8.1 悪童

 私は九木崎女史と初めて会った時のことを思い出した。十年以上前のことだ。

 彼女は私のいる飛騨の児童養護施設を訪ねてきて施設長と客間で話していた。廊下を通った時に事務室の中から大人たちの話し声が聞こえた。どちらかが子供を何人か引き取るとか、そういう話に聞こえた。行政の人間が訪問してきたのだろう、また施設を移されるのか、と思った。引き戸の隙間から黒い人影が見えた。横顔が見えた。恐そうな人だなというのが第一印象だった。彼女はたぶんまだ二十代だったけれど、若い女にそういう感想を抱くの珍しいことだった。

 その客の対応に施設長ともう一人入っていたせいで人目が少なくなって年長の十二歳くらいの男子たちが好き勝手横暴をやり始めた。年下の服装にいちゃもんをつけてズボンの中にシャツを入れろだとか道理のかけらもない圧政を敷いていた。大人はそれを見てないのだ。反抗心の強い八歳くらいの男子が歯向かってしっぺ返しを食らう。シャツを掴まれる。当然幼い方が力負けする。

 私は他の女子たちと一緒に食堂で宿題をやっていた。女子は大将の管轄外だからとやかく言われない。そういうわけで無視していたのだけど、しばらくしてボタンが飛んできて私の耳に当たった。たぶん八歳の方のシャツから外れたボタンだった。そのボタンはテーブルに置いてあった私の下敷きの上に落ちてちょっとばかり独楽のように回って止まった。その様子を見下ろして私は短く首を傾げた。

 私はテーブルの籠に干してあった汁物用のお椀を取って投げつけた。お椀は人数分以上あったからほとんど無限に投げ続けることができた。飛んでいったお椀は角度によって風を受けて妙な変化球になった。外れるのもあったし、八歳の方にも当たった。でも私は私はお構いなしに上から投げつけた。相手も腕で顔を守った。相手は子分二人が隠れようとして、大将が一人で近づいてきた。

「おい、おい、お前には関係ないだろうが。何しやがる」大将は勝手に騒いでいた。

 私はお椀をいくらか抱えて投げながら距離を詰めた。

「おい!」相手の手が伸びて私の胸ぐらを掴んだ。

 私は投げるのをやめて持っていたお椀でガードの解けた相手の顔を殴った。猫パンチのように小刻みに殴って、あまり効いてなさそうだったのでお椀の縁を相手の目に押し付けることにした。

 それで相手がのけぞったのでお椀を放し、力を溜めて顎の下を拳で一度殴った。

 それで相手が倒れたので私は相手の上に乗って殴り続けた。

 相手もやられっぱなしではない。何度か私の顔を横殴りにした。

 残りの二人が戻ってきて私の髪を後ろに引っ張った。そのせいで下にしていた大将に手が届かなくなった。しかも起き上がって体勢をひっくり返した。私は床に手を伸ばしてお椀を拾ってひっくり返されながら振り回した。残りの片方の顔に当たる。そいつが顔を押さえる。お椀を見るとさっき大将が倒れた時に下敷きになったのか割れていた。

 大将は上になって私の顔を殴った。でもひっくり返されたといっても足を押さえられたわけじゃなかった。

 私は相手の腹の下に膝を入れて蹴飛ばした。大将は横に倒れてうずくまった。起き上がって残りの一人をひたすら殴った。

 自分の手を見ると右の人差し指と中指の爪が少し剥がれて血が滲んでいた。それに左目が変な感じだった。きちんと見えているけど、腫れているのかもしれない。髪を引っ張られたのも結構痛かった。まだうずくまっている大将の腹をもう一度踵で蹴飛ばした。

 それから私が息を整えている間にようやく大人たちがやってきた。お椀が散乱したリビングに男子が三人倒れていて、その真ん中に私が立っていた。食堂の女子たちはちょっとびっくりしつつもくすくす笑いあっていた。

 職員たちはとりあえず倒れている方に飛びつき、九木崎女史はその後から来て戸口で全体を眺めていた。

「君は強いな」女史が私を見て言った。

 私は何も言わずに内心身構えた。一つ手合わせ願おうか。そんなことを言われそうな気配だった。相手が大人では真正面から行っても勝ち目はなかった。

 施設長が女史に耳打ちした。たぶん私がいかに問題児なのかを教えていたのだろう。

 施設に入った時からわかっていたことだけど、私は手に負えない子供だった。誰を厄介払いしたいか訊かれて施設長が真っ先に挙げるとすればそれは私の名前だっただろう。

「君に話がある。手当てをしてやろう」女史は私の前に来て膝立ちした。すでに救急箱をひとつ確保していた。外部の人が子供の手当をするというのはあまりなかった。彼女は施設の職員たちより圧倒的に身なりがよくて、若くて、それに綺麗だった。それもまた不思議だった。別の世界から来たみたいに思えた。

 大将は起こそうとすると「あああああ」と言って呻いた。脇腹が痛いようだった。子分の一人は顔の左半分を覆った手の指の間から血を滴らせていた。もう一人は両方の鼻の穴から鼻血を垂らしていた。

