8.7 正当性などない

 再び潜ったのは五日後だった。九木崎女史が人手を連れて迎えに来て、私をストレッチャーに移して格納庫へ運んでいった。

 私のテストに使うのはリリウムではなくチューリップという機体だった。リリウムの一つ前の世代の機体だ。まだきちんとデータ採取を済ませていないリリウムで私の機能を測るのは難しいと女史は考えたのだろう。チューリップもハード的にはかなり洗練されたプロポーションをしているが、リリウムに比べるとまだ姿勢制御や運動をコンピュータ制御に頼っていた。直感と慣れで扱うのは難しい機体だった。コンピュータもかさばるし、その分バッテリーも大きいので胴と腰がちょっとごつごつして前後に長いデザインだった。

 当時の九木崎の肢機は試行錯誤だった。チューリップとリリウムは四肢の形状はよく似ている。しかし完全に同じではない。むしろ部分的に見れば全く同じ形状を見つけることはできない。フレームの構造も、モーターの配置も、配線の仕方も、全てリリウムの方が少しだけ洗練されている。チューリップを使っているうちに見えてきた改善点を反映しているのだ。チューリップのために新しい腕を造ったっていいわけだけど、その間に操縦系全体の見直しも進展するわけだから、いっそ全部作り直してしまった方が都合がいい。それくらいの速さで新しい肢機の設計が進んでいた。軍隊と違って数を揃えなければいけないわけでもなかったから、各型せいぜい一機か二機、多くて三機しか造らないのが常だった。

 チューリップは台車ごとグラウンドの手前に引き出されていた。諏訪の九木崎は山の斜面にあってガレージの裏手に林を切り開いた草地のグラウンドが広がっていた。あまり広くはない。肢機が走ったり跳んだりするのにぎりぎりの空間だった。座った肢機を台車で動かすのは千歳と同じだが、諏訪時代の台車は完全に構内用なのでさほど頑丈なものではなくて、額縁のような赤いフレームの四隅に小さなタイヤがついているだけだった。

 白い機体、長い腕、すっきりした肩回り、高さのある頭。戦闘を考慮しない諏訪時代の肢機に特徴的なデザインだ。操縦室は横開きで窓がついている。耐弾性が不要だからだ。そのドアの下にタラップをひっかけて乗り込むのだが、今の私には自力では無理なので女史自ら私を背負って上り、米俵を下ろすように座席に座らせた。ヘッドレストから投影器のコードを引き出し、窩を開いたところに先端を挿した。押し込む時に窩の奥が痛んだ。

 女史が外からドアを閉めた。左右の目の高さに小さな窓があり、前方は壁とディスプレイで埋まり、その下にキーボードがあって、アームレストの周りにアナログ操作用のボタンとスイッチがぎっしり並んでいた。狭いコクピットだ。当時の私の背丈だと座席の前の床に立ってぎりぎり天井に頭がつかないくらいだった。

 投影器に電源を通すと身体感覚はすぐに行き渡った。バッテリーから足腰のモーターに電気を送って機体を立ち上がらせた。問題なく動く。生身の感覚よりもはるかに快適だ。ストレスなく動かせる。ただ感覚として私の脳に返ってくる関節のフィードバックが妙にざらざらした感触になっていた。今までは感じなかったものだ。最初は投影器の調子が悪いのかと思った。でも本当に調子が悪いのは私だった。それはとても小さなノイズのはずだったけど、次第に意識せざるを得ないくらい大きな存在感に変わっていった。どれだけ忘れようとしても集中に割り込んでくる。きっと必要以上の電流を食らって電極の周りの脳組織が焼けているせいだ。

 私はテスト起動用のチェックシートに従って機体を動かして元通り台車の上に座らせた。九木崎女史が待っていてタラップをかけた。上ってきてタラップの先がきちんと嵌っているのか確かめるために一番上の段を蹴飛ばした。

