宗教ゲーム

他律神経

第一部 覚醒以前

第1話 宗教的経験の諸相 その1



偉大なものを目指している人間は、その途上で出会うすべての人を手段とみなすか、遅延させるものや障害物とみなすのである――あるいはひとときの安らぎのための臥所とみなすのだ。

                         ――フリードリヒ・ニーチェ



 妹が不登校になったばかりの頃、父も母も、妹への「期待」から妹に怒った。ぼくは両親の怒声が苦痛だったから、両親の怒声を惹起する妹に嫌悪感を抱いていた。だが妹がいわゆる「引き篭もり」、それも食事も排泄も断つほどの「引き篭もり」になると、怒声の問題は解決したし、ぼくも嫌悪感を抱くことはなくなった。そうなってから3日目、妹は「捕獲された宇宙人」のようにして、病院へ運ばれた。両親が付き添って、妹と救急車へ乗った後で、一人残されたぼくは妹の部屋に入った。

 地獄だった。恐らくは、これが地獄だ。妹の部屋には大きな窓もあったし、鍵のない出入り口もあった。それでもそこは、出口なし、という意味で確かに一つの地獄だった。壁一面を、小さな「ごめんなさい」という文字列が埋め尽くしていた。鉛筆、ボールペン、クレヨン等々、等々。おお、複合芸術! 妹が何に謝っているのか、ぼくにはわからなかった。神なき国の哀れ。両親、そしてぼくに謝っているのだろうか。ぼくはそのように考えるに至って、床に倒れ込んだ。妹の垂れ流した糞尿の臭いをたっぷりと味わいながら、ぼくは「ごめんなさい」と連呼した。しかし何に謝っているのだろうか?

 妹は三鷹の有名な精神病院に入院することになった。ぼくの、地元の――埼玉県の高校の授業が終わると、八高線で拝島駅にまで出て、拝島から青梅線と中央線を乗り継ぎ、三鷹へ通う日々が始まった。

 こんな風に書くと、なにかとても妹思いの兄のようになってしまうから、付け加えておけば、ぼくはぼく自身のために、三鷹に通っていた。家ではまるで狂気に感染したように、抑うつ状態になった母と、職場内政治に疲れた父がいるだけだったし、ぼくが何よりも恐れていたのは、ぼくがこのままでは間接的に妹を殺したことになりかねないことだった。ぼくはぼく自身を癒やすために、妹に殆ど毎日会いにいっていた。

 井の頭公園を歩くのも、もう何度目かわからない。ぼくの数少ない楽しみはそこで路上パフォーマンスをしている東方力丸という芸人に「北斗の拳」を読んでもらうことだった。彼は日本で唯一の「漫読家」なのだ。

 その日も、下北沢と井の頭公園でパフォーマンスをしている東方力丸が、井の頭公園に来る日だった。日曜日の昼間、彼は井の頭公園にやってくる。ぼくは彼の、他の路上アーティストを圧倒するような「漫読」の始まりを待つべく、巨大な溜池にかかる橋の上で、池の鯉を眺めていた。

 池には墓標のように「鯉に餌をあげないでください 自力で生きられなくなります」という看板が幾つも立っていたので、ぼくは餌の代わりに自分の唾を池に吐いていた。そうすると、鯉がその唾液の塊を餌と誤認して水面に浮かんでくるのだ。

 鯉は自力で生きているのだろうか。鯉は現象そのものだ。鯉には人間のように自分を意識の対象とするような、過剰な自意識は存在しないであろう。

 死に至る病とは過剰な自意識のことである……。

 彼らは決して「ごめんなさい」などとは言わないであろう。彼らはただ存在するだけで、許されている。全存在を肯定されている……。

 しかし何に?

