8.6 復讐への回復

 白い光が瞼をこじ開けようとしていた。その力に屈して目を開けると白い壁が見えた。それがどこなのか、何時なのか、私にはわからなかった。思い出せなかった。私はあの暗い拷問部屋で気を失った。それから自分の体に何が起こったのか思い出そうとしたけど、手がかりは何もなかった。だから自分がどれくらい眠っていたのかも見当がつかなかった。

 私は仕方なしに周りを見渡した。それは九木崎の病室だった。部屋の中には一つだけベッドがあって、私はその上に寝かされていた。羽布団はビニール袋みたいに薄くて軽くてとても温まれそうにない代物だったけど、不思議と寒さは感じなかった。暖房が入っているのかもしれない。窓も扉も締め切られていた。

 妙にがらんとした部屋だった。車庫ほどの広さの空間にベッドは一つしかない。あとはサイドテーブルだけで、他にこれといって指物があるわけでもなかった。床と天井、壁と窓、そして扉。それだけだった。私はほとんど真っ白な箱の中に閉じ込められていた。私の存在は留保されていた。この部屋を出るまでは、生きているわけでもなく、死んでいるわけでもなかった。

 スライスされた白い光が窓から差し込んでいた。朝方のようだ。私は今、九木崎の病室で朝日を浴びようとしている。そういうことだ。やっと理解できた。

 私は首を回してしこりのような窩の感触を確かめた。ちゃんとある。幸い九木崎は私の機能を修復したらしかった。

 看護師が入ってきて水差しを交換した。小柄で華奢な女だった。

「飲む?」

 私は頷いた。

 看護師はベッドのリクライニングを操作したあと、慣れた手つきでグラスに七割くらい水を注いだ。色のない水の中で小さな泡が躍った。滝つぼのようだった。

 私はベッドの形に合わせて上半身を起こした姿勢になっていた。布団の上に手を出して握って開く。握力を確かめた。動くには動いた。でも力が入らない。私は看護師がテーブルに置いたグラスを掴んでみる。でもそこまでだ。持ち上がらない。

「力が入らないのね」看護師はそう言ってグラスにストローを差した。グラスを私の口の前で支える。

「治ると思う?」私は訊いた。

「さあね。治るかもしれないし、だめかもしれない。でも治るとしてもきっとかなりの時間がかかるでしょうね」

 私はストローを吸う。もったりして味のない水だった。

「どれくらい眠ってた?」私は訊いた。

「あなたは八時間、私は二時間」看護師は半分冗談で答えた。

 そうか、ほとんど普通に眠っていたのと同じだ。

「もう少し眠ってた気がしたけど」

「私が当直に入ってからここにきて、私が上がる前に目を覚ました。少し綺麗な気分で帰れる」

 看護師の物言いは少し気に障らないでもなかった。ただ、彼女は私のような状態に陥った子供をもう何人も見てきたはずだ。もっと深刻な状態の子供だって見てきただろう。慣れている、と言える。そういう人間が軽口を叩いているのだから私の状態はきっと心配するようなものではないのだ。私にとってはむしろ喜ぶべき反応なのかもしれなかった。

 看護師は古い水差しを持って部屋を出ていった。バネのついた引き戸が独りでに閉まり、端についたところで一度バウンドしてから完全に閉まった。

 そして報告を受けたのだろう、九木崎女史が足早に入ってきてベッドの横に立った。

「どこかに痛みはあるか?」

「ない。ない、と思う」

 女史は私を抱え起こすように覆いかぶさって私を抱きしめた。頭を撫でた。

「生きててよかった。本当によかったよ」

 声からして女史は本当に心配していたようだった。この人のことを信じていてよかったなと私は思った。それが本当に本心なら、信じていてよかった。

「ねえ、私まだ潜れるのかな」私は訊いた。

「きっと平気だよ。上手く繋ぎ直したからね」

「潜ってみたい」

「今はだめだ。今は感じないだろうけど、鎮痛剤が切れたら傷が痛む。痛みはないだろうけど神経系のダメージもかなりある」

「どうしても」

「どうしてもだめだ。今はじっとしていることが回復への近道であり、潜ることへの近道なんだよ」


 それから幾人もの人々が私の部屋に入り、出ていった。朝食のトレーを持ってきた看護師はさっきとは別の人間だった。男だった。彼は無口で、無口なりに私の意思を汲み取って食べ物を私の口に運んだ。私は自分の手は使わなかった。両手を腿の上に上向きに揃えてトレーを支えていただけだ。