「どうだ」女史は目を細めて言った。空が眩しいのだろう。

「気持ちいい。生身よりずっと楽に動くよ。でも入ってくる感覚が少しざらっぽいんだ。これ、治るかな」

 女史は難しい顔をしただけでその質問には答えなかった。

 私は病室に戻された。それから私はあの手術室にいた人間たちの顔をもう一度一人ずつじっくりと、自分の記憶を確認するように思い出した。連中が損なったのは私の肉体の機能だけじゃなかった。


 ニュースを見ているうちに連中の組織のことがもう少しわかってきた。あの部屋にいた四人、饒舌な男、破廉恥な大男、黒い服の女、白い服の女、連中はフィリスという宗教団体の一員であり、他に私の母親から依頼を取り付けた男が二人、組織のボスが一人、私の一件に関わっていた。その団体の中で私が復讐しなければならないのはその六人だった。最初の二人は数日の間警察署に拘留されていたが、一週間経つ頃に組織が金を出して保釈が決まった。六人全員がアジトに揃ったわけだ。私はその時を待っていた。

 私は看護師に頼んで図書室まで車椅子を押してもらって、そこで司書に何冊か地図を出してもらって諏訪と岐阜の間の道路と地形、岐阜市内の地理を調べた。岐阜県警の所在はどこなのか、そこまでどうやって行くのか、何時間かかるのか、一人始末するのに何分かけるのか、私は一つ一つ調べて子供なりに計画を立てた。一年半前に森をさまよった経験から地形と交通を把握しておくことの重要性はよく理解していた。

 そしてその計画をベッドの中でイメージした。どんな障害があるだろう。どんな邪魔が入るだろう。上手くいかないとしたらどこから綻ぶだろう。

 そして多少うまくいかなくてもこれくらいならなんとかやり切れる、という線を確かめた。

 そして改めて考えた。

 私はなぜ彼ら彼女らを殺さなければならないのだろう。

 受けた痛みを返すためだ。

 そして次の痛みを受けないためだ。

 連中はまだ私に固執しているかもしれない。もう一度連れ去られ、またあの苦しみを受けることになるかもしれない。

 だけど、

 連中が悪なのだろうか。 

 九木崎が正しいのだろうか。

 黒い服の女にとって九木崎は苦しみだった。九木崎が悪だった。

 彼女は私を抱きしめた。

 女史も私を抱きしめた。

 人間のぬくもり、やわらかさ、心臓の鼓動。

 同じだ。

 ただ私の運命が九木崎を味方に、連中を敵にしているだけではないのか。

 そうだ。

 その通りだ。

 問題は善悪ではない。

 両方とも悪なのかもしれない。

 でも私は九木崎についている。九木崎の世界で生きていきたい。

 それだけだ。

 黒い服の女も言っていた。それは戦いなんだ。

 だからたとえ正当性などなくても、私に禍根をもたらす彼らを殺さなければならないんだ。

 私はそのシーンを想像した。

 自分がその感触に耐えられるのか。

 いや、耐えなければならない。

 そんな感触を味わうことなく生きていこうなんて、とっくに捨てた考えじゃないか。


 その夜は遠い雷鳴が窓ガラスを震わせていた。稲光が見えるわけではなかった。ただ世界のドームの内壁が暗い雷鳴によって閉ざされていた。私は羽根布団の上に両腕を出してその音を聞いていた。腕の上だけにひんやりとした夜の空気の冷たさがあった。

 私は私自身を待っていた。眠くなるか、それともじっとしていられなくなるか。まるで水晶の振動を観測しているみたいな気持ちだった。

 私は次第にその振動が激しくなっていくのを感じた。私の心はすでに雷鳴に包まれていた。 

 私はまたベッドから転げ落ちた。今度は布団を下敷きにしたし前より体が動くようになっていたのでさほど痛みを感じなかった。四つん這いになって腰を浮かせられるくらいには回復していた。階段に向かって這い進んだ。車椅子は使わない。そんなに目に付く場所に残しておけない。一段一段ずり落ちるように一階まで下り、当直の看護師が控室を出るタイミングでガレージの鍵をくすねて外に出た。外の空気は生暖かかった。肌の上に重たい空気がのしかかってきて私に肉体があるということを思い出させた。地面は床と違って滑らないので肘や膝を擦らないように気を遣った。ガレージの扉に到達する頃には息が上がって全身砂まみれだった。肩や肘も痛んだ。

