7.2 タチバナ・サキの形質

 陰鬱な気分だった。ハッチから抜け出して機体の尾部に下り、胴体天板の縁を掴んだまま弓のように伸びをする。でも頭は重い。眼球の後ろをぎゅっと押さえつけられているような感じがした。首を下に向けて左右に振る。

 プールでひと泳ぎすることにして水着やゴーグルを取りに一度部屋に戻った。檜佐はいなかった。賀西の仕事を手伝いに行くと言って工場の前で別れたきりだ。きっとまだ中隊の事務室にいるのだろう。

 十五時過ぎ。レーンは空いていた。念入りに体を伸ばしてから背泳ぎメインで泳いだ。スロー、ハイ、スロー、スロー、ハイ、スロー。そんなペースだ。あまり規則的ではない。天窓のごつごつしたガラスから鋼のような重苦しい光が差し込んでいた。明るいのに重苦しい。不思議な感触だ。見かけアルミニウムだと思って持ち上げたら鋼鉄の重さ。そんな感じ。

 あまり体を動かした実感はなかったけど二十分くらいで満足してしまった。心拍数を上げなかったせいでむしろ水に浸かっただけ体が冷えていた。採暖室に入ってベンチに腰掛ける。先客が二人いたけどどちらも何ら干渉してこなかった。挨拶どころかこちらに目を向けて誰なのか確認することもない。プライバシーを尊重する集まりのようだ。

 少し待ってから帽子を脱いで膝の上で絞る。温もった水が脛に伝った。空気そのものが霞んでいた。その霞がとても目の前にある。ガラスが結露して曇るのと同じように自分の眼球が曇っているみたいに感じた。ちょっと照明が暗いせいもあるけど向かいの人間の顔さえはっきりとは見えない。そんな中でタチバナ・サキが私を特定できたのは視力の問題ではなかったかもしれない。

「あ、知ってる人だ」と少女は最初に呟いた。

 目の前に誰かの腰が見えている状態でそんな声が聞こえたので私は顔を上げざるを得なかった。そういえば薄くて白い尻だった。学校用の紺一色の水着だ。

「私も知ってる」私は相手の顔をずいぶん見上げて答えた。髪をキャップに仕舞っているので結構印象が違った。顎の細さや頭の小ささが際立っている。

「名前、忘れちゃった」

「柏木碧」

「柏木」とサキは復唱した。いわゆる呼び捨てだった。

「いいよ、それで」私はちょっと呆れながら答えて、左隣のスペースを手で叩いた。そうでもしないとサキはいつまでも私の目の前に突っ立っていそうだった。彼女はその通りに腰を下ろした。「私は好きで時々泳ぎに来るけど、君も好きなの?」

「うん、まあ」とサキ。

「私が周りの人間を見ていないだけかもしれないけど、あまり見かけないね」

「寒いから。体が冷えるとすごく気分が悪くなるの。着替えるとこもこれくらい暖かければいいのに」サキはそう言いながら掌で太腿をこすって水滴を飛ばしていた。

「泳法は?」

「えいほ?」

「クロール、背泳ぎ、平泳ぎ――」

「クロール。一番泳ぎやすい」

「そう。そんな気がした」私は頷いた。

「柏木は?」

「今日は背泳ぎ」

「日替わりなの?」

「別にどれってないんだ」私は肩を竦める。「本当は潜水の方が好きなんだけど、潜水には泳法がないからね」

「そうなの?」

「たぶんね。足を揃えるかバタにするかくらいじゃないの」

「顔を見たらどの泳法が好きかわかる?」サキはキャップと髪留めのゴムを取って自分の後頭部を両手でわしわしと掻きながら訊いた。

「わかる時もある。あいつはバタフライだなと思ったらバタフライで泳ぎ始める」

「誰?」

「私の知り合いで、攻撃ヘリのガンナーがいるんだけど、そいつ」

「蝶のように舞い蜂のように刺す」

「蝶、バタフライ。いや、仕事は関係ないよ。何なら顔立ちも体格も関係ない。ただ何となく感じる。それだけだ。でも、だいたいは更衣室かプールサイドで。外で見ても駄目だね。泳げる人間か泳げない人間かはわからないんだ」

