第1話 宗教的経験の諸相 その2

 行きと同様、帰りもまた、我々は黙したまま語らうこともなかった。しかしそれは、行きとは全く反対に心地よい静寂だった。明らかに相互の信頼において成立する静寂だった。実際、ぼくは井の頭公園が狭く感じ、駅までの道のりがあまりにも短いとすら感じた。

 中央線がひっきりなしに電車を転がしては、今日一日をどうにかやり過ごした、疲れた勤労者たちを運んでいく。それでも駅のホームに人が絶えることはない。彼らはみな一様に、地下の高騰した東京を離れ、二十三区外の都内、または埼玉県にまで下っていく。そこが労働者供給地なのだ。つまり、ぼくたちの住んでいる所。

 我々は電車に乗り込んだ。この時もまだ会話はなかった。我々が乗り込むようにして乗り込んだ人波が我々を車両連結部分の近くにまで、ぼくを追い詰めていく。社会はそれ自体で自生的秩序を成しており、ぼくの力でどうにかできるものではない。諦めて、波に飲まれ、運ばれていく。

 いつものこと。

 だが違うとすれば、ぼくの手をとるものがあったということ。重大な差異……。

「圧死でもしかねない感じね」

 ぼくは火照った頬を連結部の扉に押し当てた。金属が我が体温を奪っていく。人間は歩き回る熱源に過ぎない……。同様にして、野枝もまた、頬を押し当てていた。ぼくたちはまるで狭いベッドの上で見つめ合う恋人たちのように、見つめ合った。

「進路票、なんて書いた?」

 まだ手は繋がれたままだ。自分の鼓動の高鳴りを少なくとも自分の意識からは消去しようと、ぼくは彼女の瞬きの回数を数える。

「大学進学希望……」

 一、二、三、四……。

「それから……?」

 一、二、三……。

「それからなんて欄はないよ」

 一、二……。

「なかった?」

 一……。

「あるわけないだろ。君はどうなんだ?」

「大学進学希望って書いておいたけど」

「じゃ同じだろがよ」

「でも――」

 野枝が目を細めた。ぼくは頬を扉から離し、吊革に掴まることもなくして、真っ直ぐに立った。内乱の予感が、心的内乱の予感がぼくを立たせたのだ。

「で、でも?」

「わたしの進路票にはあったわよ。『それから』」

 季節は夏。真夏。電車内の強すぎる冷房が心地よく感じる瞬間もあるほどの、夏。だがぼくには今、悪寒があった。

「へぇ……。どんな風な……その、表記で?」

「裏面に、『それから』ってひらがなで」

「そ、そう。なんて書いたの?」

 野枝の満面の笑み。破顔。

「革命――」

 カクメイの音の連なりが脳内で革命の文字列を惹起させると同時、ぼくは電車に乗っていたことを忘れていたことを思い出した。また人波がぼくたちを飲み込み、それはついに駅のホームにまで導いた。巨大なパチンコ屋の二件がすぐに目に入る、そここそ、ぼくらのホームであり、ぼくらを育てた土地だった。かの三島由紀夫がアウシュヴィッツと形容した土地……。

 この街は三島作品の内、ぼくが知る限り三つの作品で言及されている。ぼくは三島が拘った意味が、なんとなくわかる。

 この街はかつて林業で潤っていた。一本の大木があれば、それだけ一家四人が半年は暮らせたと祖父が言っていた。要は、建材が勝手に生えてきていたのだ。そうして、巨大な河までもがあり、輸送にも適していた。だが、そのあまりにも成功した林業が、今もこの街を苦しめている。その成功と成功の遺産が他産業への移行を妨げたのだ。商店主たちは殆どかつての遺産により不動産所有者でもあり、アニマルスピリットを持ち合わせていない。だから、新しいものといえば、尽くパチンコ店となる……。没落し、かつての栄光に苦しむ街。いかにも耽美好きの三島が気に入りそうなシチュエーションではないか……。

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