第3話 鬼の娘は妖しく微笑む
虜囚生活7日目にして、ようやく動きがあった。
朝食を終えるが早いか、見張りの人に40秒で糞だしな(意訳)と急かされたのだ。
もちろんお言葉には従いましたとも。
出すものを出すと、有無を言わさず牢から引きずり出された。そしてそのまま天幕からも連れ出され、外にいた男に引き渡される。
一言二言でいいから、なにか説明があって然るべきだとは思ったものの、不満を口に出す愚は冒さない。
そもそも口がきけない体で通しているのだが。
当然文字も分からないということになっている。
この世界、読み書きができないというのは割と普通だ。
下手に教養があることを知られるよりは、無知と軽んじられる方が安全で、得るものも大きい。
知識が大きな価値を持つ環境で、それを手札として勘定しないのは馬鹿だと思うかもしれない。
だが知識とは、利用できる立場にあるからこそ価値を持つのであって、そうでない立場の者が持つ知識なんて害毒にしかならない。
奴隷に下手な知恵を付けられては困るだろう?
征服した民から教育の機会を奪うなんてのも常道だ。
希少であればあるほど、知識は武器となる。
そんなものを考えなしに振りかざせばどうなるのか。
俺は無知な子供でいたい。
天幕の外は慌ただしい。
「いいか、絶対に他の天幕には近づくな」
男はそう念押しして、手枷に繋がれた鎖を引き歩き出す。
立ち並ぶ天幕の間を人が行き交い、背負われた大荷物が揺れる。
ただ、俺たちの周囲だけは人が疎ら。
前を行く男が足を一歩前に送るたび、その進む先から人が退いてゆく。
理由は知っている。
男の肩に担がれた槍、その先端付近に括りつけられた、小振りな旗にある。
黒の民の所在を示すそれは、子供の記録の中でも頻繁に目にしたものだ。
ここでひとつ、黒の民が奴隷よりも下の身分として扱われていることについて解説をしよう。
黒の民とは、黒の月女神の祝福を受けた『人間』の末裔なのである。
名を奪われ厄神と貶められた神を、古来より奉じてきた民。敗残の民。
奴隷の身分に落とされるのも得心がゆくというもの。
しかし奴隷にすらなれぬ底辺に位置づけられるのには更なる理由がある。
それは黒の民にのみ例外なく発現する、消魔結界と呼ばれる呪い。
神からの賜りものとされる魔法を、無差別かつ無制限に打ち消す、冒涜の呪い。
この呪いは当人の意思とは無関係に、常にその身の周囲を満たしている。
奴隷になれないのも道理と言うものだ。
当然、野放しにするなど言語道断。
ゆえに黒の民は他の月の管理下に置かれ、奴隷にも劣る身分の『黒の傭兵』として、戦場のみを生きる場所と定められている。
童女の件がなくとも、俺のお先は真っ暗という夢も希望もないお話。
まあこの世界には、夢が詰まっているのかもしれない。
視界の端に、大荷物を担いで走る獣人が見えた。
たぶん獣人だ、獣を思わせる耳と尻尾が付いている。顔は人間のようであった。
子供の記録で知った気になっていたが、実際に目にすると驚きも格別だ。
獣人が?