「変だね」

「まあね」

 サキは足の指先を少し動かした。横に広げそのまま握ったり開いたりする。踵を滑らせて足先を左右に振る。細い足首の先に金物の熊手のような細長い足の甲があった。

「ねえ、投影器のことを聞いてもいい?」サキは訊いた。

「アドバイスが欲しい?」

「違う。柏木はすごく潜れる。すごく簡単に潜る。たぶんフェローたちより上手い。潜るの上手い下手って理由があると思う?」

「センスによる、としか言えない。慣れだよ」

「遺伝的なものもあるのかな」

「親からの?」

「そう」

「投影器への適性が遺伝的形質か、ね」

「もちろん親たちは投影器に繋がれない。でも今までとても長い間隠れていたパラメータなのかもしれない。それか別の何かのパラメータに連動しているとか」

「それはなくはないだろうね」

 サキは唇を結んでまだ何か考えている顔だった。

「ジャグジーに行こう。ここは少し声が籠りすぎる」

 私が誘うとサキはすぐに腰を上げた。私は帽子をもう一度絞って太腿の上を拭った。採暖室の扉を引いてプールサイドに出る。屋内だが空気はつんと冷えていた。慣れれば外気よりよっぽど暖かいけど、採暖室は採暖室だ。

「君の名前、タチバナって一文字だと思った。木に矛に向かうの」私は前を歩きながら言った。サキの水着の裾に小さな白い名札が縫い付けてあるのが見えた。

「二文字の方。サキは花が咲くのサキ。一文字で咲だと二文字になっちゃうからだと思う」

 立花咲。

 歩きながらちょっと考えてみて、彼女はもしかしたらどこか外で私を見つけて追いかけてきたのかもしれないなと思った。寒いのが嫌いなのに泳ぎに来るってことは、何かしら目的があったんじゃないだろうか。まあそれはちょっと自意識過剰かもしれない。単に泳ぎたい衝動の方が勝ったってこともあるだろう。そういうことは私もよくあるからわかる。まあ、どちらでもいい。わざわざ確認するのも野暮だ。採暖室で見つけられるにしろ、どこか外で見つけられるにしろ、どうせ同じ偶然じゃないか。

 プールサイドに対空銃座みたいに一段高くなったところがあって、丸い銃座の中がちょうど刳り抜かれたようにジャグジー風呂になっている。二人で向かい合って脚を伸ばしても爪先が触れ合わないくらいの大きさがあった。水温は四十度をわずかに切る程度。なかなか気分がいい。前にあまり長い時間浸かっていたせいで間違って水着を脱ぎかけたことがあるけど、当然女湯ではない。採暖室と違って空間が広いしプールの水音もそのまま響いているので声は通らない。多少大きな声で喋っても誰も気にしない。肩の上に後ろからジャグジーの水流を浴びながら話を続ける。

「両親に感謝してる?」サキは訊いた。

「なんで?」私は訊き返した。とても冷たい口調になってしまったけど、それくらい馬鹿馬鹿しい質問に思えたのは確かだった。

「センスという形質を与えてくれたことについて」

「それはとても難しい質問だな。だけど、でも、否定はできないね。もしそれが本当に形質の問題なら。つまり、投影器の手術の精度やタイミングがそのセンスに全く影響しないならね」

「いつ受けたの?」

「十一歳。どちらかといえば遅い方だ。立花、君は」

「二歳」

「二歳? そんな早いってことがあるのか」私は驚いて首を持ち上げた。

「記録上はそうなってる。私は自分では全然憶えてない。ソケットがない頃の自分の首がどんなだったか」

「自分の親のことも記憶がないってことになるね」

「うん。気付いた時から九木崎の人たちに育てられてる。それって変?」

「いいや、別に変じゃない。でも決して多数派でもない」

「ソケットの設置が早い方が外部身体への適応性が高いんじゃないの? 色々な機体を自分のものにするためには本来の肉体の身体感覚が固定化する前に外部身体を何度も経験する方がいいって」サキは言った。