 いよいよ口の中が乾いてきた時、ぼくの隣に誰か立っているのに気づいた。池は流動性の低さのために、すっかり腐臭を漂わせていたが、横に立った人の香りは確かにぼくに届いた。ぼくは自分の行為に恥じらいを覚えた。過剰な自意識……。目だけで、その人を見た。

 彼女は――そう、彼女は顔をこちらに向けて、しっかりとぼくを見据えていた。ぼくは唸り声を上げて、彼女と距離をとった。その大きな瞳に、ぼくが囚われているのを見たからだ。

「面白い遊びをしているわね」

 鈴の鳴るような涼しげな声だった。ぼくは彼女を知っていた。三枝野枝さえぐさのえ。野枝はぼくの家の隣に住んでいる少女だ。彼女もまた、ぼくと同じ高校二年生。ぼくたちの関係は恐らく、一般には幼馴染と言われることだろう。だが、あまりに久しぶりに会ったため、ぼくは口を固く閉ざした。歯を食いしばったほどだ。

 意識の流れ――一緒に入ったお風呂、股間の差異に関する解剖生理学的知識のないがゆえの議論、プールへ遊びいく、スクール水着、濡れた身体が太陽で光り輝き、いやそれだけではなく、もっと別の事情でぼくは彼女から目を逸らし、ぼくたちの友情が成立するのかどうか考え、中学生になっては会話を忌避するようになり、そして高校生になってはただ風景の一部としてのみ顔を見るだけだった彼女。

「どうしたの?」

 ぼくが遠ざかった分だけ近づいて、彼女がぼくの顔を観察する。遠目にはこれから接吻をする、若いアベックにも見えたことだろう。

「どうもしない」

「どうもしない? どうもしないことなんて、できるのかしら」

 小首を傾げる、野枝。行為しないことは許されていない。我々、生者には……。そう言いたいのか。ぼくの不作為の罪を告発するために? 汗が止まらない。そもそも、彼女は何故、ここにいるのか。

「どうして、ここにいる?」

「貴方がここにいるから」

 小さく笑う。綺麗な前歯が一瞬、見える。ぼくは自分が最近、歯を磨いていないことを思い出す。観念の連合体。風呂に入っていないことを思い出す。髪の寝癖が残っていることを思い出す。髪を手で梳くが、天然油の不快感に、寝癖を直すことを諦めた。

「そう。ぼくは用事があるから」

「わたしも」

 彼女はもう池の観察に戻っている。ぼくはその観察を観察したい欲求を認めるが、ぼくはそろそろ東方力丸の姿を探さなくてはならない。日曜日に妹の病院へ行く前は、そうしなければ、病棟に入る気力が出てこないのだ。

 野枝はなにか、吉祥寺で友人と買い物でもするつもりだろうか。ぼくは夜の吉祥寺を歩くこともあったので、夜の吉祥寺駅周辺の姿をよく知っている。シャッターの降りた「サンロード」という商店街は、不法移民たちの闇市に代わる。この池のような腐臭を放ち、生への意志に満ち満ちた人々。妹ではとても、彼らと労働市場で戦うことはできないだろう。そうだ、ここはあまり良い街ではない。かといって、池袋も、今では完全にチャイナタウンだ。円安に乗じて、池袋駅北口から駅周辺全体へと、ニューカマーたちは拡がった。生への意志に満ち満ちた人々。ぼくとは対照的な……。

 それとも、デートだろうか? 野枝は、隣に立つと自らに恥じらいを覚えてしまうほどの少女だ。今だって、その膝裏は実に瑞々しく、その圧迫感を想像して、血流の下腹部への集中を感じるほどだ。ぼくと彼女の心的距離に比例して……その空白を埋めるように……男子高校生たちが彼女に群がった。女子高校生たちも彼女の悪口だけは決して言わなかった。彼女は間違いなく、カリスマだった。

 公園を歩き回る前に、久しぶりに近くで見ることのできる彼女の背中を……背中を! 目に焼き付けようとしていたぼくの視界に、しかしこの現在、ぼくの方に向いた彼女が立っていた。真っ直ぐに切り揃えられた前髪と硝子細工のような体躯の組み合わせに、ぼくは日本人形を想起した。想起して、独りで歩き出した。背後に自分を追う者の足取りを感じながら。

