黒龍の意志


「すまなかった。主を思うのは其方も同じ。其方の前で緑龍に『貴様』などと、言葉が過ぎた。許せ」


 ひとしきり笑った後で、驚くほどあっさりと自身の非を認め角の生えた頭を下げた。少し、拍子抜け。


「あ、いや。私も、いきなり叩いてごめんなさい」


 少しの沈黙の後、『話を戻そう』と風鬼さんが語りだした。


「緑龍が伝えていないのであれば、我が話せばよいことだ。黒龍様を捕らえた神官について」


 そう、なんで人である神官が龍神を捕らえることができたのか。ちゃんと知りたい。


「そもそも初めに神官に捕らわれたのは、この私だ。黒龍様が捕らわれたのも、緑龍の守る地より春を奪ったことも、全ては私の不始末」


 風鬼さんの白く小さな拳が、震えるほどに強く握られている。


「私は五十年程昔、周和国の北のはずれにある河北フェァベイで人として暮らしていた。寒村である河北は、夏が短く実りは多くない。雨の多く、陽のささない年ともなれば村の民は飢え、娘は売りに出される。村を捨て別の地に安住を求めたところで、他の地からきたものがやすやすと生きていけるはずもない。それは、私が人だったころから変わらぬ」


 短く寒い夏。実らない作物。娘を売らなければならないほどの飢え。龍庭では初めての事だったけど、その恐怖といつも背中合わせで暮らす村もあるんだ。飢えにおびえた村の人たちの顔を思い出すと、背中が寒くなる。


「私が鬼となり、黒龍様に仕えてからは穏やかな気候が続いていた。だが、ここ数年短く寒い夏が続いたせいで村の民は飢え、娘たちは幼子も含めて売りに出された」


「黒龍様は従者である私の郷里の状況を嘆き、昨年の冬の終わりに龍の命ともいえる宝珠を貸し与え夏を呼んでくださった」


 夏を。なんだか少し、親近感……。


「おかげで昨年が作物は実り、売られた娘も黒龍様の力で村に帰る事ができた」


 自分たちを売った親元に、村に帰ることは娘たちにとって幸せなのだろうか。私を龍神様の供物にしようとして村人たち。私は、村長達がいなければあの村に戻りたいとは思わない。でも、他で生きてなど、いけないか。


「愚かな私は、何も知らずに感謝した。私の兄姉の子が、孫が飢えなくて済むと。非情な村でも私の育った村。滅びていくは、悲しいからな」


 兄姉の子、孫。私が美羽を守りたいと思うよりもずっと、大切に思っているのだろう。助けてほしいと思うことは、人だったのなら至極当然なことだ。

 でも、朝陽は角を失って神力を失った。きっと、黒龍様も……。


「自然の摂理を動かすなど龍とはいえ許されることではなかったのだ。本来であれば暑い夏など来ない村。そこに、暑い夏など呼んではいけなかった。愚かな私には、それが分からなかったのだ」


 そうかも、しれないけれど。


「宝珠を持たぬ黒龍様は、少しずつ弱られていった。私が気づかぬぐらい、少しずつ。帝に仕える神官が、私よりも先にそれに気づいた。神官は、あろうことか龍の能力を手に入れるため弱った黒龍様を捕らえようとした」


忌々しそうに舌打ちをする風鬼さん。朝陽は、困ったように笑っている。きっとこれが、風鬼さんが朝陽を嫌う理由なんだろうなぁ。たしかに、仲間である黒龍様が捕らえられているんだからもう少し怒ってもいいと思うんだけど。


「危機を察した黒龍様は山の奥深くに結界を張り、身をひそめた。宝珠さえ取り返せば神官の力など恐れることはないのに、宝珠を取り戻すよりも河北の地に夏を留まらせることを選んでくださったのだ。思慮の浅い我は、黒龍様が山奥に隠れ住むことに我慢がならず、怒りに任せ村に宝珠を取り戻しに行った。だが、宝珠を守っていたのは少しばかりの神力を持つ、私の兄の孫娘。彼女は何も知らぬ。神官の思惑も、黒龍様がどれだけの犠牲を払い村を守ってくださっているかも、もちろん、私が彼女の祖父の妹であったことも……。彼女から見れば私はただの鬼。夏を、飢えずに済む暮らしを奪いに来た鬼。命を懸けても、倒さねばならぬ相手。私は彼女を倒すことができず、神官の手に落ちた。国に仇なす鬼として滅せられることとなったのだ。それを知った黒龍様は、私を救うため自ら神官の結界に捕らわれることを選んだ。結界の中、それも宝珠を持たぬ黒龍様は力を上手く扱えず、今も神官の意のままとなっている」


