第1話 宗教的経験の諸相 その3

 ぼくと野枝は幼馴染だ。どういう意味で幼馴染なのか。ぼくたちが初めて出会ったのは幼稚園だ。正確には通園バス。母と別れて、一人でバスに乗り込み、幼稚園に向かう。幼稚園にいってしまえば、ぼくは幾らでも時間を過ごすことができたが、どうにもこのバスの過程は苦手だった。だからぼくは幼稚園の指定カバンにウサギのぬいぐるみを吊るしていた。本当に、その首にリボンを巻いて、カバンから吊るしていたのだ。首吊りウサギ。リボンはその柔らかさと強度から、首吊りに良いと言われている……。

 ぼくの「ライナスの毛布」。庇護者から離れていく、その過程を耐えるために、ぼくはそのカバンと殆ど同じ大きさのウサギの耳の先端を自分の耳の中に出し入れするということを繰り返していた。保母から「れんらくちょう」で母へ、この「問題行動」が伝わり、ぼくはこのウサギと同乗することができなくなった。そうして、ぼくが初めて単独者としてバスに乗った時、ぼくを救いにきたのが野枝だった。

 野枝は無言でぼくの耳にその細長い人差し指で触れた。ぼくはその冷たさに、何よりもその心地よさに驚き、小さく悲鳴を上げた。

「なにすんの」

「泣きそうな顔してたから」

 ぼくたちのあまりにも拙いファーストコンタクト。あまりにも無造作で……。ぼくたちはそれからゆっくりと、例えば砂場でのコミュニケーションを通して、迎えに来たぼくの母と彼女の母の反応を通して、どれほど近くに住んでいたかを知った。そして実際、ぼくたちは近所に住んでいた。ぼくの家の目の前に一棟の木造アパートが建っている。トタンの風防壁を持つ、木造アパートだ。開発という開発から取り残されたそのアパートの一室に彼女は母と二人で住んでいた。

 ぼくたちはまず、ぼくの家に入った。なんとはなしに、お茶でも出そうかという話になった。男子高校生が女子高校生を家に呼ぶとなれば、なにかセクシュアリティに関わる事柄を想起せざるをえないが、ぼくたちの間にはそんなものはなかった。

 ぼくは彼女の性器さえ見たことがある。風呂場でのことだ。まだ人間が雄と雌にカテゴリで区別し、指し示すことが可能だとも知らなかった頃の話だが……。

 玄関の扉を開ける前からして、ぼくは怒声を聞き取った。二種類の甲高い声が飛び交い、扉の隙間から漏れている。野枝は、ぼくが扉の前で立ち止まった意味がよくわかっていないようだった。見ても、小首をかしげて見返してきただけだ。

「教育は全部まかせて――」

「そんな態度だから――」

「仕事が忙しい――」

「あなた父親—―」

「じゃあお前も金稼いで――」

「専業主婦にしたのは誰――」

 その甲高い声を出す男女の息子であるところのぼくは、彼女よりも、彼らの声を聴き取る能力が発達しているのだろう。

「わたしの家に来ない?」

「うん」

 父と母は今ごろ、妹があんな状態になった責任を巡って論争を繰り返しているのだろう。あるいは、ぼくがこんな状態になった責任を巡って? ぼくはあまり素行の良い高校生とは言えなくなっていたし、進学できると判定された大学も有名ではない所ばかりだ。だがそれは検証不可能な問題であって、つまり問いの立て方が間違っているのだ。妹の人生には――人生には再現性がない。実験は不可能であり、因果関係図式を採用した記述は常にある種の単純化を免れない……。だが他にどんな記述がある? やはり神から――。


弟子たち問ひて言ふ『ラビ、この人の盲目にて生れしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか』イエス答へ給ふ『この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顯れん爲なり。我を遣し給ひし者の業を我ら晝の間になさざる可からず。夜きたらん、その時は誰も働くこと能はず。われ世にをる間は世の光なり』


 木造アパートの一室に野枝が母と住んでいる、ということしかぼくは知らなかった。知らなくなっていた。どの部屋に住んでいたのか、完全に忘却してしまっていた。果たして、野枝はぼくを一階の角部屋にまで連れてきた。その一つ手前の部屋の前では、裏返したビールケースに座る、ランニングシャツ姿の中年男性がいた。その手には「ストロングゼロ」がしっかりと握られてはいたが、しっかりとしているのはそこの筋肉だけで、後の全ては微細動していた。