 東方力丸はブルーシートを敷いて宴会をする人々の前で「漫読」していた。使っているのは「北斗の拳」だ。誰がリクエストしたか知らないが、その選択は完全に正しいものだ。ぼくは近くに立って、彼の声を聞いた。

 世紀末に現れた救世主が暴徒のリーダーに告げる。

「お前はもう死んでいる!」

 そう、ぼくはもう死んでいる。ぼくはもう、死んでいる。生きていないという意味で。生きることと生きていることには絶望的な差がある。というのは、隣に野枝が立っているのに、ぼくは無視し続けていたからだ。横目でその表情を見ると、彼女は僅かに目を細めていた。彼女の顔の筋肉が大きく躍動するところを見たことがない。人によって、睨んでいると解釈することもあるだろう。だが口角は、どうか。僅かに……僅かにあがっている。

「漫読」が終わる。ぼくは千円を出した。ぼくが「もう死んでいる」ことを教えてくれるのは彼しかいない。千円の価値がある。野枝もまた、千円出していた。東方力丸は「うまい棒」という棒状のスナック菓子を配ると、挨拶して、その場から去った。これほどまでに闘争領域の拡大した社会で――この時にはもう、日本の成長率は先進国に特有のレベルを遥かに越えた病的低水準になっていた―—彼が、彼の活動が存在するのは一個の奇跡であると思う。

 さて、ぼくも消える番だ。「うまい棒」を咥えながら、妹のいる病院へ。やはり背後に、追ってくる者の足取りを、スナック菓子を噛み砕く音を聞きながら……。

「食べ歩きなんて、下品だよ」

 立ち止まって、振り返り。演劇的な動作だなと、我ながら思う。「うまい棒」の包装をズボンのポケットに入れながら、ぼくは言った。

「野蛮って言って欲しいわ」

「野蛮と下品の差異の統一は……」

「秩序を壊せるか、否か」

 我々はなんとはなしに並んで歩くことになった。必然、ぼくたちは共に、妹の入院している病院に着いた。硝子の自動ドアが我々を観察する領域より、僅か手前で、ぼくは彼女に尋ねた。

「ぼくを尾行してやがったのか?」

「吉乃のLINE、既読マークがつかないのだけど、あなた、何か知ってる?」

 情報の洪水にぼくがよろめいたほどだった。看護師か、薬剤師か、白衣の女たちがぼくを一瞥した。ぼくを見て、脱走した患者と思ったのも知れない。ぼくはよほど自己そのものから脱走したいと思った。

 吉乃……、ぼくの妹。吉崎吉乃よしざきよしの。よ、し、の。入院してからこの三ヶ月間、経腸栄養剤エンシュアリキッドだけで生存している、我が妹。

 LINE……、全世界四億人以上が使用している通話やメールの可能なコミュニケーションのためのアプリケーション。テキストメッセージを送ると、それを受信側が少なくとも画面表示させたどうかが「既読」の通知によって送信側にもわかるようになっている。

 なるほど、吉乃は野枝によく懐いていたし、引き篭もりになってからというもの、LINEによって連絡をとりあっていたとしても、おかしな話ではない。

「この病院にいるのね?」

「だとしたら、なんだよ」

「なんで隠すの?」

「なんでって……聞かれなかったから」

「『聞かれなかった』ではなく『聞かれないようにしていた』だとしたら?」

「じゃ今、答えてやるよ。ここは都内でも有数の頭の病院でな、吉乃はここの最上階の角部屋にいんだよ。ぼくが行っても、天井を見ているだけだから、気付きもしない。エンシュアリキッド……わかるか、エンシュアリキッド?」

「知らない。それはどういうもの?」

 ぼくは自分が早口になり、声高になっているのを認めた。ぼくは怒りに駆られている。対照的な、野枝の冷静な態度。ぼくを鎮めようというその態度に、ぼくはますます早口になり、声高になった。

