8.3 拉致

 九木崎は全寮制の学園のようなもので、平日には授業があるし、休日には好きなことをしたり出歩いたりしてよかった。

 その日は日曜日だった。「ねえ、碧も行こうよ」檜佐に誘われて私は数人の女友達と一緒に自転車で出かけていた。確か洋服を探して店をハシゴしようという話だった。一軒ちょっとした商業施設に入っている店があって、私は本のブースを見たくて他の女の子たちとちょっと離れていた。本といっても大層なものじゃなくて、私は外国の観光地でもないような景色のいいところを写してきた雑誌を集めていた。その帰りだ。

 私はショーウィンドウの前を歩いていた。若い女の二人組が立ち話をしていた。旅行に来た大学生みたいなちょっと品のある感じだった。一人は水色の短いワンピースに白いカーディガン、髪は短いボブ、もう一人は黒と赤のサマードレス、ぺったりしたセミロングだった。

「ねえ、あなた、地元の子?」白い服の方が訊いた。私に声をかけたらしかった。

「この辺に住んでるのかってこと?」私は足を止めて相手が本当に私の答えを待っているのかどうか確かめてから訊き返した。

「そうだよ」黒い服の方が言った。「私たち花屋を探してるの。花屋っていうか、花を売ってるとこね。花を売ってれば別に花屋でなくてもいいの。スーパーなんかでさ、どうしてこんなところに花なんか置くんだろうって思うじゃない? でもいざ探してみると結構見つからないのよ、それが。全然探してない時の方が目につくのよね、きっと」

「花ね……」私はとりあえずショーウィンドウの方を振り返った。中で花を売っているところを見なかったか思い出そうとしたのだ。でも思い当たらなかった。「その道を右に行ったところにそういうの売ってそうなスーパーはあったけど」

「どれくらい?」

「三百メートルくらい?」

「行ってみようか?」白い服の方が黒い服の方に訊いた。

「いいよ。ありがとう、お嬢ちゃん」黒い服の方が首を横に倒して私の顔を覗き込んだ。

 私は彼女を見返して頷いた。

 向き直ると白い服の方が思いのほか近くに立っていた。

「ありがとう。お名前、なんていうの?」白い服の方はそう言うと私を抱き寄せて自分の胸の下に私の顔を押し当てた。

 甘い匂いがした。でもそれは女がつけるコロンとは少し違った匂いだった。思い返してみればクロロホルムの匂いだった。服の下にガーゼを当てていたのだろう。当時の私にはそれが麻酔だなんてことはわからなかった。ただ何か変だということはわかった。危険だ。私はしばらく息を吸わずに我慢していたけど、女の力は意外に強くて、首を起こすことも、体の前に手を差し込むこともできなかった。しかも黒い服の方が私の肩を押さえていた。

 私は一度力を抜いて目を瞑った。女がぐったりした私の体を抱えようとしたところでもう一度踏ん張って女の鳩尾に頭突きを入れた。

 束縛を抜け出して店のドアに向かって走った。自分の平衡感覚と重力の方向が食い違って体が倒れていくのを感じた。持ちこたえる。

 しかし黒い服の女が忍者のような素早さで追い縋ってきた。襟首を掴まれた。女はもう一方の手で私の口を塞いだ。そこにやはりガーゼが仕込んであった。

 私は呼吸が速くなっていたからさすがに息を止めておけなかった。

「もう、暴れちゃあだめだってば。暴れたって大ごとになっちゃうだけなんだから」

 白い服の方が言ったその言葉が閉じかけていた私の意識の隙間にするりと滑り込んできた。そして意識の暗闇の中で行き場を失ったようにしばらくぐるぐると反響を続けていた。


 途切れた意識の中で私は二人の女が何者なのか考えていた。心当たりはあった。九木崎を嫌う集団の中でも一つずば抜けて実行力の高い宗教団体があるということは学校でも聞いていた。名前は忘れたけど、でも恐い連中だと……。


 次に目を覚ました時、スズランの形をしたランプシェードが見えた。四つ一組。中でアンバーの電球のフィラメントが光っていた。十畳くらいの真四角の部屋のようだった。壁も天井も焦げ茶色の板張りで暗い。私はその真ん中に置かれた歯医者の施術椅子のような台の上に寝かされている。