 リリウムはそこにあった。踵座姿勢で床についた手を上に向けていた。これなら動かせる。しかし最大の難関はリリウムのコクピットまで体を引き上げる行程だった。まずタラップがかかっていなかった。格納庫の壁際に寄せられていた。私は自力でそれを移動させてきて上まで上らなければならなかった。体がきちんと動くならなんてことはない作業のはずなのに、キャスターのついたタラップを肩や頭で押していると自分がナメクジになってしまったような気分だった。ナメクジには階段を上るのもつらかった。一つ上の段に手をかけても体を引き上げることができないから、両手両足で万全の体制を作って滑り落ちそうになりながら一段ずつ這い上がった。重力が階段下の方向へまっすぐ私の体を引っ張っていた。

 そしてドアの枠に手がかかってからもうどうしようもなく腕に力が入らなかった。だめだ。こんなところで止まるわけにはいかない。あと一息なんだ。私の覚悟はその程度か? 

「んあぁっ!」勝手に漏れた呻きがガレージに響いた。自分の声じゃないみたいだった。

 筋肉が切れて関節がよじれるような違和感。

 それでも私は力を入れるのをやめなかった。

 座席に座った時、痛みで涙がこぼれた。ドアを閉めようと伸ばした手にまるで力が入らなかった。むしろ突き飛ばして跳ね返りで引き寄せなければならないくらいだった。ほとんど指が使えなくなっていたので掌で窩の蓋を開いて投影器のプラグを差し込んだ。

「こんばんは、ヘキ。こんな時刻に来るなんて、あなたはストイックですね」

 ガレージの肢機はデータ収集のためにローカルネットワークに接続されていた。屋外で行動する時を除いてタリスの管轄下にあるわけだ。

「構わないでよ」

「残念ながら騒音の観点からこの時間帯の操業は禁止されています」

「私は別に仕事をしにきたわけじゃない」

「肢機の起動、行動も禁止です」

「阻止できるなら、してみればいい」

 私はドアの前に立つタリスをイメージした。私は真正面から近づいていった。タリスが小さければ私も小さかった。

 私はタリスの首を絞めた。タリスは逃げなかった。ただ首に力を入れて私の握力に抗い、顎を上げて細めた目で私を見ていた。見下すような視線だった。あなたは愚かなことをしようとしている。そう言っているようだった。でも私は私が愚かなことをしようとしていることなんてわかっていた。私の決心は揺らがなかった。

 タリスはしばらくして気を失った。私はだらりとした手からリリウムの鍵を取った。

 当時のタリスは千歳ほど広大な処理能力や記憶領域を持っていなかった。ほとんどただの事業用サーバーに過ぎなかった。千歳のタリスがゴシックの大聖堂なら、諏訪のタリスは田舎の礼拝堂のようなものに過ぎなかった。その内陣の半円形の壁面に扉が並んでいて、その一つがリリウムの部屋のものだった。扉は開いていた。小さな部屋で、奥に窓があって、その手前に丸い水盤が置いてあった。その水盤の蓋に固く鍵がかけられていた。私は鍵をその錠前に突き刺した。蓋を取って水に手を浸した。ソーカー。機体という器がある。私の意識は感覚の水となってその器の中に行き渡る。

 リリウムの機体が私の体の一部になる。リリウムの感覚が私のものになる。

 やはり素晴らしい。チューリップとは違う。何の工夫もなく動かすことができる。

 リリウムのメインコンピューターがファンの唸りを上げて起動した。関節モーターに電圧がかかって機体ががくりと揺れた。私はシャッター開の信号を流してからすぐにネットワークケーブルを遮断した。

 雷鳴は遠い。

 グラウンドを飛び出して森に入れば、それはもう私の領域だった。

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