第9話 草莽の志士

伊勢神宮 内宮。

春の朝の柔らかな木漏れ日が、玉砂利を敷き詰めた長い参道を照らしていた。

男達は黙々と歩いていた。


「率先垂範だな」

千葉が、部下を憂うる近藤に呟いた。


率先垂範。

自衛隊においては、幹部の心構えの一つである。

「人の先頭に立って物事を行い、模範を示すこと」と言う意味である。

「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」

連合艦隊司令長官山本五十六が、上司の命令に絶対服従の軍隊にありながら、自ら率先することの重要性を唱えていたことから、自衛隊では良く使う言葉である。


「お前が、それを言うとわな」

近藤が呟いた。

「えっ?」

「お前、それ、1年の時何て言ったか覚えてるか?」

「1年の時?」

「率先垂範とは何か? 教官に聞かれた時さ」

「何て言ったっけ?」

「誰よりも先に 飯を炊く事です!って自信満々に言ったじゃないか」

近藤が微笑んだ。

「あの鬼教官が、笑ったの見たのあれが初めてだったな」

「そうだったな」

千葉も微笑んだ。

「率先垂範するにしても 俺達にも初めての事だどうすればいい?」

近藤が呟き立ち止まった。

「それが幹部のつらいとこだな」

千葉が微笑んだ。

ひらひらと、桜の花びらが二人に落ちて行った。



昭和11年の2月になったばかりの頃、第7中隊長の野中大尉が安藤を訪れていた。

陸軍士官学校36期生の野中は安藤の2期先輩にあたる。


「俺は、中隊を率いて参加することに決めたよ」

野中のその言葉は、安藤を愕然とさせた。


野中四郎は、現役陸軍少将を父に持つ、典型的な武人である。謹厳実直で率先垂範、黙々と任務をこなす野中の姿に安藤は尊敬の念を抱いていた。しかし、この時の野中は在京革新将校の集会にはほとんど顔を出してはいなかった。

安藤は、急進派の磯部浅一や栗原安秀らが主張する武力によるクーデター計画に対して強硬に反対していた。野中もまた、安藤の考えに賛同していた。それ故に、この野中の言葉は安藤にとって青天の霹靂であった。

野中が動いたのは、第1師団が今年4月以降、北満州に移動する事が決定され、昭和維新断行のチャンスは今しかないと言う状況になったからだった。

安藤とて、昭和維新への情熱は誰よりも強く持っていたが、その手法においては明瞭に一線を画していた。安藤は、軍隊指揮権を行使して兵力を動かすと言う事に異論を唱えていた。

天皇陛下の軍隊、皇軍を、みだりに私用することは、反逆であり絶対に避けなければならない。昭和維新は、同志たる将校、下士官、兵が軍服を返上して、幕末、官に仕えず汚れなき眼で日本の夜明けを夢見た「草莽の志士」となることだ。安藤は、この信念を貫いていた。

もし、この信念で安藤が起こせば551事件のように線香花火にならないと言う自身が彼にはあった。しかし、それには時間が必要であり、時期が熟すのはもう少し先であった。

とにかく、安藤は天皇陛下から預かっている軍隊の出動は正面切って反対であった。

それが、尊敬する野中のこの一言で彼の運命が一変したのであった。


安藤は、深々と窓の外に降る雪を見つめ子供の頃を思い出していた。

ある大雪の日。

安藤は、兄弟達と庭の雪を転がして雪だるまを造った。それを見ていた母は、タドンの炭で雪だるまの顔に目を付け、炭で眉と口を付けた。安藤は、その間が抜けた顔を思い出して微笑んだ。


深々と降り続く雪。


数日後、庭の雪だるまは溶けて無くなっていてタドンと炭だけが残っていた。それを見た母は、微笑んでこう言った。

「雪はすぐ水になって消えてしまうでしょう でもね お目目のタドンと眉毛とお口の炭は残って長い間 お前達を温めてくれるんだよ」

安藤は、その優しい母の顔を思い出していた。


「雪 降れば降れ! 雪 やめばやめ! その時 我が肉体が雪のように溶け去ろうが 我が魂 真っ赤に燃えるタドンの様に日本国民の心を温め続けよう!」




伊勢神宮 内宮前。

男達は社殿を前に立ちつくしていた。

誰もが、手を合わせる事が怖かった。


「あの時 お前 よく言ったな」

近藤は千葉に言った。

「えっ?」

「我 狂か愚か知らず 一路ついに奔騰するのみ」

「ああ・・・ あの時 ふと思い出したんだ」

「これが 狂か愚か 知るのはここにいる神様だけだな」

「そうだな・・・」

「でもな 千葉 本当にこれが是なのだろうか?」

「是?」

「ああ 俺達は公務員だ 公務員が政府に楯突いいてもいいんだろうか いくら幹部でも 勝手に部下を動かして国の装備品を使って楯突いてもいいんだろうか」

「近藤 俺達は政治家に統制されてるけど 俺達も部下達も国民の奉仕者だ 戦車も飛行機も船も国民血税で買った国民の物だ これは国民の為にやるんだろう 俺達は国民の自衛隊だ そう解釈したらどうかな」

「国民の自衛隊っか・・・」

近藤が呟いた。

千葉は、近藤の眼を見つめて、

「ああ あの頃の様に 天皇の軍隊ではない 国民の自衛隊だ」

「あの頃?」

「226・・・」

「そうだったな・・・ でもな 千葉 これを本当に国民は望んでるのだろうか? あの事件の様に ただ 日本の経済 国民の生活を乱すことになるだけじゃないのかな」

「これが 狂か愚か これが是か非か判らんけど 我々の任務は この国の平和と独立を守ることだ 国民の生命 財産を守ることだ きっと国民も是であると思ってくれるさ 今は そう信じるしかないじぁないのかな」

「そうだな・・・ すまん!」

近藤が頭を下げた。

「えっ?」

「この期に及んで まだ迷ってた」

「仕方が無いさ 生死を賭けた 初めての事だからな」

千葉が微笑んだ。

近藤も微笑んだ。


そして、二人は目を閉じ 静かに手を合わせた。



「千葉?」

「何だ?」

「あの磯部さんって言う人 本当に信じていいんだろうか?」   



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