第38話 二人のビワイチ

 七月の日曜日、朝七時。二年前に琴が出発した駐車場。今日も爺様が琴とゆりと二台の自転車を運んでくれた。

「ま、何かあったら電話して。車で迎えに行けるから」

「うん、有難う爺様」

「ゴールの時間にまた橋の料金所あたりにお迎えがいるから」

「うん、有難う爺様」

「じゃ、気をつけてね。無理しないで。ゆりちゃんは特にね」

「はい、有難うございます」

こうして、琴とゆりはビワイチに出発した。ゆりは初めて、琴は二年ぶりだ。

「暫くは道なりにずーっと行くだけなんだ」

「ふーん、でも気持ちいい道だねえ」

守山市を過ぎ、野洲市を過ぎ、小さな山を越えて近江八幡。道沿いには、また黄色い花が咲いていた。

「これってね、きれいだけど外来種で増えて大変なんだって」琴は二年前に聞いた事を解説した。

「へえ、外来種って何でもどんどん増えるねえ。日本のは繊細だから負けちゃうね」

彦根市に入り、琴は休憩を提案した。湖岸に沿った東屋みたいなところだ。すっと琵琶湖が見渡せる。

「はあー、広いねー。琵琶湖は海だ」

「ゆり、私と同じ事言ってる」琴は笑った。

「だって、それしか出てこないよ、これ見たら」

時折、ビワイチの自転車が通り過ぎる。琴は、前回と同じ、長浜の豊公園で再度休憩を取った。

「長浜ってさ、ガラス細工とかオルゴール館とかあるとこだよね」ゆりが言った。

「へえ、全然知らない」

「秀吉が商業を盛んにしたんだって」

「医者なのによく知ってるね」

「まだ医者じゃないけどね。中学生の頃に来た事あるんだ。倉敷にちょっと似てる」

「そうなんだ。じゃ、寄ってみる?」

「ううん、そんな時間はないよきっと。コトの方が判ってるでしょ、時間配分」

「ああ、そうだった。ゆりが居ると何だか任せちゃってついてゆくだけになっちゃうなあ」

「このコースは初心者なんですからお願いしますよコト様」

「あいあい、じゃ出発」

二人は湖岸沿いを走り、やがてみずどりステーションに到着した。

「ここでお昼だよ」

「まだ十一時前だよ。ブランチだよね」ゆりが言った。

「私も前回同じ事言ったー。でもここから先、マキノまであんまりお店がないんだよ」

「ふーんそういうことなのか。やっぱ何も知らないで来ると危険だわね。景色じゃお腹いっぱいになんないし」

一時間弱休憩し、二人は出発した。

「コトに引っ張ってもらうって、結構楽でいいなあ」

「あんまり楽観視しない方が良いよ。ここから先は結構ややこしいんだ。ここで右に渡るよ」

「はいはい、地面に書いてあるわ」

「うん、そこのトンネルの歩道は右が広いんだよ」

「あーそう言う事ね。それ言われないとあっちの村の中に入って行っちゃうなあ」

「そういう細かいところがガイドが必要なところだよねえ。コウヘイさんに言われなかったら私も判らなかったし」

「コトも成長したねえ」

「ゆりに言われると嬉しいよ、正直」

間もなく二人は前回琴が恐怖のパンクを味わった山道に入って行った。

「結構坂だよー」と琴。

「おう、刺激になってよろしい」とゆり。

息を切らせながら登るとあの『お化け屋敷トンネル』が待っていた。

「カワセミちゃん、トラウマになってないといいけど」

「何の話?」

「前回さ、あのトンネルの中で、カワセミちゃんパンクしちゃって大変だったの」

「え?そんな事があったの?」

「うん、コウヘイさんがいたから素早く治って良かったけど、私一人だったらパニックだった」

「ふーん」

「真っ暗だからさ、覚悟して入った方が良いよ」

二人はトンネルに突入した。

「うきゃー本当に真っ暗だ。それに長いよねトンネル」ゆりもびっくりだった。

「でしょ、お化けのヨダレかナミダかが落ちて来るからそれも気を付けた方が良いよ」

「なんだよそれ、本当にお化け屋敷じゃん。お化けちゃーん、食べるならコトの方が美味しいよー」

「ちょっと何言ってるのよ!本当に来たらどうすんの?」

「はは、コトかわいいー」

きゃーきゃー言ってるうちにトンネルを出て、二人は絶景ポイントに到着した。

「うわー、きれい!」ゆりも叫んだ。

重なる島々。穏やかな湖面。水鳥が浮かび、潜り、そして飛び立つ。ここからは見えないが、水中では水草が揺れて、小さな魚がその間をすり抜けて、刻々と時間が経ってゆく。人々が何を騒ごうが、ずっと昔からある自然の営みがそのままそこにあった。