違う、荷物の方だ。
神経質そうに、なるべくひと所に視線を固定せず、慎重に辺りを窺う。
緩みそうになる歩みに気を配る。
地球の感覚で想像してはいけない。
この世界の人は、地球の人よりも総じて身体能力に優れている。
俺は魔法なんてものが存在するからだと推測しているが、確かめる術はないだろう。
獣人はこと身体能力に秀でている。
下級の奴隷として戦場にも引っ張り出されていた。
黒の民に比べればよっぽど人間サマに近いな。
そんな彼らが担いでいるのは、業務用冷蔵庫ほどもある大きな木箱。
この世界の戦争は、魔法が存在する以外は割と原始的なのだが、こういうのを見せられると技術的な進歩が遅れるのも当然という気がしてくる。
機械化のハードルが高いのだ。
バリスタを用意するくらいなら、こいつらが扱うレベルの複合弓を作った方が、おそらく安価で柔軟だろう。
投石器なんかも、大柄な種族にスリングを持たせればいい。
いやほんとこの世界、気が滅入る。
黒の民も身体能力には恵まれている。
人間という括りで言えば頭一つ抜けている。
ただ、俺がそんな運動能力を発揮できるのかは、甚だ疑問であった。
この世界で目覚めた時、泥の中にいるように感じた体も、少しはマシに動くようになってきた。
それでも、元の自身の体に劣るのではないかという動き。
なんとも言えない違和感があるのだ。
原因は肉体にあるのではないのかもしれない。
勝手が違うというか。根本的になにかを間違えているような。
体と言えば、あれ以来、血を吐くようなことはなかった。
それと、俺の首にはどうも大きな傷跡があるらしい。
童女に斬られた時のものではない。あれは翌日の朝には綺麗に塞がっていた。
黒の民の体とは、そういうもののようだ。
これもまた、黒の民が今の身分に貶められた一因であるように思える。
天幕群を抜け、宿営地の外れへと出る。
少し離れた場所に馬車が集まっていた。荷の積み込みの真っ最中らしい。
相変わらずなにひとつ説明がないまま、その只中へと足を踏み入れていく。
馬車の幌には、所属を示すものと思しき紋章が記されていた。
もちろんそんなものの知識があるはずもない。
ただ、後々役に立つかもしれないので、できる限り細部まで頭に叩き込んでおく。
「こいつだ」
馬車のひとつを前に、男は足を止めた。
並ぶ他の馬車と比べると、少し年季が入っている。
親指が荷台に乗れと告げていた。
手枷をはめられた体で、芋虫のように這い登った。
飛び乗れと?
ふむ。黒の民の子供であれば、確かにそれくらいしておかしくない。戦闘民族みたいなものだからな。力の誇示は癖のようなものか。
でもなあ、走るのがやっとな俺にそいつは無理な相談だわ。
それにこちらの方が、小心で臆病な小物には相応しかろう。
荷台には幾つもの木箱が積まれていた。
個々の大きさはまちまちで、高さはいずれも俺の背丈には届かない。幌との間にかなりの隙間があって、なんとも落ち着かない。
馬車とは、不快な上に無駄も多いらしい。
道が剥き出しの土ではさもありなん。
はてさてどこに座ればいいのか。
座っていいんだよな?
木箱の上、ということはないだろうが。
ちらちらと男の顔色を窺いながら、箱の隙間を縫って奥まで進んでいく。
一番奥の箱の陰に、見覚えのあるものが見えた。
見たくもないものと言い換えてもいい。
小柄な僧衣。被ったフードの両脇が不自然に膨らんでいる。
思わず後退った。
「なにしてんだ、おめえ」
背後から、不審なものを見る目が俺に向けられていた。不機嫌さも匂わせている。
追い払うような手つきで奥に行けと示される。
この男はなにも知らないのだろうか。
握られていた鎖は、幌を支える木枠に繋がれていた。思ったより長かったのだな。そんな益体のない考えが頭を過る。
嫌だ嫌だと子供のように喚く胸の内とは裏腹に、足はゆっくりと奥へと向かう。
何故って、感情に身を任せたら確実に死ぬからだよ。
逃亡を図る黒の民なんてその場でばっさりだ。
この世界の命は軽い。
いや、黒の民の命が軽いだけなのかもしれないが。子供の記録では命は吹けば飛ぶような他愛ないものだった。