「おはよー、ヘキハちゃん」白い服の女が目の前で手を振った。

「ここは?」私はほとんど反射のように訊き返した。

「浄めの部屋だよ」

「キヨメ?」

「汚いものを落とすって意味があるんだ」

 黒い服の女が男を連れて入ってきた。男は私の正面の壁に椅子を置いて座った。何のとりとめもない容貌だが身なりはきちんとしていた。清潔なスーツを着ていた。

「少し粗雑な扱いをしてしまって悪かったね」男は言った。

 私の体は腰と膝に回されたベルトが固定していた。身動きは取れない。かなりきっちりと締めてあった。どこにバックルがあるのかわからなかった。

「私たちは九木崎理研に囚われた子供たちを親元に返す事業を展開しているんだ」

「私は別に帰りたくなんかない」

「君のお母さんの依頼なんだよ」

「母親?」私はまだ寝起きのふわふわした意識状態だったのに、それを聞いた途端爆圧のように怒りが込み上げてきた。

「君を痛めつけたのは父親であってお母さんじゃない」男は続けた。

「そんなことない。直接には手を下してないってだけだよ」

「とても君思いな人だと思ったけど、それは演技だったのかな」

「いや、そういうことじゃない」

「ふむ、つまり、鬱陶しいんだ。君は愛されていても、それが嬉しくない」

「愛されることが嫌だってわけじゃないよ。でもそれにも方法があるよ」

「ともかく、いずれの親にしても君は帰りたくない」

「そう」

「そう、では他の行き先を探すべきかもしれない」

「いいよ。私は九木崎で満足している」

「大多数の子供たちはそう言うんだ。九木崎はいいところだと思い込まされてしまっている。でもそれは実際には違っている。確かにしばらくは住みやすいかもしれない。でもそれは君たちの将来と引き換えなんだよ。九木崎は君たちを投影器に束縛してしまう。他の施設ならあらゆる可能性を残すことができる。思い出してごらんよ。九木崎が君に何をくれた?」

「私はもう私の親たちの娘じゃない」

「ふむ、つまり親からの解放だ。でもよく考えてごらんよ。それは九木崎の手柄じゃない。君の親たちの罪だ。誤った状態にあったものが正しい場所に戻った。あるいは近づいた。それだけのことに過ぎない。それはきっと九木崎にしかできないことじゃない。その違いはよく覚えておくべきだと思うよ」

「でも実際には九木崎だった。あんたたちじゃなかった。できるとしても、やってくれなきゃ意味はないよ」

「確かに。それは不運だった。認めよう」

「投影器はいいよ。そういうろくでもない人間と私は全然別の生き物なんだって思うことができる。そんなちっぽけで卑しい生き物とは違うんだって思える」

「君は投影器をとてもいいものだと思う」

「そうだよ」

「たとえ命を落とす危険があっても? 実験では周りの子供たちも大勢命を落としているだろう?」

 男の質問は事実だった。毎日フラクタルや他の意識障害でぐったりしたまま医務室へ運ばれていく子供が何人かいた。彼らのうち四人に一人くらいは戻ってこなかった。戻ってきたとしても時々体の一部に小さな麻痺を残している子供がいた。

「それはいけないことだと思わない?」男は訊いた。「君は今まで問題なかったかもしれない。でもいつ自分がその立場になるかわからない。違う?」

「わからない。ただ、考えないようにしてる。だから私は大丈夫だと思う」

「私たちの考えとしては投影器は有害なものなんだ」

「どう有害?」

「今言ったようにとてもリスキーだ。そうでなくても脳機能に重大な障害を及ぼす危険がある。とても冒涜的な人体実験なんだ。それを子供に施すというのは二重の意味で罪なんだ。子供には長い将来がある。その時間を奪ってしまうという意味で。そしてまた理解力のない子供に半ば強制的にそれを施すという意味で」

「きちんと説明は受けたし、強制なんかじゃない。私には選択権があった」

「でもその説明が本当に全てだろうか。手術を受けない子供は完全な庇護を受けられるのだろうか。その手術は人間としての倫理上誤ったものなんだよ」

「人間?」

「そう。君が正しく人間であるためにその装置は除かなければならない」

「もう一度手術をするの? それって九木崎の手術と同じくらいリスキーじゃない? もっとリスキーかもしれない」

「大丈夫さ。私たちもその分野については九木崎以上に研究しているからね」

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