 檜佐が私の同室数人を連れて入ってきた。ベッドを寝かせてすぐだったので私は自分の腕の力で体を起こそうとしてみた。でもそれはとても大変な作業だった。

「そのままでいいよ」檜佐は枕元に来て私の体をやけに心配した。私が動けないのを信じられないみたいな目で見ていた。「大変な目に遭ったね」

「まだ遭ってるよ。すごく体が重いんだ」

「治るの?」

「たぶん、そのうち」

 それから他の数人も一通り私の損傷を案じた。檜佐は彼女たちを連れて一度外へ出たあと、一人で戻ってきた。

「碧、ごめんね」檜佐は謝った。

「どうして?」

 私が攫われた時、檜佐も近くにいたのだ。彼女も一緒に出掛けた女子の中の一人だった。一人にするべきじゃなかったと思ったのだろう。

 私が素っ気なく答えたせいか、檜佐はそれ以上何も言わなかった。

「やられたのは私だけなんだ」私は訊いた。

「うん」

「それはよかった」連中は本当に依頼がないとやらないわけだ。

「ねえ、何か欲しいものない? 持ってきてあげるよ」

 私は窓に目を向けて考えた。眩しかった。

「テレビが欲しい。欲しいっていうか、ここで見れるようにしてほしい」

「食べ物とか飲み物じゃなくて?」

「ああ、そういう質問だった?」

「そうだけど、そうだな、テレビか」檜佐はそこで私の顔を見下ろしてちょっと唇を尖らせ、それから溜息をついた。「なんでテレビ?」

「ニュースが見たい。連中が生きてるのか死んでるのか、生きてるならどこにいるのか、捕まってるのか」

「岐阜警察署に拘留されてるよ」

「誰が」

「それは言ってなかったけど。でも、どうしても知りたいんだね。誰が今どこにいるのか」

「うん」

「小さいのでもいい?」

「見れればね」

「待ってて」

 

 檜佐を待つ間私は自分の体がどれだけ動くのか隅々まで調べた。両手だけはなんとか動かせたけど、それでも力の入れ先と感覚の来る方向がバラバラで食い違っているみたいな感じがした。

 ああ、やっぱり駄目になっているんだ。九木崎に戻ってきても浄化の損傷はすぐには消せないんだ。

 そう思うとあの宗教連中に感じる怒りが込み上げてきた。それは昨日浄化の直後に感じたものよりはるかに強い怒りだった。

 私はベッドから降りた。落ちた、と言った方が正確かもしれない。私は相撲取りのワンピースみたいな巨大な服を着せられていたので動くのに支障はなかった。でも手を床に押し付けて体を引き寄せることさえできなかった。まるで木星の上にいるみたいだった。重力が強すぎて思うように体を動かすことができない。地面にべったりと押し付けられている。そんな感じだった。

 肩を前に出すような動きをすると窩の周りの首筋の肉が裂けるような感触があった。傷口が開くというほどの痛みではなかったけどそれでもちょっと不気味な感触だった。意識がはっきりしている分、自分の肉の断面を想像するのはぞくっとした。どうにか肘を床に押し付けて指先を自分の窩に触れさせた。窩を囲うようにガーゼが貼られ、その縁をかなり強力なテープが押さえていた。というか私の手に力が入らないから強力なテープに思えたのかもしれない。


 檜佐が戻ってきたのは一時間くらいあとだった。それまで私は床の上でじっとしていた。他に誰も様子を見に来なかった。看護師も忙しいのだ。しかも私はその「忙しさ」の対象にはなっていなかった。不慮の事故で死のうが知ったことではないと思われているのか、あるいはこの程度のことで危篤に陥るようなヤワな人間ではないと思われているのだろう。どちらにしろ干渉が少ないというのは私にとっていいことだった。喉が渇いたらナースコールを押せばいい。それだけのことだ。コードが垂れているのでたぐり寄せれば床の上でも押せないことはなさそうだった。

「何してるの?」檜佐は半分扉を開けたところで訊いた。可笑しさと不安が半々の声だった。「血が出てる」

「触っちゃだめだよ。もうくっついてるから」

 檜佐は持ってきた荷物をサイドテーブルに置いてどうにか私の体をベッドの上に戻した。

 檜佐が持ってきたのは卓上用の小さなテレビと縦長の花瓶だった。

「ほんとに持ってきたんだ」

「桐矢に貸してもらったの。なかなかいいサイズでしょ」

「なかったとか壊れてたとか、適当に言い訳考えてくるかと思った」

「そんなことしたってヘキは自分で何とかしようとするよ。そういう子だもん。どうせやるなら私がやった方がヘキは無理しないでしょ」

「そう、助かるよ」

 檜佐はテレビの電源を挿し、小さなリモコンを私の手に握らせた。

「動かせる?」

「ほんの少しだけね」

 私がどうにかボタンを押すと画面がついた。

「おお」

「なんでこんなことで喜ばれなきゃいけないんだ」

 檜佐は私の手を握った。

「ヘキ、大丈夫、必ず良くなる。何の悪影響も残らない。その間に誰かがあなたのお株を奪ったりしない。大丈夫」

 檜佐は私の心を察した上で、暗に復讐なんかするなと言っていた。でもそれは無理だった。

 私の事件はニュースになっていた。テレビでそのニュースを待つのはじれったかったけど、事情がつかめてきた。主犯と実行犯の男は逮捕拘禁され、女二人は保釈されたという。あの施設の所在もわかった。

「その花は」私は訊いた。

 花瓶にはオレンジ色の大きな花が三本刺さっていた。

「この部屋殺風景だから」

 それはヤブカンゾウだった。濃いオレンジの花をつける野生のユリだった。

「なんでこれ?」

「いい匂いでしょ?」檜佐はそう答えて花を私の鼻先に近づけた。なんだか知っている匂いがした。そういう匂いって大抵好きな匂いとは違うものだ。

 檜佐が出て行ってから私はサイドテーブルの上の花に目を向けた。ユリってのは高貴な花だ。私には似合わないな、と思いながら眺めていたけど、しばらくすると少しずつ印象が変わってきた。確かに品はあるのだけど、装飾が華美で、その華美さがいささか行き過ぎているように思えてきた。案外、暴力的な一面もある花なのかもしれない。

 その赤は憎悪の色に似ていた。

 そして思い出した。その匂いは厚化粧をした女と同じ匂いだった。

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