童女も言っていたな、子供でも人死にには慣れているって。
事実その通り過ぎて涙が出てくるね。
人権? そんな考え豚にでも食わせちまえ。
再び童女の姿が視界に入り、そのすぐ近くに短剣が置かれているのを目にする。
人権は大切だよ。豚に食わせろなんて言った阿呆は死ねばいい。
誰かこの世界で啓蒙してくれないだろうか。命がけになるだろうが。
まあ、100万人くらい捧げれば多少は根付くんじゃね。またすぐ廃れそうだけど。
おっかなびっくり、いや実際にびびってるわけだが、童女の対面の空間に縮こまるようにして腰を下ろす。
出来るだけ自分を小さく、そして分かりやすく怯えている様を見せる。
こうして場を設けられたということは、即座に殺されるようなことはないはずだ。
何度も繰り返し、言い聞かせるように気持ちを落ち着ける。
もはや自己暗示。洗脳が近いか。
童女はこちらを一瞥しただけだった。それだけで俺は震え上がりそうになるが、童女の視線はすぐにその手の本に落ちた。黄金が忙しなく左右に動き、文字を追っている。
俺の座る場所からはその本の表紙が、傾いてはいるものの、見えた。
タイトルは見慣れない単語が多い。読める部分から類推するなら歴史書か。となると、知らない単語のどれかは国名か人名の可能性が高い。
「ほう」
吐息に似た呟きが鼓膜に触れる。
本に落とされていたはずの黄金が、俺を視ていた。
「文字を知らない者は、書に関心を示さない」
独り言を思わせる小さな呟き。
「文字を知る者でも、それが読めないとあれば早々に興味を失うもの」
そういうものだろうか。
ああなるほど。子供の記録を思い出す。
日々の生活に追われる身であればそれが当然。文字を読めることに満足し、必要以上は求めない。この世界の道理だ。
その先を考えようとするのは貴種か学者か、恐らくはその辺りの恵まれた――。
またやらかした。冷汗が噴き出す。
前後の単語や文脈から、読めない文字を類推するなんてのは日常的によくやること。
そう、それはあの時代の日本での常識。この世界の常識ではない。
日本で生まれ育った俺は恵まれた者だ
書を日常的に嗜み、知を娯楽として享受する。
この世界にあってそれは、至上の贅沢となるのではなかろうか。
「読めるというならそれは、……ふむ。そうではないのか」
これはいよいよとかなんとか呟いている。
怖い、怖すぎる。
なにがいよいよなんだ。
この鬼っ子、絶対に聞こえるように言ってるだろ。
中身が異世界からのまれびとだと気づいている、などということはあるまい。
前例があるとなれば話は別だが、それを知る術は俺にはない。
言えるのは、外見に即した中身でないことが既に知られている、ということ。
まったく。笑ってしまうな。危機意識が足りないと己を分析したのは、つい先日のことだというのに。
自己暗示が効き過ぎたか。
いや、本質が顔を覗かせたというだけだろう。
眼前に生命の危機があるわけではないとの考えが、気を緩ませたに違いない。必要以上に。
元々、平和な世界で生きてきた。生命の危機を感じることなんてまずない。
耐性がないから、気を張っていないとすぐに底まで落ちてしまう。
今日まで気を張り過ぎていたのも原因だろう。
平和ボケここに極まれり、だな。
少なくとも、相手は刃物を持っているのだ。
その意思はさておき、首を切り落とされかけた。
だというのに、そこから意識を外すとか。頭がいかれてる。長生きしない。
ああ、すべてをぶちまけて楽になりたい。
もちろんやらんがね。
そんなことは下策中の下策。自ら首を差し出すのと同義だ。俺はそこまで自殺願望豊かじゃない。
落ち着け、落ち着いて考えろ。短絡的な行動は身を滅ぼす。
相手は未だこちらを推し量っている最中。投了するのはまだ早い。
さて、自分は未だ相手の掌の上に居る。
相手に与えてしまった情報はなんだ。信仰に付随する価値観の異常、死体への耐性の乏しさ、教養の水準の高さ、外面と内面の齟齬。
並べてみると酷いな。
唯一これを押し通せそうな転生者は、装うには博打が過ぎる。
輪廻に対する知識が乏しいのがひとつ。子供の記録が役に立たなくなるのも痛い。
詰んでいないか?
