける。

「でも、だとしても見えそうなだけだ。そして実際、本当に金がなくなると父親は母親が働いてるスナックまでせびりに行った。そう、せめてそれさえしなければ未来は違ってたな。そこになかなか人助けの好きな客がいて、父親を捻り上げて追い出したそうだ。二度と母親の金を持っていくんじゃないって。そこは聞いた話だけどね。そしてそれが母親の二人目の旦那になるわけだ。その男の家に移ってから元の父親には会ってない。どうなったのかは知らない。それはちょっと残念なことだ。何しろ遊び相手としては最高の父親だったからね。私が九歳の時だった。

 二人目の旦那、その男はとんだファシストだった。家族が自分のルールに合わないことをすると黙々と暴力をふるった。味噌汁が口に合わないだけでぶちまけて母親に張り手した。門限に五分遅れただけで弟を川に沈めた。機嫌を損ねるわけじゃない。ただ違うんだ。自分のルールと違っている。だから罰を下す。プレス機のように黙々と叩く。もちろん顔や腕に痣が残るようなやり方はしない。きちんと服に隠れるところを狙う。そういう奴だった。私もずいぶんやられた。私が一番反抗的だったから、一番叩かれた。でも母親は抵抗しなかった。逃げもしなかった。それはたぶんその男が対外的に家庭を守るということに関してはきっちりしていたからだ。妻と子供にきちんと金を入れていたからだ。暮らしの水準自体は高くなってただろうよ。暖かい家に住み、肉を食い、足に合ったスニーカーを履いていた」

「政府の統計みたいだ」

「そうだよ。私はいい暮らしをしてたんだ。クソヤロウ。とはいえ奴にも娯楽はあった。週末どこかへ連れて行って円満な家族のふりをするんだ。その間奴は決して恐いことはしなかった。お人好しみたいな顔をして、何をしても怒らない。その場ではね。そして家に帰った途端一つずつ丁寧に思い出してきっちり叩くんだ。本当に表と裏のはっきりした奴だった。で、その調子で夏休みや春休みには遠くへ行く。だから四国の森に連れ込まれた時も最初は気付かなかった。本当に巧みなんだ。母親が車で眠っている間に道からうんと離れた川原に誘い込んで、食べ物を持ってくるから弟の面倒を見ていろと言って、自分は車で行ってしまう。母親が目を覚ましたら全然見当違いな場所を一緒に探すんだ。警察に言うのは日が暮れてからだよ。捜索は翌朝からになる。しかもそれも全然違う場所を探している。そんな向こうの事情は当時は知らなかったけど、でも森に迷い込んでから、これは本気で殺しに来てるんだってことが私にもわかった。あの男のことだから、それはきちんと計画を立ててから、まさにその時を狙って実行に移したんだ。私や弟の何がむかついたとか、決してそんなんじゃない。ただ単純に私たちがあの男にとって存在してはいけないものになっていたんだ。言動ではなく存在そのものがあの男の規範に反していた。それは抹消しなければならないものだった。きっと父親のこともそうやってこの世界から消しちゃたんだ」

「柏木は弟がいるんだ」

「いたんだ。始めは弟も一緒だった。二つ違いのわがままで弱虫な子供だった。他人よりできないことがあるとすぐ突っ立って泣き出すような。やつとの相性は最悪だった。泣くなと言われて余計泣くから、余計殴られて、そのせいでまた余計に泣くんだ。そうなるともう終わりがなかった。うんざりするくらい抜け出せなかった。

 話を戻すけど、私たちにあるのはちょっとしたアウトドア用品だけだった。ガスバーナーとか。それを二人でかついで道を戻った。でも元の通りには出なかった。あの男がわざと複雑な道を通ったんだ。そこには森が広がっていただけだ。その中で進むべき方角を探さなければいけなかった。でも森は暗くて、目指すべき方角を示すものもないし、一度通った場所を憶えておくための目印になりそうなものもなかった。私たちはいつの間にか当てどもなくさまよっていた。

 弟は森の中で死んだよ。野犬の群れに噛まれて死んだ。深い森の中にはいろんな生き物がいるんだ。人里では誰も想像しないような生き物に出くわすことがある。誰もそれを信じない。でもそれは確かに存在している。生きている。弟は死に、私は死ななかった。さっきも言ったけどさ、まさしくその時だよ、自分は殺されようとしているんだ、そして殺そうとしているのはあの男だって気付いたのは。だから私はやみくもに歩き回るのをやめた。ただ単に森を抜け出せばいいってわけじゃないんだ。然るべきところから抜け出さなければいけなかった。それを間違えれば私は先に進むことはできない。つまり家に戻るにしても自力でなきゃいけない。警察に送られたら真っ向から両親に引き渡されることになる。そうなったら今度はもっと直接的な形で命を狙われる。それじゃ駄目だ。