 テーブルには割れたお椀の両側が揃っていた。血はついていない。肉を切っていれば血が付くだろうから傷は浅いはずだ。

「本当は割れるのはだめなんだ。あくまでひしゃげるのにしないと」

 私は自分の手を見た。爪と皮膚の間に血が溜まって相変わらず痛んでいた。

「痛いか」女史は訊いた。

「なんでやられた側じゃないのに私が怪我してるんだ」

「人間の体って脆いからね。乱暴に扱えば、まあそんなものだ」

 女史はまず私に手を洗わせて、消毒液をかけてから指にテーピングをした。それから携帯電話のライトをつけて私の左目に差した。瞼を開いて瞳孔を覗き込む。白目の具合を確かめる。

 施設のスタッフたちは大将たちの手当てにつきっきりだった。食堂の女子たちは相変わらずくすくすしていた。私の陰口でも叩いているのかもしれない。私のことをまともに気にかけているのは女史だけだった。「私は君を誘いに来たんだ」

「やっぱりそういう話だったんだ」

「そうだね」

「それで、どこに?」

「私たちの施設に。とてもいいところだよ。ここみたいな軋轢のないところにしたい」

「年齢で食堂とか風呂を分けるの?」

「そんな感じさ。結局、四六時中他人と一緒にいなきゃいけないってのはストレスなんだ。無用なトラブルの根源だよ。でも条件がある」女史は爪と肉を押さえるために指先に絆創膏を貼ったあと、私を外に連れ出した。室内だと声が響くからだ。外ではどこかでカッコウが鳴いていた。

「難しい条件?」

「そう。手術を受けてほしい」

「どんな?」

「頭の中に電極を入れるんだ」

「電極って、ワニぐちクリップみたいなやつ?」

「あれのもっと細いやつだね」

「痛そう」

「痛かないよ。麻酔してるからね。電極を埋め込むとそこに電気を流せるようになる。外から中に、中から外に」

「なんで電気なんか流すの?」

「体の外と神経信号をやり取りするため。君は目でものを見る。映像を目で電気信号にして脳に送ってるからなんだ。それはあくまで体の内側だけど、電極なら外側とつながれるかもしれない」

「頭の手術をするってこと? それってかなり危険なんじゃない?」

「察しがいいね。でも手術そのものは完璧だよ。危ないのはその後だね。電気を流すわけだ。あまり強すぎると脳みそを焼くことになるからね。そのあたりの加減が難しいんだ。その通り。酷い時は死ぬかもしれないし、生きていても言語機能、自制心、運動機能、感覚機能にダメージを与えるかもしれない」

「なんとか機能?」

「簡単に言うと、バカになるかもしれないってこと。体が動かなくなるかもしれないってこと。でも別にそれは強制じゃない。脳内電極が長い年月に渡って人の体に与える影響の臨床実験だから、電極を使うケースと使わないケースの対照、比較ができるというのは悪いことじゃない」

「電極を使う人間と、電極のない人間、どっちが強い?」

「それは使い方によるだろうね」

「オオカミにも勝てる?」

「オオカミに会ったことはないけど、身体能力という意味では、動かすものによっては、イヌに勝つことくらいならできるかもしれないね」

「ほんとに?」

「本当に」

「わかった。それならいいよ」

「私のところに来るってこと?」女史は少しきょとんとした。

「そうだよ」

「案外すんなり決めるんだね」

「自分の言ったことには責任持ってもらえそうだからね。それに、お姉さんはあれを見ても私を煙たがらない。他の人とは違う。少なくとも今までの施設のどこかよりはマシだと思うよ」

「そういうことなら、一緒に行こう。いつがいい?」

「いつでもいい。今でもいい。荷物なんて着替えくらいだし、こんなところに一日でも長居したいと思う?」

「じゃあ、支度をしてきな。連れてってあげるよ。本当はもう少し手続きが必要なんだけど、ここの人たちも協力してくれるだろう」

 私は三十分も経たないうちに荷物を鞄に詰め込んで玄関を出た。女史の車は古い型のトヨタ・スープラで、助手席は目一杯体を伸ばしてもつま先が奥に届かないくらい広くて、地面に埋まってるみたいに眺めが低かった。走り出すと地面のでこぼこがほとんどストレートに座席まで上がってきた。まるで尻の下で地面を滑っているみたいだった。

 私はそれまでの半年で十ヶ所近い施設を転々としていた。職員との衝突もないではなかったが、ほとんどの場合他の年長の子供との軋轢によるものだった。長いところでひと月、短いところで一週間持たなかった。引き取り手がなくて児童相談所で寝泊まりしたこともあった。むしろ相談所の環境が一番マシに思えた。別の場所へ移れるなら、少しでもマシな環境に期待できるなら、私はどこでも、いつでも構わなかった。だから女史の招待に乗った。比較的期待が持てる方だ、くらいに思っていた。私はまだ九木崎が本質的に児童養護施設ではないということを理解していなかった。

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