The finish line
この国の神様は、人間の世界に天使を隠す。
そう言い伝えられて幾100年が経っただろうか。
その始まりを正確に知るものは誰も居ない。
少なくとも、今では誰もそれを知らないと信じられている。
「リュミエールまで」
朝陽の射し込み始めた小さな駅の窓口でそう告げると、駅員はハッとしたように僕の顔を見上げた。
この駅で何度か見た顔の駅員は、少し見ないうちに幾らか老いていた。
以前この駅に来たのはいつだったろうか。
最後に僕が目にしたこの駅員は、確か初老と呼ぶに相応しい歳頃だったように思う。
それが今ではすっかり老人としか述べられない、痩せた姿になっていた。
「おじさん、いつまで駅員を続けるの?」
思わず駅員にそう声をかけると、彼は少し驚いたように目を丸くし、直ぐにシワを寄せて優しく微笑んだ。
「跡継ぎが出来るか、貴方達が天国へ行かなくなる迄さ、天使様。」
駅員は窓口の椅子からゆっくり立ち上がると、机に仕舞われた何本かの鍵を取り、ストーブの燃える暖かい駅員室の扉を開けた。
おお、寒い寒いと身を固くして僕の隣に並び立つ駅員の背は、記憶にある姿よりもいくらか縮んでいるように思われた。
12月のさびれた駅には僕らの他に誰も居らず、吹きっさらしのホームには、気まぐれに北風が舞い込んでいた。
夜が開けてなお灰色をしている空を見れば、既に雪がちらついている。
「アンタがはじめて天国へ行った日のことは覚えているよ。」
駅員は藍色のコートからタバコを取り出し、習慣じみた仕草でタバコをくわえると、マッチを擦った。
「きれいな子供で、まさに天使だった。」
マッチの燃える匂い。
そして直ぐに、煙の匂いが漂い始める。
「今の僕は?」
ちょっと不思議な気分になって、僕はそう口にした。
子供時代を思い出す時、不意に顔を出す卑屈な気持ちが、クセのように言葉の端から滲んでしまった事に気が付いて、少し恥じた。
あの頃の僕は確かに天使だった。
美しい黒髪に鳶色の瞳をして、その年頃にしては賢く、得意の歌を口遊めば誰もが僕を賞賛した。
そうしていつしか、周囲から天使と呼ばれるようになった。
幼かった僕は、自分を特別な存在と信じ疑わなかった。
僕は駅員の顔をじっと見つめる。
「きれいな人だよ。」
駅員はそう言って、また微笑んだ。
彼の優しく思慮深い瞳が、年輪のように刻まれたいくつものシワが、老木のような華奢さが、僕を酷く安心させた。
二の句を継げなくなった僕は、駅員からタバコを一本貰うと、マッチを二、三回と箱に打ち付け、タバコの頭を火に寄せて静かに息を吸い込み、口の端から煙を上げた。
僕は、それを美味いとも不味いとも思わなかった。
駅員も、それ以上何も言わなかった。
タバコが吸口を残してすっかり煙に変わってしまってから程なくして、コンテナ二台を積んだ貨物列車がホームに滑り込んで来た。
文字通り静けさを切り裂くように線路の鳴く音は、錆び付き、刃毀れしたナイフを思わせた。
駅員はどこかロボットのようにぎくしゃくとした歩みで列車へ近付き、二重にかけられたコンテナの重たい錠前を開くと、さあどうぞと入口を開いた。
僕は鞄の持ち手をしっかり握ると、コンテナの扉を開き、そそくさと乗り込む。
「行ってらっしゃい、お気をつけて。」
その言葉を最後に、駅員はコンテナの無愛想な金属扉を重たそうに閉じた。
コンテナの扉が閉まると、一気に外の世界が遠くなるように感じられた。
外から硬い鍵の音が小さく2回聞こえると、駅員が離れていく足音が微かに聞こえた。
列車はまだ発車時刻でないのか、先程の轟音が嘘だったかのように沈黙している。
僕は深呼吸を一度して、ため息をつくと荷物をベッドサイドに注意深く置いた。
薄汚れ、錆び付いた見た目に反し、コンテナの中は高級ホテルのように誂えてある。
はじめてこのコンテナに足を踏み入れたあの時から、何一つとして変わった物は無かった。
僕はコートを脱ぐと、設置されたベッドに潜り込むなり直ぐに微睡んだ。
ディエゴの手紙を受け取ってから、精神的に参ってしまったのか、漫然とした疲れがあった。
きっとこの眠りが覚める頃には、天国に到着している事だろう。
僕を乗せた列車は、錆び付いた音を立てて線路を滑り始めた。
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