「何度も、黒龍様を救おうと村に向かった。黒龍様に仇なすような村、滅びてしまえばいいと。だが、そのたびに黒龍様の声が頭に届く。『人を殺めてはならぬ』と」


 吐き捨てるような言葉。後悔と、人への嫌悪が入り混じっている。

 とても、とても大切な人が自分の代わりに捕らわれた。大切な人を取り戻すには、守りたいと思った人から、平穏な暮らしを奪わなければならない。どれだけの想いを抱えながら、一人でいたのだろう。彼女を、救いたい。私に何ができるのかわからないけれど、それでも彼女を救いたい。


「緑龍の妻、人の娘よ」


「はい」


「人ならざる我らが、結界を破り宝珠を奪えば村の民の命はない。人の娘ならば、結界に影響はなかろう。黒龍様の意に沿い、人を殺めずに宝珠を取り戻してくれぬか」


 結界ってそういうものなんだ。祈祷や呪術の類を私は知らない。それで、朝陽は私を連れてきたのか。視線を向けた先の朝陽から笑みは消え、私の言葉を待っている。


「私にできることは、なんでもします。だから、私のすべき事を教えてください」


 そうだ。まずは宝珠を取り戻し、黒龍様と朝陽の身体を元に戻さなくちゃ。風鬼さんの村の事は、それから考えよう。


「其方の妻は、たくましいな」


 風鬼さんが、初めて朝陽にむかって柔らかく笑った。ああ、こんな風に柔らかくも笑うんだ。


「雪花、です。雪花と呼んでください」


 私よりも幼く見えるけどずっと年上で、昔は人として生きていた。鬼となった理由はわからないが、彼女はきっと人に仇なす鬼ではない。

 自分がいた村を、兄姉の子を、孫を、今でも愛おしく思っている。

 主である黒龍様を、何より大切に思っている。


「雪花、美しい名だな」


「はい」


 私は、なんと呼んだらいいのだろう。いつか、彼女も私と仲良くしたいと思ってくれる日が来るだろうか。


 風鬼さんは、事細かに村の様子と私のなすべきことを教えてくれた。

 村を守るように植えられている杉の木には、今は鬼払いの札が張られている。その札が張られてからというもの、風を使って村を探る事ができなくなり、今では宝珠と黒龍様が捕らわれている場所もわからないという。それでも、村の中の地形を簡単に説明してくれ、結界を抜けるときに宝珠をくるむ麻の袋を貸してくれた。


「明日は風を使って山を越える。だが、あまり近くまでは風では行けぬ。村の近くでは神官に気付かれぬように、神力を消し歩くよりない」


 風は、速いのでしょうね。でも、ちょっと怖くて、かなり気持ち悪くなったんだけど……。

 急いだほうが、いいんだよね……。

 頑張ります。


「動くのは明日だ。今宵は休もう」


 朝陽の言葉に、急に体の力が抜けていく。まだ話したい事も聞きたいこともあるのに、身体が言うことを聞かず私の瞼は静かに閉じていった。崩れようとした私の身体を支えた珠樹の腕。小さなころから知っている体温に気が緩み、身体が崩れていくのがわかった。


 不意に、目が覚めた。風はそよいでいるが、目を覚ますほどの音ではない。雲の無い空にはにぎやかなぐらいに星が瞬き、下弦の月が柔らかい光を放っている。隣からは聞き覚えのある寝息。今夜は布団代わりにしていないことに少しホッとした。

 明日の朝には、ここを立つ。黒龍様が捕らわれている村までは四、五日もあればつくといわれた。もうすぐだ。


 黒龍様を欲したのは、間違いなくただの人だ。来ない春を待ち望み、飢えることのない暮らしを手にしたいと願っただけの、人。助けてくれた黒龍様を捕らえた事は許されることではないけど、でも……。

 見えなかった。見ようとしていなかった。黒龍様を捕らえた人。龍庭から、春を奪った憎い敵だと思っていた。それなのに、見てしまったら、知ってしまったら、憎みきれない。

 宝珠を取り返し黒龍様へお返しすることで、龍庭は元の穏やかな村に戻る。では、河北の地はどうなる?