「経腸栄養剤だよ。栄養ドリンクみたいなもんだ。妹はこの三ヶ月間な、それを看護師に叩き起こされて、ストローで少量ずつ飲まされることで生存してんだ。クソもションベンも行けない。LINEの返信なんかできるわけないだろ。わかったか?」

「わかった」

 野枝の、やはり風鈴の響きのような声の背後、ずっと遠くで、唸り声が聞こえた。遠くで? いやその距離は離人感に由来していた。ぼくはぼくを観察していた。だがぼくそのものからは決して逃げることができない。

 観察するシステムは何が観察できないかということを観察できないということを観察できない……。

「会ってもいい?」

「好きにしろよ」

 我々は一切の会話なく、妹の病室に向かった。病室の前には銀色のカートが置かれている。そこに満載された医療品の数多よ。中で看護師が作業中なのだろう。大きな声が聞こえる。

「はい! 吉乃ちゃーん! 起きてね! 起きないと危ないからね! 起きてね! はい! はい!」

 高性能の医療用ベッドが吉乃の意志とは無関係に、吉乃の上半身を床に対して垂直にしていく。誤飲に対する警戒。プラスチックのトレーがベッドサイドテーブルに置かれている。ヨーグルトと、具のない味噌汁。エンシュアリキッドからの、なんという進歩であることか? 看護師がスプーンで瑞奈の口に運んでいく。吉乃の口は固く、ヨーグルトの少量を載せたスプーンがその唇と唇の間をこじ開けるようにして、入っていく。

「はい! はい! よく食べられましたね! あ! お兄さん! 誤飲しないように、ベッドはしばらくこのままでお願いしますね!」

 看護師が我々の横を通り抜けて、足早に去る。廊下から、「おじいちゃ〜ん。助けてよ〜。殺されちゃうよ〜」と叫ぶ、老婆の声が聞こえる。きっとあの看護師は、今度は彼女の相手をしなくてはならないのだろう。

 吉乃はベッドの駆動のままに、今は天井ではなく、病室の壁を見ている。ぼくは離れて、それを見ている。野枝が近づき、布団を掛け直している。すぐ横に立って、吉乃と同じ壁を見ている。何のつもりだ? 長い、長い時間が、一つの宇宙の寿命が尽きるほどに長い時間が経った。足が痛い。棒のようだ。いよいよ限界という時に、野枝が吉乃に耳元で囁いた。

「何か見えるの?」

 野枝が吉乃の手にその細長い指を持つ手を重ねる。妹に触れるな、妹に近づくな、と叫びそうになるが、ああ、見よ! 見よ! 吉乃は……。微笑んでいる?

 ぼくは病室を出て、廊下のソファに座っていた。靴の爪先を観察していたのだが、その爪先に、黒光りする革靴の爪先が見えた。野枝だった。

「お前、何をした?」

「なにも……ただ――」

 視線を辿ると、そこには我が妹の病室があった。

「『神の業がこの人に現れるためである』……」

  無窮の国の草原に、一件の小さく見窄らしい教会がある。馬小屋のような。そこではパイプオルガンの余韻が、訪れる者を待って、延々と空気を震わせ続けている――そんな声で、野枝は言った。

 強い光源が彼女の背中の向こうに現れ、彼女の輪郭をはっきりとさせるのに反比例して、彼女の顔は闇の中へと沈んでいった。ぼくはこの神秘体験に一瞬、息を呑んだが、なんのことはない、その光はナースセンターから発せられているのだった。だがそれにしても、この光の極大化……いや、屈折は何なのか。

 答えはすぐにわかった。ぼくは号泣していたのだ。ぼくは一目も憚らず泣いていた。発情した猫のようにみっともない泣き声だ。冷静さを取り戻すべく、そんな自己観察をしてはみたが、ぼくを抱き寄せる者の体温を感じたなら、脆弱な反省など吹き飛んでしまう。

 ぼくは彼女のダッフルコートの匂いを堪能した。

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