「野枝ちゃん誰だよそれ」

「学校のお友だち」

「これからヤるのか?」

 ヤる、というのが性交渉の言い換えであることぐらい、ぼくにもわかる。ぼくは男の顔を観察し、観察者として優位に立とうと試みた。目脂と、無精髭。禿頭に浮かんだ汗。

「ヤらないわよ」

「じゃツタヤ言ってAV借りてこないと」

「あんまり大きな声出さないでね」

 視線を野枝の膝小僧から太腿までの間に往復させた後で、中年男性はぼくを見た。上目遣いに、剥き出された歯茎。笑っているのか。

「兄さんはチャンコロか? チョンか?」

「は?」

 テクニカルタームが多すぎて、ぼくは彼とコミュニケーションをとることができなかった。

 野枝が母と暮らしているのはアパートの一室はワンルームの和室だった。八畳ぐらいはあるだろうか。隅に布団が畳んで寄せられている。ぼくはここに来たことがあるはずだが、思い出せない。

「コーヒー? 紅茶?」

 アコーディオンカーテンの向こうで、野枝がキッチンに立っている。狭い廊下に無理矢理に押し込められたキッチン。ぼくは卓袱台を前に、あぐらかいている。

「コーヒー」

 テレビも何もない部屋。窓の向こうは墓場だ。それで、なるほど一定の静けさがあるが、スペイン語の怒鳴り声が聞こえてくるし、あの中年男性の荒い息遣いが聞こえてくる。

「チャンコロとチョンって何のことなんだろう?」

「中国人と朝鮮人のことね」

 ぼくは口に含んでいたコーヒーを吹き出した。ここがリビングでありダイニングであり寝室でもあることを思い出し、焦って自分の制服の袖で畳に落ちた水滴を拭い取る。

「あのおっさん、ヘイトスピーチ野郎ってことかよ」

「そうね、そうなるわね」

 野枝は背筋を伸ばした綺麗な正座でコーヒーを飲んでいた。プラスチック製のそのカップにはデフォルメされた猫が描かれている。だが幾度もの洗浄で、猫は左半身を失い、残りもまた、亡霊のように霞みつつある。ぼくのカップといえば、デフォルメされた犬の描かれたプラスチック製のカップだ。この犬は彼女の猫と違い、しっかりとした輪郭を保持している。

「なんか可愛いカップだな、これ」

「あなたのセンスは正しかったということね」

「ぼくの?」

「だって、これも、それも、あなたがあなたの家から持ってきてくれたものよ」

 ぼくは彼女が何の話をしているのか、わからなくなってきた。ぼくたちの間には明らかに相手が共有する記憶というものの齟齬があった。野枝は、ぼくよりもぼくを知っていた。

「覚えてない? 思い出せない?」

 やめてくれ……。

「思い出したくない?」

 観念のオートポイエーシスが始まっていた。目の前が後景に退き、ぼくの隣に幼い女の子が正座していた。ぼくは胡座をかいている。その頃から……そうだ……その頃から野枝は綺麗な姿勢で座る少女であった。小学校も高学年になる頃には、ぼくは野枝を避け始め、中学で新しいコミュニケーション手段……携帯電話のような……を獲得してからも、むしろそれをアリバイに会わなくなり、高校に入って……同じ高校であったがために顔を合わせるようになったが、それでもぼくは彼女を避けていた。

 ぼくは砂糖のたっぷり入った、コーヒーを飲んだ。小さなカップだったから、一気に飲み干すことができた。歯が溶けそうなほど甘いコーヒーだった。

「歯が溶けそうなくらい甘いコーヒーだね」

 言うと、彼女は少し猫背になり、カップを両手で抱えるようにして「にがぁい……」と小声で言った。

「あなた、砂糖いっぱい入れてあげないとよく言ってたじゃない」

 それからもう一度、今度は笑いながら「にがぁい……」と言った。

 こんなエピソードを正確に覚えていることに、あるいはこんなエピソードを正確に覚えているとぼくに思わせることに、ぼくは野枝に対するある種に罪悪感のようなものを覚えた。ぼくは「ごちそうさま」と言うと、急いで三枝家を後にした。

 玄関を出るとまだあのランニングシャツの男がいた。

「お前、キチガイか?」

 かなり距離があったはずだが、ぼくは彼の口臭を感じた。腐敗した内蔵だけが可能な臭いだった。もしくは腐敗した魂に? ぼくは何も返すことができなかった。ぼくは彼に不快感があったし、あらゆる罵倒語が浮かんできてはいたのだが、それらは全てぼくの未来に対する言葉であるように思えてならなったのだ。

 妹に明るい兆候があったはずなのだが、ぼくの胃袋にはもう石が詰まっている。ぼくは最も親しい人の記憶すらまともに持つことがなく、三流私立大学でなんとかモラトリアムを延長したのち、世界に戦いを挑むことになるのだ。野枝の優しさはぼくと世界の断絶をより深くした。


 あなたと世界との戦いなら、世界のほうに賭けなさい。

 

 ぼくは世界に殺されるだろう。

 もしくは、自分のワンルームの前を通り過ぎる若者に差別用語を吐きながら生き延びることになるだろう。逃げるは恥だが役に立つ。では生きるは恥だが――?

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