「らしいね。それが通説だ」

「私も例外だし、柏木も例外」

「そう考えると確かに形質かもしれない」

「形質だよ」

「かもしれない、だ。そう簡単には信じてやらない」

「柏木は投影器に潜るの好き?」

「まあね。でも、どうして?」

「潜るのが好きじゃないと得意でも楽しくない。遺伝に感謝する前提。忘れてた」

「なかなか論理的な思考をするね」

 浅く座っていると腰が浮いてきて頭が沈みそうだったのでサキを蹴飛ばさないように気をつけながら背中を上にして顎を湯船の縁に乗せた。向かいのプールサイドで日焼けした男子の五人組が腕をぶんぶん振り回しながらストレッチしていた。

「私は自分の親が嫌いだから、親のことを知らないっていうのは気楽だって思うけど、そういう気楽さは危ないんだろうね。嫌いな親のことを知らずに生きていくというのは、放っておいたらそっちへ近づいていってしまうということだ。気付いたら親と同じような人間になっている。私はそれはごめんだ」

 サキは両手で水面をかき混ぜながら自分の手元に目を落としていた。私の言葉を頭の中で反芻しているみたいだった。少ししてから独り言のように「その悪しきを知らぬがゆえに子は親に似通う」と呟いた。「他者と認識するから子は親と別の人間になる。知らない親は他者ではない」

 ――知らない親は他者ではない。

 私もまた彼女が言ったことを一度頭の中で繰り返した。

 話を続ける。

「自分の親を素直に尊敬できるならそれに越したことはない。知っていても、知らなくても、近づいていくことに抵抗する理由はない。羨ましい。立花はどっちだと思う? 自分の親が尊敬できる人間か、それとも忌避すべき人間か」

 サキは肩を浸したまま少し平泳ぎのように伸びて私の横へやってきた。くるりと回って座る。そこにはジャグジーの水流は当たらない。

「よくわからない」彼女は答えた。「誰も私の親の話をしてくれなかった。なんで自分で育てようとしなかったのか不思議だけど、でもそこには何かとても複雑な理由があったのかもしれないとも思う」

「恨むことも慕うこともできない」

「そう」

「それもまたしんどいのかもしれないね」

「うん」

 私はサキの首筋を見た。髪を上げた項の下に窩が露出している。窩の蓋はメンテナンスで交換することもあるけど基部はガラスが割れたり膿が出たりしない限り外すことはない。年々改良が進んでいて取りつけた時期によって見かけが違うのだけど、彼女の窩の基部は私と同じタイプだった。ただ縁の部分が皮膚組織と強く癒着している。取り付けの時期が早い子供の窩にみられる傾向だ。

「代わりの育ての親は近くにいて影響されることはできる。でも離れていれば似通っていくことはない。それは、他人だから」サキは言った。

 それから彼女は何か言いかけたように半端に口を開いていた。言葉を組み立てるのに時間がかかっている。それはちょっと彼女らしくない様子に思えた。

 呼吸二つ分ほどおいて続ける。

「私は二歳で九木崎に来た。九木崎に来る前のことは憶えてない。その代わり、博士やアオイさんは自分たちを本当の親だと思ってほしいと言っていた」

 私は半ロールして仰向けになり、今度はきちんと座る。膝を立てて腕を乗せる。

 私は自分の昔のことをサキに話すことにした。直接頼んだりなんかしないけどサキがそれを望んでいるのはなんとなく察しがついたし、彼女になら話してもよさそうだった。彼女は無害に思えた。つまり私の話を聞いたところで、悲しみだとか同情だとか、そういった余計な感情を起こさない気がした。彼女の中に投げ込まれた私の話は全くそのままの形でどこかにひょいと置かれて、そのまま忘れられて、そのうち小さく溶けて消滅してしまうような気がした。

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