「蒙昧よりは、愚昧の方がまだ似合いそうですね」
これまでよりも潜めた声が囁く。
ぎょっとして落ちていた視線を上げる。
目が合うと童女はゆっくりと瞬きひとつ。再び瞼を持ち上げた時には、それまでの探るような雰囲気は霧散していた。
いやはや、これは。生きている世界が違う。
年齢も、人生経験も、前世の有無すらさして意味がない。
戦場で見つけた子供の言動が妙だった。だからどうしたというのだ。
人は普通はこんな風に他人を見ないし考えない。
煮立っていた頭が一息に冷める。
自分は大した人間ではない。
異なる文化文明に放り出されて、すっかり勘違いしていた。
化かし合いをするような人生は送ってこなかった。
蒙昧を演じるまでもなく蒙昧。それすら気づけなかった。少し笑える。
さて、無能な自分が生き残るには考えるしかない。
この童女はなぜそんな事を口にした。
脅迫。必要ないだろう。相手は圧倒的に強い立場にある。
そもそもこの場を用意した目的は。
密談。自明だ。それは何のためのものか。
正体を探るため。この俺より遥かに賢い娘がこんな形で? 必然性がない。
そう必然性がない。
ちらりと童女を窺う。どことなく挑戦的な黄金が俺を静かに見返している。
こちらの思考を邪魔する気はない、と。
試されているのだろう。機会が与えられるというのであれば、望むところである。
この様子だと、密談はこちらにとって都合がいいが、相手にとっても利があると考えるべきだ。
そういえば。
――幸いでしたね。居合わせたのが私だけで――
あの時は悪魔が囁いたのかとも思ったが。
相手にとっても、こちらの存在は秘匿したい?
まさか。在り得るのか? 無知すぎて判断のしようがない。
そうだとして、相手とはどこまでだ。
あそこには俺とこの童女との2人だけだったが、近くには少年もいた。
鍵があるとすればそれはおそらく、印検めと印なし。
印検めの際に見せた童女の反応は、明らかに妙であった。
印なし。印とは端的に言ってしまえば神の祝福の証だ。それがない。
神が実在する世界で、それはなんと恐ろしいことか。
俺は印なしではなかった。けれどそうだと思われていたのだ、あの時までは。
誰に、この童女の他にありえない。
少年は童女の言動から連想しただけである。
少年に対して童女は、元から疑惑などなかったという形で通した。
その後の行動にしてもそうだ。 俺に不要な言動をさせないよう圧力をかけてきた。
つまるところ、あのわけを知った様子の少年にすら、俺の異常性を知られたくないのだ。
いや、それだけならば、疑惑まで消す理由にはならない。
考えてみれば、始めから答えは提示されていたのかもしれない。
童女は俺の異常性を、印なしと結びつけて考えている。
疑惑をなかったことにしたのは、そこから異常性に辿り着くのを避けるため。
そして童女はおそらく、印を見てなお、俺が印なしではないかという疑いを抱き続けている。
気が付けば、そこにあることを確かめるように、指先が印のある場所を撫でていた。
童女の口もとに薄く笑みが浮かぶ。
まるで急に熱を持ったかのように、指先が胸から離れる。
いや、だが違う。そうじゃない。まだ足りない。届いていない。
これでは肝心な部分が抜け落ちたままだ!
そんな俺の焦燥には気づいているだろうに、童女は静かに本を傍らに置くと。
「この身は奴隷。卑賤の生まれではありますが、僧正様より闇月門徒の末席に名を連ねる御赦しを頂いております。とはいえ私は未だ10にも満たぬ小娘。修行の途上にあって、
愉快気に頭を下げた。
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