「心の休憩ポイントなのよ」

「うん、コトは詩人だねー。さすが文学部」

「英語専攻だけどね」

「いいのよ、詩心に国境はない」

「はいーっ」

そろそろ疲労を感じ始めている二人だったが、何とかマキノまでやって来た。


「ゆり、足の方は大丈夫?」

「まあね、ちょっと悲鳴あげてるけど新米筋肉たちだから鍛えなきゃ」

「ヨシノさんみたいだねー」

「あたしは自分に厳しいだけだよ。あーでもここの浜辺ってリゾート感あるねえ」

「近くのホテル、昔はプリンスホテルだったんだって」

「ふうん。本当のリゾートなんだ」

「結構別荘もあるのよ。お医者様になったら是非一軒お持ちになって、私を招待して下さい」

「うん、じゃあ家事よろしく」

「そう言うんじゃなくてさ、ゲストとしてだよ」

「コウヘイさんもヨシノさんもみんな来そうだな」

「カフェ・ワッフル琵琶湖支店みたい」

「楽しいかもね」

「うん。ゆりのお蔭で一杯知り合い増えて良かったよ」

「自転車で広がる輪 だね」ゆりは大きく伸びをした。

「さってー、コト様 次行きますか」


マキノからは高島市街地まで湖周道路沿いを南下する。白髭神社の湖中鳥居を見て、JR線沿いを右往左往し、志賀駅付近から湖岸沿いの道を走った。

「多分この方向に行ってれば大丈夫だと思うんだー」

「コトに従うしかないからお任せするよ。けど普通の道は飽きちゃうねー」

「うん、そこの公園で休憩しよう」

二人は石ころが並ぶ小さい緑地に入った。

「あと、どれ位?」

「まだ十キロ位あるかな」

「やっぱ、長いな。あ、ハンググライダー!」

ゆりが指さした先には、背後の山から滑空してきたハンググライダーが飛んでいた。

しばらくそれを眺めていた琴が突然言った。

「私さ、国際線のパイロットになろうかと思って」

「え?パイロット?マジで? だって文学部でしょコト」

「うん。ずーっと前にゆりが言ったんだよ。ゆりが医学部目指すって言った時に、琴だって国際線のパイロットになりたいかもって」

「え、そんな事言ったっけ?」

「うん、実はそれ聞いてからずっと心の中にあったんだ。悪くないなって。でも言い出すと受験も滅茶滅茶になりそうだったから、大学行ってからでも間に合うかなって伏せといたの」

「ふーん、航空科みたいなところじゃなくても行けるのかな」

「ちょっと調べたら、大学卒業して、航空会社に入る時にパイロット志望で入ればなんとかなるみたい」

「そっかー。コトがパイロットなんて、さすがはタカラジェンヌ落ちこぼれだねー」

「それは誉め言葉なのかな?」

「そうだよ。落ちて良かったかもだよ」

「うーん。パイロットは落ちるって嫌がるけどまあいいか」

「コトがさ、パイロットになって、あたしがその飛行機に乗って、急病人が出たら、機内にお医者様いらっしゃいますかーってアナウンスしてね。あたしがやっつけたげる」

「あ・ありがとう。やっつけるってちょっと不安だけど」

「さ、行くかキャプテン!」

「はいよドクター」


パイロットか…、きっとコトならサラッとやってのけるに違いない。ゆりは琴が初めてショップでロードバイクと対面した時のことを思い起こした。たった三年前の事なのに、これで琵琶湖二周目だよ。コトはきっと世界中の人たちを運んで、愛情や喜びや驚きを演出し、それから時々、哀しみに寄り添ったりするだろう。あたしは、あたしの腕を必要とする人たちを片っ端から治療して、三年前のあたしのように元の日常に戻ってもらいたい。だからコト、そういう人たちも、世界中からあたしの所へ運んできてよ。

ゆりは前を走る琴の背中を見つめながら、二人の未来を思い描いていた。


二人は数キロ走って湖に突き出た河口の所にやって来た。琴には懐かしい場所だった。


砂浜には波が繰返し打ち寄せている。湖面の向こうには沖島と対岸が重なって見える。

あそこを通ってきたんだ。琴は小さく溜息をついた。

まだ終わってないけど、ゆりとここまで来れたんだ。

「コト、左見てごらん。湖北が霞んでる」

「ホント、遠くになってるねー」

「あそこ走って来たんだね」ゆりが言った。

「自転車再開して三ヶ月で走れたって凄い事だよ」

琴は言った。それに、一人じゃないって素敵な事だった。

「よーし、琵琶湖大橋はすぐそこだよ。ラスト行くよ」琴は声をあげた。

二台のロードバイクは路地裏をゆっくり走り、道の駅の脇を抜けて琵琶湖大橋の袂に着いた。


「さ、今日はこの橋がゆりのWinning runだよ。だから先行って」琴は言った。

ゆりはゆっくりと、ギアを落として坂を登り始める。弓なりの橋を上がって下ればゴールだ。

やったじゃん、ゆり。いろいろあったけど本当に完治だ。いつの間にか頬が濡れて、下りの加速で涙が吹き飛ぶ。

ゆり、私はゆりに支えられて、ほんの少し私がゆりを支えて、お互いさまって、これからもずっとそうだよ。一人じゃないって素敵なんだから。


下り切った先の料金所。ゆりはハンドサインを出して減速した。その指先がすーっと前を指す。料金所の先に人影があった。


あれ?ゆりが白衣を纏って、その背中の向こうに、え?女の子?


その光景は一瞬で揺れて、瞬きとともにサイクルジャージの背中の向こうのヨシノさんとコウヘイさんになった。

手を振っているのがまだぼやけて見える。

幻じゃないよ。きっと未来が見えたんだ。琴はそう言い聞かせ、最後のブレーキを引いた。

                               【おわり】

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コトの風 @suzugranpa

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