第10話 大義 親を滅す

皇祖皇宗の神霊の杜に、強い風が吹き付けた。

大きな古木の枝が擦れ合い揺らいだ。

桜の花びらが渦を巻いて天空へと登って行った。



営門の薄暗い外灯に照らされて、ひらひらと雪が舞っていた。

一つの窓から、柔らかな灯りが漏れていた。

安藤は、週番司令室で野中大尉と向かい合っていた。


「安藤・・・ 遂に来るべき日が来たな」

野中は、ぶら下げて来た白ワインの栓を抜いた。

「これは、親父の部屋から失敬したドイツ産の特上ワインだ」

そして、持参したワイングラスを安藤の前に置いてた。

「維新の成功を祈って乾杯しようじゃないか」

野中は、透明のワイングラスに澄んだ黄金色の液体が注いだ。

「乾杯!」

グラスを差し出したこの二人の同憂は、見つめ合い微笑んだ。

「こいつあ 美味い! 五臓六腑に染みわたるようだ!」

思わず、安藤が漏らした。 

二人の冷えた身体に、熱い血潮が廻って行った。

この束の間、この同憂は親友へと戻っていた。

立て続けに3杯飲み干した安藤は、納得したかのように我に帰って、

「野中さん ぼつぼつ連隊命令の下達にかかります」

野中も我に帰り、

「じゃあ 総てよろしく頼む! 俺は中隊に帰って待機してる」

野中は、静かに立ちドアのノブを回した。


昭和11年2月26日 午前1時頃。

第6中隊長室に、永田曹長を始めとする下士官11名が集まった。

安藤の机の後の壁には、額装された ”天空海闊てんくうかいかつ” と書かれた書が掛けてあった。

”天空海闊” 晴れわたる大空、広々とした大海のように、度量は大きく、こだわりを持つなと言った意味である。


「昭和維新を断行するため 歩1 歩3 近歩3を主体とする行動部隊は 明早朝を期し 要路の顕官重臣を襲撃し 以って国内の暗雲を一掃せんとす 当第6中隊は 侍従長鈴木貫太郎閣下の襲撃を担当する 攻撃開始は明朝5時・・・」

下士官達は、唇を噛みしめ安藤の顔を凝視していた。

安藤は、静かな口調で続けた、

「諸官の中に その信ずるところによって 中隊長と行動を共にすることは出来ないと考えてる者は 遠慮なく立ち去って欲しい それは絶対に卑怯ではない むしろ勇気ある行動だと思う これから2分間 瞑目の時間を与える その間に立ち去りたい者は 静かに部屋を出て欲しい・・・ 瞑目!」

沈黙の時間が流れた。

安藤は、ゆっくりと目を開いた。

誰一人として、部屋を出て行った者はいなかった。それどころか、皆、開胸を張って立っていた。

その爛々と見開いた眼とグッと唇を噛み締めた表情は、安藤の心に石清水のように染みわたった。

「みんな! 本当に良いのか! この安藤と行動を共にしてくれるのか!」

「はい!」

11名の力強い声が響いた。

「そうか! ありがとう・・・」

安藤の眼に熱い涙が、湧き出て来た。

「俺は なんと幸せな男なんだろう・・・ 本当に ありがとう・・・」

皆、安藤を心から尊敬していた。

「これが軍隊だ 信頼ある士気こそ軍隊の要だ」

安藤は、改めてそう確信した。

しかし、この時の安藤の心の中には、責任者である以上自分の家族を犠牲にするのはやむを得ないが、部下の家族を敢えて不幸にさせるのは忍びないと言う葛藤が支配していた。


「鈴木侍従長閣下は 私の最も尊敬する武将である 去年 直接お会いして その深いお考えをお聞きした ここに掲げてある 天空海闊の書は 閣下にお願いしてしたためてもらったものだ 私が邸内を熟知している事から我が中隊の襲撃目標になった事は誠に天命としか言い表せないが・・・ 勿論 私は 閣下を目標から外すよう訴えたのだが すでに決定事項であった為に 私の意見は却下された・・・」

安藤は、苦しい胸の内を隠すことなく部下達に告白した。

「しかし! 大義 親を滅すだ! この際 目を瞑り昭和維新の人柱になって頂けねばならんのだ 諸君! どうか私の苦悩を察して貰いたい 絶対に閣下ご夫妻に対しては 無礼な事が無いように心がけて欲しい 立場こそ違えども閣下も同憂である 特に 無残な最期をお遂げになるような事は絶対にあってはならない・・・ 非常呼集は午前3時とする ただし ラッパなど吹かず 兵は 口頭で起こすように

する また 兵に対する出動目的の説明は 攻撃開始直前に私が行う 以降 我々中隊は いかなる事態になろうとも鉄血の団結を維持し 旺盛な士気のもと整然たる行動をとるように要望する」 


そして最後に安藤は、部下にこう言った。

「武士道精神だけは忘れないように! 当初の目標は靖国神社とする 解散!」



灼熱の太陽の下を、ワゴン車が走っていた。

「靖国が見えて来ました」

ハンドルを握った北澤が呟いた。

千葉は、車窓から靖国の杜を眺めた。




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