 考えても、出ない答え。答えの代わりに、涙がにじむ。


「怖いか?」


 静かな柔らかい声が、背中から響いた。朝陽、起きていたんだ。


「怖い、のかな?うん、少し怖いのかも。でも、大丈夫。ちゃんと黒龍様の宝珠は取り戻すから、心配しないで」


 声の震えを抑えるのが精一杯で、笑って見せることはできない。沈黙が背に刺さる。空気に身体がつぶされそう。


「朝陽、眠ってなかったの?」


 なるべく明るい声をだし、勢いをつけて起き上がる。


「ああ、月を見ていた」


 月明かりの中で、朝陽はゆったりとした声を出す。眠るときには朝陽の隣にいたはずの風鬼さんは、見当たらない。


「風鬼は、別の場所で休んでいる」


 そうなんだ。それなら、と朝陽の隣に腰を下ろす。昼間から、ずっと気になっていたことがある。


「朝陽。風鬼さんと、何かあったの?」


 風鬼さんの視線、口調は明らかに朝陽に敵対心を持っている。誰にでもそうなのかとも思ったけど、私には結構打ち解けてくれたし、珠樹には無関心。何かあったのなら、これから一緒に過ごすのだから聞いておきたい。


「彼女がまだ鬼になる前、彼女の故郷に暑い夏を呼ぶことは意味がないと言ったことがある。それが、気に食わんのだろう」


 私から視線を外し、笑いながらの答え。朝陽に目をそらされるのは、初めてだ。聞かれたくないことだったのだろう。


「雪花の事は、気に入っているようだ。仲良くしたらいい」


 柔らかく笑う朝陽が、少し遠くに感じる。


「横になった方がいい。明日は、風鬼の風に乗る。今日よりも、長く荒い移動になるぞ」


 今日よりも、長くて荒い移動、かぁ。半日かけて歩いた距離を一瞬で飛べた。でも、宙に浮いた時の不安、落ちるときの衝撃は、あまり体験したいものではない。明日しか飛べず、その後は歩くことになると聞いてホッとしたのは、内緒にしておこう。


 眠りなさい、と背中を押されて珠樹の隣に横になる。聞きたい事はあるのに、聞けない。

 黙って月を眺める朝陽が、寂しそうで切なそうで、美しかった。



「やっと、峰は越えたな」


 何度目かの着地に、珠樹が溜息を洩らした。

 風鬼さんの風では三人を長い距離運ぶことはできないらしく、風に乗って短い距離を飛び、着地。すぐにまた風に乗り、を繰り返していた。当然、何度も飛ぶことで浮遊感も着地するときの落下感も数が増え、朝陽に支えられている私でもこれ以上は遠慮したい。

 一瞬で村長の家まで移動した朝陽は、やっぱり龍神様なんだなぁ。


「ここから先は神力を抑えて進まねばならない。人に会わずに済むよう気配を探る。少し待ってほしい」


 助かった、と思ったのは珠樹も一緒だろう。ふぅっと、短い溜息が聞こえた。風鬼さんはそれを急いての溜息だと思ったらしく、もう一度『待ってほしい』と懇願された。真意に気付いている朝陽はクツクツと喉の奥で笑っている。


「朝から通して飛んでいるからな、二人は人だ。どれだけ急いても休息は必要だろう」


 笑いを堪えながらも、風鬼さんと私達との違いを示してくれる。これからの事を思えば、風鬼さんに違いを知ってもらうことはありがたい。


「……そう、だったな。すまなかった」


 無表情で、風を読むために藪の中へ姿を消した。私達の体力では、風鬼さんには迷惑でしかないのだろう。これで黒龍様の宝珠を取り返すなんて、ふざけているように思われても仕方がないのかもしれない。


「自分が人ではないことを自覚したのかもしれないな。雪花が気にすることはない」


 風鬼さんが消えていった藪を見ながら、朝陽が柔らかく笑う。昔、人として暮らしていたと言っていた風鬼さん。人ならざる者となった理由は、きっと私なんかが踏み込んでいいことではない。


「雪花が、気にすることはない」


「珠樹?」


「朝陽がそう言っただろ?俺達には何もわからない。だから、言われたとおりにしよう」


 風鬼さんが消えていった藪をまっすぐに見つめている。珠樹と私は、昔から感じ方がよく似ている。きっと、今も同じことを考えていたのだろう。

 確かに、何もわからない。触れてほしくないことなのだろうから、言われたとおりに気にしないようにするのが一番なのかもしれない。


 風鬼さんが風を読み、選んだ道は、道ではなかった……。

 これまでは、方向こそ朝陽が決めたが道を選んだのは珠樹。確かに、人の通らない険しい道を選んではいた。それでも私が行ける程度を知っている珠樹が選んだのは、人が歩ける場所。それが……。

 岩肌の崖を滑り降り、腰をゆうに超す藪をかき分け、先を阻む川を迷いなく渡っていく。先を行く朝陽に幾度となく助けを求めた。そのたびに朝陽はクツクツと笑って、私でも勧めそうな場所を探して、足の運び方まで教えてくれる。

 私の後ろにいる珠樹にもよく聞こえるように……。

 またか、と言わんばかりの風鬼さんの視線が痛いけど、風鬼さんと同じようには進めない。

 『無理はしなくていい』と言ってくれる朝陽に甘えきって、珠樹と二人、すっかりお荷物になっていた。

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