 だから誰にも見つかっちゃいけない。誰にも助けを求めてはいけない。よく考えて一番いい方法を選び取らなければいけない。それは群れをつくらない動物の在り方に似ていたかもしれない。生き残りのために全ての思考を捧げる。それは全然思索的な思考じゃない。勘のようなものかもしれない。だから、とてもとても難しいことを考えに考えていたはずなのに、私はその内容を具体的に思い出すことができない。ともかく、そして行動した。パーキングエリアでトラックの荷台に転がり込んだり、小さな盗みもした。残飯も漁った。幸いその頃はそういうことを日々続けている人間がそんなに少なくなかった。私は目立たなかった。男子みたいに髪を切り、服を変え、一番安い切符を買って無人駅で下りた。十歳の子供にそんなことができるなんて、私だって信じられない。今同じことをしろって言われたってできるかわからないくらいだ。でもその時はそうするしかなかった。そしてそれはたぶん事実なんだ。私が今こうして生きているということは、細かいところはともかく、大筋は間違っていないはずだ。

 母親は捜索の結果を待つってまだ四国にいたけど、あの男は仕事のために岐阜に戻ってた。だから一人だった。追い出された時のために鍵を一つ持っていたから忍び込むのは難しくなかった。当然眠っているところを狙わなきゃ勝ち目はない。でも眠ったふりをして待っているかもしれない。だから包丁を持ったまま一時間くらい枕の横で眺めていた。でも目覚めなかった。ちゃんと眠ってた。そうしているとどうしても恐い生き物には見えなかった。ただ私は勝負をつけなきゃいけなかった。できるだけ動き始めから刃先が届くまでの時間が短くなるように、構えずに、相手の上に落ちるように、その目を突き刺した。体重を乗せて深く。柄を回す。抜けない。包丁がもう一本ある。それで頸を切った。血はすぐに弱くなる。他の動物と同じだ、と思った。食われる動物がいて、食う動物がいる。でも私はその血には口をつけなかった。食うために殺したわけじゃない。もっと無意味に、ただ存在を消すためだけに殺したんだ。ただ死の感覚と痛みを感じさせるためだけに殺したんだ。私はそう思いながら何度も何度も奴の顔に刃先を立てた。それは快感だった。カタルシスだった。私は陶酔しながら抉り続けていた。気づくと奴の顔はボウルのように中身がなくなっていた。気づくと、か。なんで気づいたかって、手応えがなくなってたからだよ。

 それで私は電話を取ってやっと警察に言った。始めはいたずらだと思われた。だけど番号を確かめればわかる。それは捜索願いを出している親の番号だ。そして子供の声だ。ともかく警察はきちんと来てくれた。そして私は母親を売った。証言した。森の事件は別として、日常の虐待に加担していたのは母親も同じだって。自分の不幸の根源が母親にあるような気がしたから。結局母親は自分もあの男の暴力の被害者だってことを証明できたから収監はされなかった。精神治療を課せられただけだ。入院なんかより弟が死んだことと私が引き離されたことの方がよほどしんどかったみたいだけどね。ともかく私は親から離れることに成功したわけだ。施設を転々として、たらい回しにされて、九木崎に移ったのは一件から半年経った頃だったね」

「カシワギ・ヘキ」

「そう。それがその時にもらった名前、私の本当の名前だよ」

 ジャグジーの泡がごぼごぼと音を立てて水面で跳ねている。水流の吹き出し口に手を翳す。強い水圧はゴム球みたいな感触がする。

「でも私の母親は私のことをまだ諦めてなかったんだ」

「どういうこと?」

「大垣事件って聞いたことあるかい?」

「大垣?」サキは少しの間記憶を漁った。「ああ、知ってた。学校で習うよ。肢闘は周りにいる人間にとってもとても危ないものなんだ。扱いには気をつけなきゃならない。それを忘れたらこういうことにつながるからって」

 私は頷く。

 サキは私の様子をじっと見ていた。

「あれ、柏木のことなの?」

「うん」

「へえ」

「ひとつ主張しておきたいんだけど、あの一件に関して私は自分のことを加害者だなんて思っちゃいないんだ。正当だったと思う。母親は私のことを愛してないわけじゃない。でもその方法はいつも的外れで、それに無自覚なせいで大抵の場合私のことをひどく傷つける――精神的かつ肉体的にひどく傷つける結果になった」

「ずいぶん暴れてきたんだね、柏木」とサキは言った。湯船の縁に頭を乗せて目を閉じていた。

「そういう反応でよかったよ」私はふっと鼻から息を吐いた。「私は母親を恨んでた。でも殺さなかった。狙った相手の中で母親だけ。どうして? きっと母親を知らずにいたら今の私はなかったから。そう思ったからだ」

 サキはちょっと目を開けてそのままの姿勢で考えていた。白く細長い手足がジャグジーの泡の下で揺らいでいた。

「知らない親は他者ではない」ともう一度彼女は言った。

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